第六話 手を洗う手順がありません
――布を分ける。
そう決めたところで問題が解決するわけではなかった。
リリア用。
母上用。
口を拭く用。
手を拭く用。
台や床を拭く用。
マルタは本当に布を分け始めた。
正確には、分けようとしてくれた。
棚から古い布を出し、比較的きれいなものを選び、湯に通し、乾かす場所を決める。
俺は少しだけ安心した。
そしてその瞬間、次の問題に気づいた。
リリアに触る前には手を洗う。
それはもう決まっている。
実際、マルタも産婆も、リリアの部屋に入る前には手を洗うようになっていた。
俺はそれで、少しだけ安心していた。
少なくとも、洗ってから入っているのだと思っていた。
けれど、俺はまだ見ていなかった。
どこで洗っているのか。
どうやって洗っているのか。
洗ったあと、何で拭いているのか。
そこまでは、確認していなかった。
そして今日、俺は初めてそれを見てしまった。
マルタはリリアの部屋へ向かう前、下働きの娘に水桶を持ってこさせた。
娘は廊下を小走りで来て、その桶を床に置いた。
床に――。
置いた――。
俺は固まった。
そしてマルタは、当然のようにその桶の中へ手を入れようとしていた。
「置かないで」
娘がびくっと肩を震わせた。
「え?」
「床に置かないで」
「ですが、桶ですので……」
「桶でも駄目だよ」
床だ。
先日、俺が裸足で走った廊下だ。
使用人たちが靴で歩く廊下だ。
埃も泥も落ちているかもしれない場所だ。
そこに置いた桶。
その桶の水で手を洗う。
無理だ。
絶対に無理だ。
マルタが疲れた顔で俺を見た。
「――では、どこに置けばよろしいのですか?」
「台の上だよ」
「台を持ってくるのですか」
「うん」
「手を洗うためだけに?」
「うん」
マルタと下働きの娘が顔を見合わせた。
面倒くさい。
そう思っている顔だった。
分かる。
俺も面倒くさいと思っている。
でも、床に置いた桶の水で手を洗って、その手でリリアに触る方がもっと無理だ。
下働きの娘が小さな台を持ってきた。
けれど、その台も気になった。
天板に細かい傷がある。
誰が何を置いた台なのか分からない。
だが、床よりはましだ。
今はこれで妥協するしかない。
桶を台に置く。
これで、少しはましになった。
そう思った次の瞬間、マルタは当たり前のようにその桶の中へ手を入れた。
さっき見たのは、見間違いではなかったらしい。
「待って――」
マルタが肩をすくめた。
「今度は何でしょう?」
「みんなで同じ水に手を入れるの?」
「手を洗うのですから」
「汚れた手を入れたら、水が汚れるだろ」
マルタは桶の中で自分の手を軽く動かした。
水面が揺れる。
その手を持ち上げ、俺に見せる。
「汚れてはおりません」
たしかに、マルタの手に泥はついていない。
血もついていない。
爪の間も、ぱっと見ただけなら汚れていない。
でも、そういう話ではなかった。
「見えてないだけかもしれない」
「見えていない汚れ、でございますか」
「そう」
マルタが水桶を見た。
「ですが、水は濁っておりません」
「濁ってからじゃ遅い」
「……遅い」
「最初はきれいに見えても、誰かが手を入れたら、その時点で汚れるかもしれない。次の人もそこに手を入れたら、もっと汚れる」
「泥のついた手なら、たしかに濁りますね」
「見えない汚れも同じだ」
「見えないのでしょう?」
「だから怖いの」
マルタは黙った。
完全には分かっていない。
けれど、少しだけ考えている顔だった。
それだけで進歩だ。
今までなら、ただの子どものわがままだと思われて終わっていた。
マルタは下働きの娘に、もうひとつ器を持ってくるよう言った。
しばらくして、大きめの皿が運ばれてくる。
水を受けるための皿らしい。
台の上に水桶。
その下に受け皿。
マルタが手を出すと、下働きの娘が水をかけた。
水はマルタの手を伝い、受け皿へ落ちた。
半分くらい床にも落ちた。
廊下が濡れた。
娘が慌てて布で拭こうとした。
「その布は何用?」
娘の手が止まる。
「え、ええと?」
「床用?」
「たぶん……」
「じゃあ、手には使わないで」
娘は泣きそうな顔でマルタを見た。
マルタも少し泣きそうだった。
申し訳ない。
本当に申し訳ない。
でも、ここで床用の布が手拭きに戻ってきたら、すべてが終わる。
手を洗った。
水をかけた。
汚れた水を落とした。
そこまではいい。
最後に床用の布で拭いたら、全部台無しだ。
マルタは濡れた手を宙に浮かせたまま俺を見た。
「では、この手はどうすれば?」
「リリア用の布を作って使って」
「今からですか」
「うん」
「湯に通して乾かしたものを?」
「うん」
マルタは目を閉じた。
俺も目を閉じたい。
でも、閉じている場合ではない。
手洗いとは、手を濡らすことではない。
水の場所。
桶の置き場所。
汚れた水の行き先。
拭く布。
布の用途。
触る順番。
全部がつながっている。
前世では、洗面台があった。
蛇口があった。
排水口があった。
石鹸があった。
清潔なタオルがあった。
それらが揃っていたから手を洗うだけで済んでいた。
この世界には、それが揃っていない。
少なくとも、赤ん坊に触る前に安心して使える手洗いの形は、まだなかった。
「……アルノ坊ちゃま」
「なに?」
