幕間② 大人たちの夜
その夜、ガルム・ヴァイスベルクは、リリアの部屋の前で足を止めた。
扉の横には小さな台が置かれている。
水桶。
受け皿。
湯に通して乾かした布。
どれも粗末なものだ。
王都の貴族が見れば赤子の部屋の前に置くものかと笑うかもしれない。だが、それは三歳の息子が泣き叫びながら作らせたものだった。
最初から信じたわけではない。
布を煮ろ、水を煮ろ、手を洗え。
三歳児の言葉としては奇妙すぎた。
だが、泣き叫ぶアルノを放っておけばエレオノーラもリリアも休めない。
だから大人たちは折れた。
その結果だけが、台として残っている。
ガルムはしばらく黙って台を見下ろしていた。
そして、近くに控えていた使用人に目を向ける。
「水を」
使用人は慌てて桶を持ち上げた。
ガルムは片手を差し出した。
使用人がその上から水をかける。
冷たい水が手を伝い、受け皿に落ちた。
手を洗う。
ただそれだけのことなのに、妙な気分だった。
これまでも手を洗ったことはある。
泥がつけば洗う。
血がつけば洗う。
食事の前に水で清めることもある。
だが、赤子に触る前に、汚れているかどうかも分からない手を洗うという発想はなかった。
見えない汚れ。
アルノはそう言った。
ガルムには分からない。
布が怖い。
手も、水も怖い。
最初は、ただのわがままだと思った。
だが、そう言った三歳の息子の目は、どうにも頭から離れなかった。
使用人が布を差し出した。
ガルムはそれを受け取る前に、思わず聞いた。
「これは何用だ?」
使用人が目を丸くした。
「リリア様の部屋の前で使う手拭きでございます」
「床には使っていないな?」
「――は、はい」
ガルムは小さく息を吐いた。
自分まで何を言っているのか。
そう思いながら、その布で手を拭いた。
部屋に入ると妻のエレオノーラが寝台に横になっていた。
顔色はまだ悪い。
けれど、朝よりは少しだけ目に力が戻っている。
そばでは乳母のマルタがリリアを抱いていた。
小さな赤子は布の中で静かに眠っている。
ガルムはその寝息を聞いて、ようやく肩の力を抜いた。
「眠っているか」
「ええ」
エレオノーラが静かに答えた。
「アルノは?」
「先ほどまで見に来ていました。眠ったと思います」
マルタが疲れた声で言った。
「思います……か」
「坊ちゃまは、リリア様のことになると寝たふりもなさいますので」
ガルムは眉間に手を当てた。
三歳児が寝たふりをしてまで赤子を見に来る。
普通なら微笑ましい話だ。
だが、今のアルノは少し違う。
リリアが可愛いから見に来るというより、死んでいないか確かめに来る。
そういう目をしている。
「――マルタ。今日一日、アルノはどうだった?」
「……大変でした」
「それは見れば分かる」
「布を分けろと言われました。水は煮ろと。器も湯に通せと。拭く布は用途ごとに決めろと。手を洗う場所を作れと。床に桶を置くなとも」
「三歳児の言うことではないな」
「はい。ですが――」
マルタはそこで言葉を止めた。
ガルムが続きを促すように見る。
「ですが、坊ちゃまは本気です。本気で怖がっておられます。怒らせようとしているのでも、困らせようとしているのでもありません」
「怖がっている、か」
「はい。リリア様に触れる手を見ている時など、本当に泣きそうな顔をなさいます」
エレオノーラが目を伏せた。
「アルノはこの子を守ろうとしているのですね」
ガルムはすぐには答えなかった。
守ろうとしている。
そう言えば聞こえはいい。
だが、アルノの言動は異常だった。
布を煮ろ。
水を煮ろ。
手を洗え。
同じ水に手を入れるな。
床用の布で拭くな。
見えない汚れが命を奪う。
どれも三歳児が口にする言葉ではない。
しかし、ただの狂言として片づけるには妙に筋が通っている。
「赤子は弱いものです」
部屋の隅で、産婆のイルゼが小さく言った。
彼女は朝からずっと不機嫌そうだった。
三歳児に仕事の手順を口出しされたのだから無理もない。
だが、その声には怒りだけではないものが混じっていた。
「どれだけ気をつけても、育たぬ子は育ちません。私は何人も見てきました」
「知っている」
ガルムが答えた。
この辺境で生まれ、育ち、領地を継いだ。
赤子が死ぬことも、産後の女が弱って戻らぬことも、珍しい話ではない。
「ですが……」
イルゼはリリアを見た。
