第十九話 兄たちの勉強に混ざりました
リリアに初めて触れてから数日が過ぎた。
リリアの部屋の前で手を洗うのももう毎日のことになっていた。
ミーナも慣れたらしく最近では俺が何も言わなくても手を洗い終える頃には扉を開けてくれる。
「今日から兄たちの勉強に少し混ざってみなさい」
父上に呼ばれたのは朝食を終えてリリアの部屋へ向かおうとしていた時だった。書斎へ入るなりそう言われ、俺は父上を見上げた。
「俺がですか?」
「ああ。毎日でなくていい。疲れたら途中で抜けても構わない。まずは座って聞いてみろ」
どうして急に、とは思った。
けれど嫌ではない。
この世界に来てから俺が知ったことといえば屋敷の中のことばかりだった。考えてみれば、この世界そのものについてはほとんど何も知らない。
兄たちが勉強している部屋には、すでに教師が来ていた。
大きな机に二人が並んで座っている。
八歳のレオルは父上に似て背が伸び始めていて、濃い茶色の髪を短く整えている。椅子に座っていても背筋がまっすぐで、こちらを見た時も顔を大きく動かさず目だけを向けた。
その隣のユリウスは六歳でレオルより少し明るい髪が額にかかっている。俺を見つけるなり椅子の上で体ごと振り返った。
「アルノも?」
「今日から少しだけだそうです」
「勉強できるのか?」
できるだろう。
そう思いながら二人の机の上を見た。
そこで俺は息を呑んだ。
ノートがない。
教科書もない。
代わりに広げられているのは薄い黄白色をした何枚かの羊皮紙だった。
端は真っ直ぐではない。厚さも一枚ごとにわずかに違い、光の当たり方によって表面の色まで少し変わる。
羊皮紙。
知識では知っていた。
動物の皮を加工して紙の代わりに文字を書く。
昔はそういうものを使っていた。
それくらいなら前世でも知っていた。
でも、知っているのと、八歳と六歳の子どもの机に当たり前のように置かれているのを見るのは全然違った。
これ、本当に皮なんだよな。
教科書を開く代わりに皮を広げて勉強している。
急に異世界へ来た気がした。
今さらだった。
「アルノ?」
ユリウスに呼ばれて顔を上げる。
「なんでもないです」
少し離れたところに用意されていた小さな椅子へ座った。足がきちんと床につく。三歳児用にわざわざ用意したらしい。
「アルノ様は今日は見学です」
教師がユリウスをたしなめるように言ってから机の上へ羊皮紙を広げた。
「では、昨日の続きから始めましょう」
最初に読んだのはレオルだった。
羊皮紙の上を指で追うこともなく、領内にある村の名前とその周辺で作られているーーらしいものを読み上げていく。次に教師から質問されても少し考えるだけで答えていた。
続いてユリウスが読む。
こちらは時々言葉に詰まり、そのたびにレオルが横から口を出して怒られていた。
聞いている分には意味はだいたい分かる。
小麦。
豆。
羊。
村によって作っているものが違うらしい。
問題は何が書いてあるのかまるで分からない。
兄たちが声に出すたびに文字の列へ目を走らせる。
同じ形が何度か出てくる。
あれが村の名前だろうか。
それとも小麦か。
次の文章では違う場所に出てきた。
分からない。
喋っている言葉が最初から分かったせいで、すっかり忘れていた。
俺は、この世界の文字を知らない。
前世では普通に本を読んでいたし書類だって読めた。けれど、それは日本語の話だ。
目の前に並んでいる文字は前世で見たどの文字とも違う。レオルもユリウスもそれを当たり前のように読んでいる。
「アルノ様」
教師に呼ばれて顔を上げた。
「退屈ではありませんか?」
「いえ。でも、読めません」
「もちろんです。まだ文字を習っていませんからね」
当たり前のように言われた。
そうだった。
俺は三歳だ。
読めなくても何もおかしくない。
むしろ、今まで誰にも教わっていないのだから読める方がおかしい。
教師は俺の机の上の羊皮紙を脇へ寄せると、小さな木の板を俺の目の前に置いた。
今度は何だ。
手のひらよりずっと大きい木枠の内側に黒っぽいものが平らに詰められている。近くで見ると表面には細かな傷がいくつも残っていた。
「これは?」
「蝋板ですよ」
思わず教師を見た。
蝋板。
これも知っている。
蝋を塗った板に尖った棒で文字を書く。そして表面をならせばまた使える。
そういう道具が昔あった。
知っていた。
知っていたけれど。
本当に使うのか。
教師が細い棒を手に取った。
鉛筆ではない。
羽根ペンでもない。
先の尖った尖筆だった。
その先を蝋へ当てる。
かり、と小さな音がした。
インクで線が乗るのではなく、蝋の表面そのものが削れて溝になる。
一文字。
もう一文字。
最後にもう一つ。
三つの文字が並んだ。
俺はしばらくそれを見ていた。
現代日本の教室なら紙と鉛筆が出てくるところだ。
ここでは皮に書かれた教材を読み、蝋を削って文字を覚える。
台所や洗濯場を見た時とは違う意味で、ここが前世とはまるで違う世界なのだと実感する。
「まずは、ご自分のお名前からです」
教師に言われて意識を蝋板へ戻した。
読めない。
一番左を指差す。
「これは?」
「ア、と読みます」
「こっちは?」
「ルです。その次がノ」
指で順番に追う。
ア。
ル。
ノ。
「……アルノ」
「そうです。アルノ様のお名前ですよ」
もう一度見る。
これが俺の名前。
知っている名前なのに見たことのない形で書かれている。三つの形を頭の中で音と結びつけているとユリウスが身を乗り出した。
「自分の名前も読めなかったの?」
「今日初めて習いました」
「俺はもっと小さい時に読めたよ」
「ユリウス」
レオルが横から名前を呼んだ。
止めるのかと思ったら、俺の前の蝋板を一度見てから言う。
「たしかに自分の名前くらいは覚えていたな」
二人とも同じだった。
教師が困ったように眉を下げる。
「レオル様もユリウス様も、アルノ様はまだ今日からですから」
分かっている。
今日初めてなんだから読めなくて当然だ。
俺だってそう思う。
思うのだが。
腹が立った。
しかも、読めなかったのは事実なので言い返せない。俺は蝋板へ目を戻した。
「先生」
「はい」
「もう一回、教えてください」
「もちろんです」
ア。
ル。
ノ。
もう一度。
形を見る。
音を覚える。
教師は尖筆をひっくり返した。
反対側は先端が平たくなっている。
それをさっき書いた文字の上へ滑らせると、溝が押し潰されて消えていった。
俺は思わず身を乗り出した。
本当に消えた。
少し跡は残っているけれどまた書ける。
知識では知っていたことなのに目の前で見ると妙に面白い。
「もう一度書きますよ」
「はい」
今度は父上の名前だった。
ガルム。
次に母上のエレオノーラ。
そしてリリア。
知っている名前なら音と文字を結びつけやすい。
最初は横から覗いていたユリウスも、俺が何度も文字を追い始めるといつの間にか自分の席へ戻っていた。レオルももうこちらを見ていない。
「今日はこのくらいにしておきましょうか」
「まだできます」
「ですが、最初から無理をすると――」
「まだできます」
思っていたより声が高くなった。
ユリウスが振り返る。
目の奥まで少し熱い。
まずい。
これで泣いたら絶対にまた何か言われる。
俺は一度だけ目元をこすって、蝋板へ戻った。
三歳児だから読めない。
それは仕方がない。
「次を教えてください」
でも、文字が読めないことより兄たちに笑われたままなのが無理だった。




