第四話 水を煮るだけなのに無理でした
俺の水を煮る。
言葉にすれば、それだけだった。
けれど俺にはその「それだけ」が信用できなかった。
水を煮ると言った。
でも、どの鍋で煮るのか。
その鍋はいつ洗ったのか。
誰が触ったのか。
水を煮たあと、何に入れて冷ますのか。
そこまで確認しなければ、安心できるわけがなかった。
三歳児の体はまだふらつく。昨日も今日も泣き叫んだせいで喉も痛い。けれど、俺はマルタの服をつかんで離さなかった。
「アルノ坊ちゃま、本当に台所まで行かれるのですか」
「行く」
「火がありますよ」
「だから行く」
「危ないですよ」
「水の方が危ない」
マルタは何か言いたそうな顔をしたが、結局ため息をついて俺を抱き上げた。
台所は屋敷の奥にあった。近づくにつれて匂いが変わる。薪の匂い。煙の匂い。煮込んだ肉の匂い。濡れた床の匂い。古い油の匂い。情報量が多い。匂いだけで疲れる。
台所では使用人たちが食事の支度をしていた。大きな鍋。木の台。吊るされた肉。野菜の皮。水桶。濡れた布。灰のついた炉。床には水が跳ねていた。泥のついた足跡があり、野菜のくずが落ち、何かを拭いたらしい布が木桶の縁にかかっている。その床を歩いた靴で、みんな普通に台所を動き回っていた。
無理だ。
一歩入っただけで、すでに帰りたい。
けれど帰ったら、俺の水がここで何をされるか分からない。
マルタが台所の女に声をかけた。
「坊ちゃまの水を煮ます。小鍋をひとつお願いします」
台所の女が目を丸くした。
「水を……ですか?」
「ええ。水を」
「湯ではなく?」
「水を煮て、冷まして、水にするそうです」
台所の女は俺を見た。
俺も見返した。
その顔は言っていた。
何を言っているんだ、この子は。
大丈夫だ。
俺もそう思っている。
「鍋は洗って」
俺が言うと、台所の女はさらに固まった。
「今から使う鍋ですよ?」
「だから洗って」
「昨日も使いましたし、すすいであります」
「洗って」
「坊ちゃま……」
「洗って」
俺は譲らなかった。
台所の女は困った顔でマルタを見た。
マルタは俺を見た。
俺が鍋を指差したまま、今にも泣きそうな顔をしていたからだろう。
結局、マルタは諦めた顔でうなずいた。
小さな鉄鍋が水で洗われる。
だが、そこで終わりではない。
洗った後に、手で鍋の内側を触った。
その手は今、何を触った。
さっき野菜の皮を捨てていなかったか。
灰のついた炉を触っていなかったか。
俺は震える指で鍋を指した。
「内側は触らないで」
「鍋の内側を触らずに、どう扱えと……?」
台所の女が動きを止めた。
「外側だけ触れるんだよ」
「落とします」
「落とさないように持って」
「難しいことをおっしゃる」
「俺もそう思う」
台所の女は小さく笑った。
怒ってはいないらしい。
少しだけ助かった。
鍋に井戸水が注がれた。
それを見ただけで喉が鳴る。飲みたい。ものすごく飲みたい。けれど、まだだ。
台所の女が炉の前にしゃがんだ。薪を組み、細い枝を差し込む。そして指先を炉の奥へ向けた。小さく何かを唱える。次の瞬間、指先に赤い光が灯った。
火だった。
小さな火が、ぽっと薪に移る。乾いた枝がぱちりと鳴り、炉の中に炎が広がった。
俺は目を見開いた。
魔法だ。
火を起こす魔法。
この世界に魔法があることは、アルノの記憶として知っていた。けれど、前世の記憶が戻った今、改めて見るとかなり反則だった。
ライターもマッチもいらない。
火打ち石もいらない。
指先で火がつく。
なのに。
「火が出せるのに――」
俺は呟いた。
マルタが首をかしげる。
「はい?」
「火を出せるのに、なんで飲む水はそのままなの?」
台所の女も、マルタも、そろって俺を見た。意味が分からないという顔だった。
「火は料理に使うものです」
「飲む水にも使えるだろ?」
「湯にしたい時は使いますよ」
「飲む水にも使って」
「毎回ですか?」
「毎回」
台所の女が遠い目をした。
マルタも遠い目をした。
またこの顔である。
神経質な三男坊を見る顔だ。
「坊ちゃま。屋敷中の飲み水を毎回煮るとなると、薪も手間も足りません」
「魔法の火なのに?」
「火をつけるのは魔法でも、燃やし続けるのは薪です」
「……なるほど」
そこは現実的だった。
魔法があるから全部解決、とはいかないらしい。
火はつけられる。でも、鍋を沸かし続けるには薪がいる。人手もいる。時間もいる。
俺は少しだけ納得した。
