幕間① 小さな寝息
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
喉はまだ少し痛い。
泣きすぎたせいだ。
叫びすぎたせいでもある。
三歳の体は本当に弱い。
少し無理をすると、すぐに眠くなる。
腹も減る。
足もふらつく。
それなのに、頭だけは妙にはっきりしていた。
布を替えさせた。
手を洗わせた。
小刀を湯に通させた。
水を煮させた。
器を湯に通させた。
拭く布を分けさせた。
リリアの部屋の前に、手を洗う場所を作らせた。
並べてみると、ずいぶん色々なことをした気がする。
でも、違う。
完璧ではない。
全然、完璧ではない。
石鹸はない。
流水もない。
排水口もない。
時間を測る道具もない。
湯をどれくらい沸かせばいいのかも曖昧だ。
布をどこで乾かせばいいのかも怪しい。
誰が何を触ったのかも記録されていない。
手を洗ったあと何を触ったのかも分からない。
床用の布と手拭き用の布が、明日もちゃんと分かれている保証もない。
そして、まだ井戸をちゃんと見ていない。
厠も見ていない。
俺の部屋には小さな壺が置かれている。
三歳の体では、ひとりで厠まで行けないからだ。
前世の日本にも子ども用のおまるはあった。
だから、壺そのものが悪いわけではない。
問題は、その先だ。
朝になると、その壺は使用人が片づけていく。
誰が運ぶのか。
どこへ空けるのか。
中を洗ったあと、その手で次に何を触るのか。
水桶に触らないのか。
布に触らないのか。
台所へ行かないのか。
俺はまだ何も知らない。
台所の床も、食器の扱いも、薬草を煮る鍋も、産婆の道具袋も、何もかも怪しい。
問題は、きっとこの部屋だけでは終わらない。
廊下にもある。
台所にもある。
井戸にもある。
厠にもある。
この屋敷の中だけでも、俺はまだ何も知らない。
前世の俺なら、手を洗うだけで済んだ。
蛇口をひねれば水が出た。
石鹸があった。
排水口があった。
清潔なタオルがあった。
時間を測る時計もあった。
当たり前だと思っていたものが、ここには何もない。
ないなら、作らなければならない。
でも、俺は三歳だ。
力もない。
背も低い。
台の上の桶にさえ、まだ自分では手が届かない。
水をかけることもできない。
布を煮る鍋も持てない。
父上に命令することもできない。
俺にできるのは、泣くことと叫ぶことと、嫌だと言うことくらいだ。
それでも、覚えておくことはできる。
何が足りないのか。
何が危ないのか。
何を作らなければならないのか。
いつか大きくなったら、時間を測る道具を作る。
水を煮る手順を決める。
布を用途ごとに分ける決まりを作る。
井戸と厠の場所を調べる。
赤ん坊に触る者の手順を決める。
誰が何を触ったのか。
誰が何を洗ったのか。
分かるようにする。
そう思っていると、部屋の外から小さな声が聞こえた。
リリアだった。
泣き声というほどではない。布の中で身じろぎした時の、細い息のような声だった。
俺は寝台からそっと降りた。
床に足をつけるのは嫌だった。
冷たいし、何が落ちているか分からない。
それでも靴を探して履き、扉の隙間から廊下を覗いた。
リリアの部屋の前には、小さな手洗い台が置かれていた。
台。
水桶。
受け皿。
用途を分けた布。
不格好で、頼りなくて、前世の洗面台とは比べものにならない。
でも、そこにある。
俺が無理だと叫んだから、そこに置かれたものだ。
俺はその台を見上げた。
三歳の俺には高すぎる。
自分ではまだ使えない。
だから、本当はリリアの部屋に入るべきではなかった。
手を洗えないまま入る。
それだけで嫌だった。
でも、さっきの小さな声が耳に残っていた。
俺は扉を少しだけ押した。蝶番がかすかに鳴る。
母上は眠っていた。
マルタは椅子にもたれて、うとうとしている。
部屋の中には薄い灯りが残っていた。
俺は敷居を越えた。
一歩だけ。
それから、もう一歩。
マルタが動いた気がして俺は息を止めた。
寝台のそばまでは行かない。
でも、少しだけ歩くとリリアが見えた。
小さな布の塊みたいだった。紅色の頬はまだ少しむくんでいて、口は小さく開いている。息をするたびに唇がかすかに動いた。布の隙間から出ている手は、驚くほど小さい。指なんて、あるのかないのか分からないくらいだ。その小さな指が何かを探すようにゆっくり開いて、また握られた。
触りたい。
でも、触れない。
俺の手が本当に清潔なのか分からないからだ。
リリアは、そんな俺の都合なんて知らないまま口元をもぞもぞと動かした。
泣くのかと思ったら、泣かなかった。
眉間にほんの少ししわを寄せて、また眠った。
ちゃんと生きている。
ただそれだけのことなのに、息がうまく吸えなかった。
この世界では、赤ん坊が朝まで生きているだけで祈るようなことだった。
熱を出したから。
乳を飲まなかったから。
腹を壊したから。
冬を越せなかったから。
そんな言葉で、きっと何人もの赤ん坊がいなくなってきた。
全部は救えない。
それは分かっている。
でも、全部を運命のせいにはしたくなかった。
リリアが小さく息をした。
それだけで、俺は決めた。
俺は潔癖症だ。
汚いものが嫌いだ。
見えない汚れが怖い。
でも、たぶんそれだけではない。
この子を死なせたくない。
この世界では赤ん坊が生きているだけで奇跡みたいに扱われる。
なら俺は、その奇跡を少しでも当たり前にしたかった。




