第二十話 台拭きで手を拭くところでした
午前の勉強を終えると、俺はリリアの部屋へ向かった。
扉の横にはいつもの小さな手洗い台がある。水桶と受け皿、青い紐の水壺、小さな石鹸。布が一枚掛けられていた。
ミーナに水をかけてもらい、石鹸で手を洗う。
指の間まで洗って、水で流す。
あとは拭くだけだった。
俺は掛かっていた布へ手を伸ばした。
「坊ちゃま、駄目です!」
びくっと手が止まる。
次の瞬間、ミーナが横から布を取り上げた。
俺の指先が空を切る。
「これは台を拭く布です!」
「……台?」
俺は濡れた手のまま固まった。
今、これで拭くところだった。
石鹸で洗った手を。
台を拭く布で。
そのあと、その手でリリアに触るところだった。
背中がぞわっとした。
「なんで台を拭く布がここにあるの?」
「それは……」
ミーナも布を見た。
少し眉を寄せてから、その端を持ち上げる。
「おそらく、今朝こちらを拭いた者が掛けてしまったのだと思います」
「ここに掛けるものじゃないよね?」
「はい」
ミーナは廊下へ顔を出した。
「すみません。手拭きを一枚、持ってきていただけますか」
近くにいた使用人が返事をし、ほどなくして布を持ってきた。
ミーナはそれを受け取ると、さっきの布と並べた。
「でも、どうして台拭きだって分かったの?」
「ここに書いてあります」
最初の布の端を持ち上げられて、初めて気づいた。
小さな別布が縫いつけられ、その上に文字が刺繍されている。
「こちらが『台』です」
次に、持ってきてもらった布の端を見せる。
「こちらには『手』とあります」
そう言われても読めなかった。
俺には違う形の糸が並んでいるようにしか見えない。
「こんなの、いつつけたの?」
「坊ちゃまが布を分けるようにおっしゃったあとです。何用か分からなくなりますので、皆で手分けしてつけました」
俺は布を分けろとは言った。
でも、分けたあとどうやって見分けるかまでは考えていなかった。そこから先は使用人たちに任せきりだった。
何枚もある布を洗って、乾かして、また元の場所へ戻す。そのたびに迷わないよう屋敷の人たちは自分たちで用途を刺繍していた。
「みんなはこれを読めるの?」
「仕事でよく使う言葉くらいなら読める者は多いですよ。『手』や『台』、『床』などですね」
「みんな?」
「入ったばかりの子には難しゅうございます。文字をほとんど習っていない子もおりますから、仕事で使うものから覚えていきます」
ミーナは手にした台拭きを見た。
「今朝こちらを掃除したのも最近入った子だったはずです」
「じゃあ、読めなかったから間違えた?」
「それもあるかもしれません。まだ置き場所にも慣れておりませんし」
責める気にはなれなかった。
俺だって読めない。
今さっき、同じ布を手拭きだと思って取るところだった。
文字はついている。
でも読めなければ、そこに何が書かれているのか分からない。
俺はもう一度、台拭きの端を見る。
台。
そう書いてあるらしい。
隣の手拭きには、手。
兄上たちに笑われたことなんて急にどうでもよくなった。読めないせいで俺は台拭きで手を拭くところだった。
「ミーナ」
「はい」
「これが『手』?」
「はい」
「こっちが『台』?」
「そうでございます」
「もう一回」
ミーナが二枚を並べた。
手。
台。
形を見る。
頭に入れる。
「床も見せて」
「今でございますか?」
「今だよ」
床用の布も見せてもらった。
三つ並べる。
手。
台。
床。
さっきまで、そのうち覚えればいいと思っていた。
撤回する。
全部をすぐ読めるようになる必要はない。
でも、俺が触るものは別だ。
「水は?」
「坊ちゃま?」
「水と布と壺も覚えたい」
リリアの部屋に入らず、俺はそのまま勉強部屋へ戻った。教師はもう羊皮紙を片づけ始めていた。
「先生」
「アルノ様?」
「もう一回、文字を教えてください」
「今日はもう終わりましたが」
「まだやります」
蝋板を出してもらう。
尖筆を握った。
「何からいたしましょう?」
「手。台。床。水。布。壺です」
教師が尖筆を持ったまま止まった。
「……ご家族のお名前は?」
「あとでいいです」
「……ずいぶん変わったところから覚えるのですね」
「必要なんです」
蝋を削る。
間違えたら消す。
もう一度書く。
手。
台。
床。
さっきまでなら間違えても明日でいいと思えた。
けれど今は無理だ。文字が読めないせいでせっかく洗った手を台拭きで拭く。そんなことになるくらいならのんびりしていられない。
俺は尖筆を握り直してもう一度「手」の文字を刻んだ。
この時はまだ、文字を覚えることしか頭になかったーー。