リリアは布の中で眠っていた。
赤い頬を少しだけ横に向け、小さな口を開いてかすかに息をしている。
布の端から出た指が、一度だけゆっくり開き、何かを探すようにまた丸まった。
ただそれだけの動きに部屋の大人たちは少し黙った。
イルゼはその小さな手を見つめたまま呟いた。
「あの子の言ったことが、すべて間違いだとも言い切れません」
マルタが驚いた顔をした。
ガルムも少し目を細めた。
「お前がそう言うとはな」
「腹立たしいですよ。三歳の坊ちゃまに、手を洗えだの布を煮ろだの言われるのは」
「だろうな」
「けれど、湯に通した小刀を使って困ることはありませんでした。布を替えて困ることもありませんでした。手を洗ってから触れて、赤子が弱るわけでもありません」
イルゼはそこで口を閉じた。
それ以上は言いたくない。
そんな顔だった。
ガルムには、その意味が少し分かった。
過去に死んだ赤子がいたのだろう。
助からなかった母親もいたのだろう。
産婆はその一つ一つを仕方なかったものとして抱えてきた。
そこへ三歳の子どもが言ったのだ。
死ななくてよかった子もいるかもしれない、と。
それは、慰めではない。
責める言葉にもなる。
「アルノを信じるのですか」
エレオノーラが静かに尋ねた。
ガルムはすぐには答えず、リリアを見た。
先ほどイルゼが見つめていた小さな手が、布の端から少しだけ出ている。
何かをつかもうとしたのか、細い指がゆっくり開き、また頼りなく丸まった。
それなのに、ガルムは言葉を失った。
この小さな命の前では父親も領主も関係ない。
ただ、失いたくないと思うだけだった。
「信じる、というほどではない。だが、無視はしない」
「では、続けてもよろしいのですね」
マルタが少しだけ表情を緩めた。
「リリアの周りだけだ。赤子に触る者は手を洗う。布は分ける。水は煮る。小刀や器は湯に通す」
「かしこまりました」
「ただし、屋敷中を一度に変えるな。薪も人手も布も足りん。混乱が出る」
ガルムはイルゼを見た。
「イルゼ。この部屋で使う布と道具は、できる範囲で分けろ」
「……承知しました」
「マルタ。アルノが泣き叫ぶ前に止めろ」
「それが一番難しゅうございます」
ガルムはわずかに顔をしかめた。
エレオノーラが小さく笑った。
その笑いは弱々しかったが、朝よりは少しだけ明るかった。
リリアが小さく身じろぎした。
マルタが抱き直そうとして、一度止まった。
手元を見て、布を確認した。
ガルムはその仕草を見ていた。
昨日まではなかった動きだ。
リリアに触れる前に、布を見る。
手を見る。
それだけのことが、もう始まっている。
アルノの言葉は、屋敷の中に小さな棘のように残っていた。
「ガルム様」
エレオノーラが呼んだ。
「何だ?」
「アルノを叱りすぎないでください」
「叱っていない」
「顔が怖いのです」
「元からだ」
マルタが一瞬だけ笑いをこらえた。
イルゼも少しだけ口元を緩めた。
ガルムは不満げに眉を寄せたが、何も言わなかった。
エレオノーラは眠るリリアを見つめたまま、続けた。
「あの子は怖いのだと思います。きっと、私たちよりもずっと」
「何を?」
「失うことを」
ガルムは黙った。
アルノは三歳だ。
本来なら、死を理解するには早すぎる。
だが、あの子は昨日から赤子が死ぬと何度も口にしている。
まるで、そういう死を知っているかのように。
ガルムはそれを不気味だと思った。
同時に、少しだけ哀れにも思った。
「分かった」
ガルムは短く言った。
「リリアの周りでは、アルノの言う通りにする。できる範囲でだがな」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。私の娘のためでもある」
エレオノーラは静かにうなずいた。
その夜、リリアの部屋の前に置かれた小さな手洗い台は片づけられなかった。
台。
水桶。
受け皿。
分けられた布。
どれも不格好で、手間ばかりかかる。
けれど、屋敷の大人たちは初めて考えさせられた。
手を洗うというのは、ただ手を濡らすことではない。
布を替えるというのは、ただ新しい布を出すことではない。
赤子を守るというのは、祈るだけでは足りないのかもしれない。
翌朝からリリアの部屋に入る者はまず手を洗うことになった。
誰もまだ、それが屋敷を変える最初の決まりになるとは思っていなかった。




