第十八話 俺も危なかったらしいです
翌日も俺は手を洗った。
小さな石鹸を使い、青い紐の水壺から水をかけてもらい、手拭き用の布で水気を取る。
扉はミーナが開けた。俺は何も触らず、両手を胸の前で固めたまま部屋に入る。
母上は昨日と同じ椅子に座っていた。
「あなたも、これくらい小さかったのよ」
母上がリリアを見ながら言った。
俺は母上の腕の中を見た。腕の中にはリリアがいる。今日も布に包まれたまま静かに眠っている。
顔だけが布から少し出ていて、頬はぷっくらとしていてやわらかそうだった。鼻はあるのか分からないくらい小さく、息をするたびに布の端がほんのわずかに動く。
首も、腕も、指も、まだ何もかも小さい。
泣くことはできても、寒くても苦しくても汚れていても自分では何も変えられない。
誰かが抱く。
誰かが拭く。
誰かが布を替える。
誰かが乳を飲ませる。
赤ん坊は、そうしてもらわないと生きていけない。
「俺も? こんなふうにですか?」
「ええ。生まれたばかりの赤ん坊はみんな小さいもの」
「……壊れそうです」
「そうね。だから大人は壊れないように抱くの」
俺は、改めて母上を見た。
母上は椅子に座り、リリアを腕の中に抱いている。いつもより髪の結い方がゆるい。頬の色も少し薄く、目の下には細い影があった。
それでも、リリアを抱く腕に疲れは見えなかった。
片方の腕で小さな体を支え、もう片方の手で布の端を整えている。リリアが息をするたびに動く布を見ながら、ほんの少しだけ指を添える。
リリアの首が傾かないように。
布が口元へかからないように。
腕の中で体が沈みすぎないように。
母上は何度もそうしていたのだと思った。
俺が気づかなかっただけだ。
赤ん坊は、ただ抱かれているだけではない。
抱いている人が、ずっと見ている。
息をしているか。
苦しくないか。
冷えていないか。
布がずれていないか。
俺が汚れを見ている間、母上はリリアの息遣いを見ていた。そのことに今さら気づいた。
「どうしたの?」
母上は俺の視線に気づくと、少しだけ首を傾げた。
「……母上は、ずっと見てるんですね」
「そうね。見ていないと心配だから」
その言い方は俺が水や布を見る時のものに少し似ていた。
「あなたも少し前までずいぶん弱っていたのよ」
母上がふと思い出したように言った。
俺は顔を上げた。
「俺が?」
「ええ。熱は下がったのに、なかなか元に戻らなくて。少し食べては眠って、起きてもすぐ疲れてしまって」
母上の声は静かだった。
大きな出来事を語る声ではない。
昔あった心配を今になって少し思い出したような響きがあった。
「朝になってもなかなか目を開けない日もあったの。眠っているだけだと思いたいのに、息が浅くて、手が冷たくて……」
背中が一瞬、ひやりとした。
母上はリリアの布を撫でながら続ける。
「小さな子どもはそれだけ危ういのよ。熱が下がったから大丈夫、というものでもないのね。あの時のあなたも戻るまでずいぶん時間がかかったわ」
「……熱」
朝になっても目を開けない。
浅い息と冷たい手。
俺は自分の手を見た。
石鹸で洗い、ようやく小さな手に触れた。この手は少し前に冷たくなったことがあるらしい。
俺にはその頃の記憶がない。
三歳の朝、俺は妹の産声を聞いて前世を思い出した。
でも本当に、ただ思い出しただけだったのか。
熱が下がったあと。
体が戻らなかった時期。
朝になっても目を開けなかった日。
そのどこかで、何かが途切れたのではないか。
今の俺は、そこで浮かび上がったのではないか。
濁った水を一日置いた時のことを思い出した。
底に沈むものと、上に浮くものがあった。
混ざっていたものが、時間を置くと分かれていく。
俺の中でも何かがそうなったのかもしれない。
死んだ。
そう言葉にすると胸が詰まった。
大人たちはたぶんそうは思っていない。
弱っていた。
危なかった。
戻るまで時間がかかった。
そのくらいの記憶だ。
けれど俺だけは、少し違うところを考えてしまう。
あの時、アルノは目を覚まさなかったのかもしれない。だから前世の俺が、沈んでいた記憶ごと浮かび上がったのかもしれない。
俺も、この世界で危なかった。
いや。
たぶん一度死んだ。
「怖がらせたかしら」
顔を上げると、母上が俺を見ていた。
「……少し」
「ごめんなさい」
「でも、聞けてよかったです」
母上が目を細めた。
俺はリリアを見た。赤ん坊は簡単に壊れそうで簡単に遠くへ行ってしまいそうに見える。
俺もそうだったのかもしれない。
高い熱でも。
熱が下がったあとでも。
水でも。
布でも。
手でも。
何が原因か分からないまま子どもは危うくなる。
分からない。
だから怖い。
母上が、昨日と同じようにリリアの手を少しだけ布の外へ出した。
俺は手を伸ばした。同時に、リリアの指がふにゃりと動いた。また俺の指先に触れた。
俺もこうして息をしていたのだろうか。
誰かが、手が冷たいと言っていたのだろうか。
朝になっても目を開けない俺を母上はこうして見ていたのだろうか。
「――アルノ?」
母上が呼んだ。
俺はリリアの手に触れたまま答えた。
「……なおさらです」
「何が?」
「俺は、これからも手を洗います」
母上が少しだけ驚いた顔をした。
ミーナも横でまばたきをした。
「水も分けます。布も分けます。嫌なところは、嫌だと言います」
「ーーそう」
「でも、触るためにです」
リリアの手が、また小さく動いた。
俺の指から少し離れて、また触れた。
俺は一度、目を覚まさなかったのかもしれない。
それでも今、ここにいる。
誰かが見てくれていた。
誰かが抱いてくれていた。
誰かが、俺に朝を越えさせてくれた。
リリアの小さな手が俺の指に触れている。温かい。まだ小さくて、頼りなくて、何も自分では選べない手だった。
なら、なおさらだ。
俺はこの子に朝を越えさせたい。
心の底から、そう思ったーー。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次話は幕間です。
アルノ本人ではなく、屋敷の人たちから見た「坊ちゃまの無理」とそれによって少しずつ変わり始めた屋敷の様子を書いていく予定です。