でも、納得しただけで諦めるわけではない。
そこで、別の疑問が浮かんだ。
「水は?」
「はい?」
「水も魔法で出せるの?」
台所の女が少し困った顔をした。
「少しなら」
「出して」
「飲むのですか?」
「確認する」
台所の女は小さな椀を手に取り、指先をその上にかざした。
火を出した時とは違う、薄い青い光が指先ににじむ。
ぽたり、と水が落ちた。
もう一滴。
それから細い糸のように水が落ち、椀の底にたまっていく。
俺は息を止めて見た。
水だ。
魔法で水が出ている。
すごい。
すごいのに、何かが違った。
椀の底にたまった水は、ほんの少し白く濁っていた。
泥水ではない。
腐っているようにも見えない。
でも、井戸水のように澄んではいなかった。
「……これ、飲めるの?」
「飲めなくはありません」
「飲めなくはない……?」
俺は椀を見つめた。
駄目だ。
その言い方は駄目だ。
飲める水と、飲めなくはない水は違う。
「もっと澄んだ水は出せないの?」
「水術師ならもっと綺麗な水を出せます」
「あなたは?」
「私は火をつける方が得意です」
「……なるほど」
魔法にも得手不得手がある。
火も水も誰が使っても同じではない。
火なら、すぐ消える火もあれば、薪にきちんと移る火もある。
水なら、澄んだ水もあれば濁った水もある。
出せる量も匂いもたぶん味も違う。
前世の俺なら、それをこう呼ぶ。
品質が安定しない。
「これなら井戸水の方が澄んでる」
「ええ。飲み水は普通、井戸から汲みます」
「じゃあ、やっぱり井戸水を煮る」
「はい」
魔法で水は出せる。
けれど、飲み水にはならない。
少なくとも、俺が安心して飲める水にはならない。
便利なのに信用できない。
魔法とは、思っていたよりずっと厄介なものだった。
「これ、リリアと母上の水も同じようにして」
俺が言うと、マルタの顔が少し変わった。
「それは旦那様からも言われております」
「本当に?」
「はい」
「ちゃんと沸かして」
「はい」
「湯気だけじゃ駄目。泡が出るまで」
「分かっております」
本当だろうか。
かなり怪しい。
俺は鍋を見つめた。
水は静かだった。
底に小さな泡がつき始める。
やがて、ふつふつと揺れた。
白い湯気が立つ。
鍋の中で水が動き、丸い泡が次々と浮かんで弾ける。
沸いた。
たぶん沸いた。
前世の俺なら、ここからさらに何分かと考える。けれど、今の俺は時計を持っていない。正確な時間を測れない。
「まだだよ」
俺が言うと、台所の女が鍋を見た。
「もう湯ですよ」
「湯気だけじゃ駄目」
「かなり熱いですよ」
「もう少し」
俺は鍋から目を離さなかった。
泡が出ている。
湯気も出ている。
でも、安心はできない。
前世の俺は面倒な潔癖症だった。今の俺は、その記憶を持った三歳児だった。つまり、最悪だった。
しばらくして、マルタが言った。
「そろそろよろしいですか」
「うん。たぶん」
「たぶんですか」
「本当はもっとちゃんと測りたい」
「何をです?」
「時間だよ」
マルタはまた困った顔をした。
この世界に時計はあるのだろうか。
あるとしても、台所の壁に掛かっているようなものではないだろう。
水を煮る時間も測れない。
手を洗う時間も測れない。
この世界は、清潔以前に手順がない。
鍋が火から下ろされた。
そこで俺は、次の恐怖に気づいた。
冷ます。
どこで。
何に入れて。
何をかぶせて。
誰が触って。
「……冷ます場所は?」
俺が聞くと、台所の女が言った。
「そちらの台に」
俺は台を見た。
木の台だった。
濡れている。
何かの汁がしみた跡がある。
野菜の皮も近い。
無理だ。
「そこは駄目」
「では、どこに?」
「きれいな場所」
「ここは台所ですよ」
「知ってる。でも、駄目だ」
台所の女は笑った。
マルタは笑わなかった。
俺が本気で泣きそうになっているのに気づいたのかもしれない。
彼女は少し考え、棚から乾いた板を一枚出した。
「これは今朝、出したばかりです」
「どこから?」
「棚から」
「棚は?」
「……坊ちゃま」
「……分かった。それでいい」
妥協だ。
悔しいが、妥協だ。
完璧を求めたら水を飲む前に倒れる。
煮た水は、乾いた板の上で冷まされることになった。
俺はそれを見張った。
魔法で火はつく。
魔法で水も出る。
けれど、それだけでは清潔にはならない。
この世界では、火を起こすよりも、水を出すよりも、安心できる一杯の水を作る方がずっと難しかった。




