第五話 口を拭く布が無理でした
煮た水は、ぬるくなってから俺の前に運ばれてきた。
水差しではない。
小さな陶器の器だった。
「木の杯は嫌だとおっしゃるでしょうから……」
マルタはそう言って、少し疲れた顔をした。
器は湯に通したらしい。布で拭くなとも言ったので、外側にはまだ少し水気が残っていた。
俺は差し出された器を両手で受け取った。
「――そうか。ありがとう」
喉はからからだった。
俺はようやく一口の水を飲んだ。
ぬるい。
おいしくはない。
でも、生きている気がした。
水を飲むだけでここまで疲れる世界はおかしい。
そう思っていたらマルタがほっとしたように笑った。
「ようやく飲んでくださいましたね」
その笑顔を見て、俺は少しだけ申し訳なくなった。
マルタは悪い人ではない。
むしろ、かなり頑張ってくれている。
手を洗え。
水を煮ろ。
杯も煮ろ。
冷ます場所も選べ。
三歳児が朝からそんなことを言い続けているのに、怒鳴らずに付き合ってくれている。だからこそ、俺は安心しかけた。その瞬間、マルタが俺の口元を拭こうとした。手に持っていた布で。
「――待って」
俺は反射的に身を引いた。マルタの手が空中で止まる。
「どうなさいました?」
「その布は?」
「口元を拭くだけです」
「その布、何?」
「手拭きです」
「誰の?」
「……私の、ですが」
「手以外は?」
「少し台を拭いたくらいです」
終わった。
完全に終わった。
俺は器を持ったまま固まった。
前世の俺は、一枚の布が感染を引き起こした話を知っている。
誰かが汚れた場所を拭いた。
そして、その同じ布で別の場所を拭いた。
拭いた人は、きっと綺麗にしているつもりだったのだと思う。でも、違う。汚れは消えない。布に移るだけだ。そして、その布から次の場所へ移る。
台から手へ。手から口へ。口から、別の誰かへ。
そうやって何人も熱を出した。弱い者から倒れた。
俺は震える声で言った。
「それで、俺の口を拭くつもりだったの?」
マルタの顔が固まった。
「……申し訳ありません」
「謝らなくていい。でも、それは駄目」
「拭いてはいけないのですか?」
「何を拭いた布か分からないものでは駄目」
マルタは手元の布を見た。
たぶん、彼女にとってはただの布なのだろう。
濡れた手を拭く。
台を拭く。
器を拭く。
子どもの口元を拭く。
全部、同じ布で済ませる。
それがこの世界の普通なのだ。
悪意はない。
ただ、知らない。
布は汚れを消す道具ではない。
使い方を間違えれば汚れを広げる道具になる。
「布を分けて」
「分ける?」
「リリア用。母上用。口を拭く用。手を拭く用。台や床を拭く用。絶対に混ぜないで」
マルタが遠い目をした。
「坊ちゃま。布がいくつあっても足りません」
「布が足りない方がいい。命が足りなくなるよりは」
マルタは何も言わなかった。
俺も、それ以上は言えなかった。
布一枚を分けるだけのことが、この世界では命を分けることになるかもしれなかった。
この世界では、拭くことさえ信用できなかった。




