幕間 父の手紙
夜も遅くなってから、ガルムは書斎の机に向かっていた。
領地から上がってきた報告書の横に屋敷の中で新しく決まったことを書いた紙が何枚か置かれている。
手洗い台には小さな石鹸を置く。
水を溜める壺には青い紐を結ぶ。
壺を運ぶ者は赤い糸をつけた前掛けを使い、他の仕事には使わない。
手を拭く布、床を拭く布、壺に使う布も分ける。
ここまではもう何度か目を通した。
問題はその下だった。
洗濯場で使う水について新しい決まりが増えている。
魔法で出した濁った水は、すぐには使わず一日置く。
底を揺らさず上の方だけをすくい、壺用の前掛け、足に使う布、床拭きの布の汚れを落とすためだけに使う。
最後は井戸水ですすぐ。
白い布には使わない。
食器を拭く布にも使わない。
リリアのものには、もちろん使わない。
ガルムはそこで一度、紙から目を上げた。
面倒な決まりだった。少なくとも三歳の子どもが言い出すようなものではない。
さらに横には、洗濯場を任せているダリアからの報告が添えられている。
井戸から運ぶ水が半分近く減る見込みです。前の日から水を用意する手間は増えますが、それを差し引いても助かります。
ガルムはもう一度、最初から読み返した。
最近のアルノは汚れたものを見るたびに泣くような子どもだ。台所で魔法の水を見た時も残念そうな顔をしたとマルタから聞いている。
けれど、今回は一日置いた。
底に何かが沈むのを待った。
その上だけをすくって濁った魔法の水でも使えるものと使えないものを分けた。
さらに一度、布で濾過できるかまで試したらしい。
三歳児がすることではない。そう考えてから、ガルムは小さく息を吐いた。三歳児がしているのだから、そうとしか言いようがないのだが。
汚れを嫌う者そのものは珍しくなかった。
ガルムが王都の学院にいた頃にも一人いた。
同じ部屋で学んでいた男で、泥の跳ねた外套のまま椅子に座ることをひどく嫌った。
祈りの前には必ず手を洗い、杯を渡されれば縁を確かめ、馬小屋から戻った者が近くに来れば眉をひそめる。
神に仕える者や精霊を重んじる者にはそういう人間がいる。魔法使いにも多かった。
手や道具についた汚れを落とし、衣服を整え、術を使う前に清める。そうして汚れを遠ざければ、魔力も乱れにくくなるという。
本当に魔力が変わるのか、それとも本人が集中しやすくなるだけなのか。
ガルムには分からない。
だが少なくとも術に入る前に身を清める魔法使いは珍しくなかった。
反対に、剣や槍を持つ者はそうでもない。
泥も血も汗も、外で戦えばついて当然だ。獣の臭いをまとったまま酒を飲む者もいるし、あまり綺麗にしすぎると戦う気まで抜けると言う者さえいる。
どちらが正しいというものでもなかった。
汚れを嫌う理由が違うだけだ。
神官なら不浄を嫌う。
精霊を信じる者なら汚れがついたまま精霊に呼びかけない。
魔法使いなら術を乱すものを遠ざけたがる。
学院時代の友人もそういう男だった。
だが。
ガルムは机の上の紙へ目を戻した。
アルノは少し違う。あの子は、汚れを遠ざけているわけではない。
壺を抱いた前掛けをそのまま食事の席へ持ち込むことを嫌がった。
壺そのものではない。
壺に触れた前掛けだった。
前掛けから服へ。
服から手へ。
手から別のものへ。
そういう順番を気にしている。
布も同じだ。どれが綺麗かではなく、何に使った布なのかを気にしている。
洗濯場の水もそうだ。濁っているから全部使えないとは言わなかった。どこまでなら使ってよいかを決めた。
ガルムは紙の端を指で押さえた。
学院の友人は汚れそのものを嫌っていた。アルノは汚れがどこからどこへ移るのかを見ている。
そんなふうに考えると、今までの騒ぎにも妙な筋が通った。
水と布を分け、専用の前掛けまで作らせた。
挙句、手洗い台に石鹸を置かせた。
そうして昨日、ようやくリリアに触れたとエレオノーラから聞いた。
ガルムは椅子にもたれた。
汚れを拒んでいるだけではないのか。
触れるために、そこまでしているのか。
拒むだけなら部屋から一歩も出なければいい。けれどあの子はそうしない。
しばらく考えたあと机の引き出しから便箋を一枚取り出した。
宛てる相手は学院時代のあの男でいい。
今でも王都にいるはずだ。
ガルムは羽根ペンを取り、書き始めた。
「三歳になる息子が、妙なことを言うようになった」
そこまで書いて、少し考える。
「水を煮ろ。手を洗え。布を分けろ。壺に使った前掛けを他の場所へ持っていくな、と泣いて訴える」
書いてみると、改めてひどい。
ガルムは口元をわずかに緩め、それでも続きを書いた。
「最初は、ただ汚れを嫌う子どもの癇癪だと思っていた。だが続けているうちに、屋敷の中に妙な秩序ができ始めた」
青い紐の壺。
赤い糸の前掛け。
置かれた石鹸。
使い道ごとに分けられた布。
洗濯場では、昨日まで使えないと思っていた濁った水まで使われ始めている。
「先日は、その濁った水をすぐに使わず一日置いた。底に沈むものを見て、上だけをすくい、使ってよいものと使ってはならないものを分けたそうだ」
ガルムはそこで羽根ペンを止めた。
どう書けばいいのか、少し迷った。
やがて、もう一行を加えた。
「あの子は、汚れを避けたり、落としているのではなく、汚れが移る道を見ているのかもしれない」
文字にするとますます奇妙だった。
だが、今まで見てきたアルノには一番近い。
実際に手洗い台を作った時にそう言っていた気もする。
最後に、
「お前なら、これをどう見る」
と書き、羽根ペンを置いた。
返事が来る頃にはまた何か増えているかもしれない。
できれば増えていないでほしい。
少なくとも屋敷の者たちは、そろそろそう願っているだろう。
ガルムは便箋を脇へ置き、机の上に積んであった別の紙を取った。
上の息子たちの学習計画だった。
読み書き。
計算。
領地の地図。
周囲の家名と血筋。
魔法の基礎。
アルノにはまだ早い。
三歳だ。
長く座らせたところで体がもたないだろう。
文字だって、まだまともには読めない。
だが、癇癪の一言で済ませるにはあの子が残したものは多すぎた。
ガルムは予定の端に短く書き足した。
アルノを同席させる。
毎回ではない。
長く座らせるつもりもない。
ただ、少し見せる。
少し聞かせる。
あの子が何を拾うのか、それを確かめてみる。
拒むのではない。
触れるための潔癖。
そんなものがあるのか、ガルムにはまだ分からなかった。
だから、見てみることにした。




