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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら、中世の「普通」がだいたい無理でした~  作者: 織 航(しき わたる)
第二章 小さな手の届く場所

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第二十一話 手拭きに青い印がつきました

 翌朝、俺はリリアの部屋の前で足を止めた。

 手洗い台は昨日と同じ場所にある。

 水桶。

 受け皿。

 青い紐の水壺。

 石鹸。

 手拭きの布。

 昨日と同じはずだった。

 でも、布の端に青い糸が見えた。

 小さく、二本だけ刺繍されている。


「……ミーナ」


「はい」


「これ、昨日なかったよね」


 俺が指差すとミーナは手拭きの布を持ち上げた。


「はい。昨夜つけてもらいました」


「なんで?」


「昨日のことがございましたので」


 昨日。

 台を拭く布で手を拭くところだった。

 思い出しただけで嫌になる。

 俺は青い刺繍を見る。

 文字の横に短い線が二本並んでいる。

 離れて見ても分かる。


「これ、手拭きだけ?」


「はい。手を拭いてよい布には、青い糸を入れることになりました」


「誰が決めたの?」


「私がマルタ様にお願いしました」


 俺はミーナを見た。

 ミーナが?


「どうして?」


「坊ちゃまも昨日、お間違えになりそうでしたので」


「……そうだけど」


「それに、あの子も一度間違えております」


 昨日、台拭きを手洗い台へ掛けてしまった新人のことだ。


「文字が読めるようになるまで待つわけにもまいりませんから」


 ミーナは布の端を指でつまんだ。


「文字を読まなくても分かる印があれば、間違えにくいかと思いました」


 俺は青い糸を見る。

 文字が読めなくても分かる。

 忙しくても目に入る。

 赤い糸の前掛けと同じだった。

 壺を運ぶ時だけ使う前掛けには赤い糸を結んだ。

 あれを考えたのもミーナだった。


「マルタは何て?」


「それなら分かりやすい、と」


「すぐつけたの?」


「昨夜、裁縫のできる者に手伝ってもらいました」


 早い。

 俺が昨日、文字を覚えなければと必死になっている間にこっちはもう別の方法を試していた。

 少し悔しい。

 いや、悔しがるところではない。

 むしろ助かる。

 俺は手を洗った。

 ミーナに水をかけてもらい、石鹸を使う。

 水で流してから布を見る。

 青い糸がある。

 文字を読めなくても分かる。

 俺はそれを取って、手を拭く。

 そこで、ふと前世のことを思い出した。

 そういえば手を拭くタオルと台を拭く布は大きさからして違っていた。

 今みたいに文字を見なければ分からないほど似てはいなかった。

 あれも、間違えにくくするためだったのかもしれない。

 当たり前すぎて考えたこともなかった。

 ただ、今ある布をわざわざ切る必要はない。

 青い印だけでも十分分かる。

 次に新しく用意するなら、大きさを変えてもいいかもしれない。


「……いいね」


「はい?」


「これはいい」


 ミーナが少し笑った。


「よかったです」


 俺はもう一度、青い刺繍を見る。

 昨日までなら布を分けろと言うのは俺だった。

 どこに置くか。

 何に使うか。

 混ぜるな。

 そう言って、周りの大人が困りながら形にしていた。

 でも今回は違う。

 俺は何も言っていない。

 ミーナが気づいた。

 マルタに話した。

 誰かが縫った。

 そして翌朝には、もうここにある。

 俺が知らないところで決まりがひとつ増えていた。


「ミーナ」


「はい」


「こういうのは他にもある?」


「こういうの……でございますか?」


「俺が言ってないのに増えた決まり」


 ミーナは少し考えた。


「ございますよ」


「――あるの?」


「はい」


 即答だった。

 俺は思わず振り返った。


「どれ?」


「たとえば、赤い糸です」


「赤い糸は壺用の前掛けだよね」


「最初はそうでございました」


 最初は。

 嫌な言い方だった。


「今は?」


「一度使ったら洗うものにも赤い糸をつけるようになりました」


「……え?」


「壺用ではございませんよ」


「分かってる」


 ミーナは続けた。


「汚れの強いものや、そのままもう一度使わない方がよいものですね。洗い場でも分かりやすいそうです」


 俺は少し黙った。

 赤い糸は壺用の印だった。

 それが今では使ったあとそのまま戻さず洗うものにも使われている。

 俺はそんなことを決めていない。

 赤い糸が増殖している。


「誰が決めたの?」


「ダリア様たちです」


 洗濯場だった。

 あそこでも勝手に増えている。


「いけませんでしたか?」


 ミーナが少し不安そうな顔をした。


「……いや。いい」


「よかったです」


 俺は少しだけ変な気分になった。

 俺が布を分けろと言った。

 赤い糸をつけた。

 手洗いに使う水壺には青い紐をつけた。

 最初は全部、俺が無理だと言ったところから始まった。でも今は、俺の知らないところで続きが作られている。

 俺は青い刺繍を指でなぞった。


「昨日、ずっと文字を覚えてたんだけど……」


「はい」


「これなら読めなくても分かるね」


「はい」


 即答だった。

 少しだけ腹が立つ。


「文字は覚えるよ」


「もちろんでございます」


「絶対覚える」


「はい」


 なぜかミーナが笑っている。

 文字を覚える。

 それは必要だ。

 でも、全員がすぐ読めるようになるわけではない。

 新人だっている。

 忙しい時もある。

 間違えることもある。

 だったら、間違えても気づきやすい方がいい。

 俺ひとりが読めるようになるより、たぶんその方がずっと早い。

 リリアの部屋から小さな声がした。

 俺は青い刺繍のついた布で拭いた手を見る。

 昨日より何かが大きく変わったわけではない。

 布の端に、青い糸が二本増えただけだ。

 でも、その二本は俺がつけろと言ったものではなかった。

 俺が無理だと言う前にミーナが自分で対策を考えてくれた。

 それが少しだけ不思議だった。

 ミーナに扉を開けてもらい、部屋へ入る。

 リリアを見る。

 包んでいる布の端にかわいらしいリボンがついていた。

 見覚えはない。

 ゆっくり振り返る。


「……これも?」


「はい」


 ミーナが満面の笑みを浮かべていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


次話は幕間となります。


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