「手を洗うだけで、台と桶と受け皿と布と人手が必要なのですか」
「必要に決まってる」
「大変ですね」
「うん。大変だよ」
俺はうなずいた。
本当に大変だった。
たったひとつの手洗いにこんなに手間がかかるとは思わなかった。
けれど、だからこそ誰もやらなかったのだろう。
面倒だから。
知らないから。
今まで通りで済ませられると思っているから。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
父上だった。
父上は、台の上の桶、下の受け皿、濡れた床、濡れた手のままのマルタ、怯えた下働きの娘、そして真剣な顔の三歳児を順番に見た。
眉間に深い皺が寄る。
「――今度は何をしている?」
「手の洗い方を決めています」
「廊下でか?」
「この先でリリアに触るから」
父上はすぐには答えなかった。
桶を見た。
受け皿を見た。
それから、濡れた手を宙に浮かせているマルタを見た。
「マルタ」
「はい」
「手は洗っていたのではないのか」
「洗っておりました」
「では、なぜこうなっている?」
マルタは困ったように俺を見た。
俺を見るな。
いや、俺のせいだけど。
「坊ちゃまが、桶を床に置いてはいけないと」
父上の視線が俺に戻る。
「桶を床に置いたからといって、手を洗えぬわけではないだろう」
「その桶の水で洗うんだよ?」
「そうだな」
「床に置いた桶の中に手を入れて、その水で洗うんだよ?」
「……それが問題なのか?」
「問題だよ」
父上は黙った。
分かっていない顔だった。
でも、怒っているわけでもなかった。
「手を洗えという命令は出したはずだ。それだけでは足りぬのか?」
「うん。手を洗うって言われたから、少し安心してた。でも、どう洗ってるか見たら無理だった」
父上はマルタの手を見た。
それから水桶を見た。
「どこがだ?」
「桶を床に置くこと。みんなで同じ水に手を入れること。洗ったあとに、何用か分からない布で拭くこと」
「それで、この騒ぎか」
父上はため息をついた。
重い息だった。
呆れている。たぶん呆れている。
でも、すぐに止めろとは言わなかった。
「――アルノ」
「なに?」
「お前の言う手洗いとは、手を水につけることではないのだな」
「違う」
「では何だ」
「――汚れたものを、次に持っていかないこと」
言ってから、自分でも少し黙った。
三歳児の言葉ではない。
でも、それ以外に言いようがなかった。
「水、置く場所、汚れた水を捨てる場所、拭く布、触る順番。全部つながってる」
父上は俺をじっと見た。
怖い顔だった。
けれど、怒っているというより、考えている顔だった。
しばらくして、父上はリリアの部屋の扉を見た。
中には母上と、生まれたばかりのリリアがいる。
ここで俺が泣き叫べば、二人を休ませるどころではなくなる。
父上も、それを分かっている顔だった。
「屋敷中でそれをやるのは無理だ」
「分かってる」
「分かっている顔ではない」
「少しは分かってる」
「水も人手も布も足りん。廊下も濡れる。台所にも迷惑がかかる」
「うん」
「それでも必要だと言うのか」
「リリアに触る前だけでも」
父上の目が少し細くなった。
「リリアの周りだけか」
「うん。今は……」
「今は――か」
「うん」
「正直だな」
父上はもう一度ため息をついた。
それからマルタに目を向ける。
「小さな台をひとつ、リリアの部屋の前に置け」
「旦那様?」
「水桶と受け皿もだ。赤子に触る者はそこで手を洗う。拭く布も分けろ」
「かしこまりました」
「ただし、水をかける者も決めておけ。洗った手で扉を開けさせるな。拭く布も混ぜるな」
俺は思わず父上を見た。
「そこまで分かるの?」
「お前が今言ったのだろう。順番が大事だと」
「うん」
「ならば、洗った手で扉を触ればまた騒ぐだろう」
「うん。騒ぐ」
「だろうな」
父上はまったく嬉しくなさそうに言った。
要望が思いのほかすんなり通った。
うれしかったが、少し拍子抜けだった。
ただし、父上は俺を見下ろして続けた。
「屋敷中には広げるな。まずはリリアの周りだけだ」
「うん」
「それから、何か気づいたならまず言え」
「言ってる」
「泣き叫ぶ前に言え」
「無理だったら叫ぶ」
「そこを我慢しろ」
「がんばるよ」
父上はまったく信用していない顔をした。
正しい。
俺も信用していない。
その日、リリアの部屋の前に小さな手洗い台が置かれた。
ただの台だ。
水桶と受け皿と、湯に通して乾かした布が置かれているだけ。
前世の洗面台とは比べものにならない。
かろうじて手を洗う場所とは呼べる。
だが、足りないものばかりだった。
流水もない。
排水口もない。
石鹸もない。
時間を測る道具もない。
水をかける人がいなければ使えない。
洗ったあと、扉を開ける人も必要だ。
拭く布を間違えれば全部やり直しだ。
完璧ではない。
全然、完璧ではない。
それでも、この世界では大きな進歩だった。
俺はその台を見上げた。
三歳の俺には高すぎる。
自分ではまだうまく使えない。
でも、ひとつだけ分かった。
この世界では、安心して手を洗うことさえ場所から作らなければならなかった。
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