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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら、いつの間にか衛生改革になっていました~  作者: 織 航(しき わたる)
第一章 小さな手洗い台

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第四話 水を煮るだけなのに無理でした

 俺の水を煮る。

 言葉にすれば、それだけだった。

 けれど俺にはその「それだけ」が信用できなかった。

 水を煮ると言った。

 でも、どの鍋で煮るのか。

 その鍋はいつ洗ったのか。

 誰が触ったのか。

 水を煮たあと、何に入れて冷ますのか。

 そこまで確認しなければ、安心できるわけがなかった。

 三歳児の体はまだふらつく。昨日も今日も泣き叫んだせいで喉も痛い。けれど、俺はマルタの服をつかんで離さなかった。


「アルノ坊ちゃま、本当に台所まで行かれるのですか」


「行く」


「火がありますよ」


「だから行く」


「危ないですよ」


「水の方が危ない」


 マルタは何か言いたそうな顔をしたが、結局ため息をついて俺を抱き上げた。

 台所は屋敷の奥にあった。近づくにつれて匂いが変わる。薪の匂い。煙の匂い。煮込んだ肉の匂い。濡れた床の匂い。古い油の匂い。情報量が多い。匂いだけで疲れる。

 台所では使用人たちが食事の支度をしていた。大きな鍋。木の台。吊るされた肉。野菜の皮。水桶。濡れた布。灰のついた炉。床には水が跳ねていた。泥のついた足跡があり、野菜のくずが落ち、何かを拭いたらしい布が木桶の縁にかかっている。その床を歩いた靴で、みんな普通に台所を動き回っていた。

 無理だ。

 一歩入っただけで、すでに帰りたい。

 けれど帰ったら、俺の水がここで何をされるか分からない。

 マルタが台所の女に声をかけた。


「坊ちゃまの水を煮ます。小鍋をひとつお願いします」


 台所の女が目を丸くした。


「水を……ですか?」


「ええ。水を」


「湯ではなく?」


「水を煮て、冷まして、水にするそうです」


 台所の女は俺を見た。

 俺も見返した。

 その顔は言っていた。

 何を言っているんだ、この子は。

 大丈夫だ。

 俺もそう思っている。


「鍋は洗って」


 俺が言うと、台所の女はさらに固まった。


「今から使う鍋ですよ?」


「だから洗って」


「昨日も使いましたし、すすいであります」


「洗って」


「坊ちゃま……」


「洗って」


 俺は譲らなかった。

 台所の女は困った顔でマルタを見た。

 マルタは俺を見た。

 俺が鍋を指差したまま、今にも泣きそうな顔をしていたからだろう。

 結局、マルタは諦めた顔でうなずいた。

 小さな鉄鍋が水で洗われる。

 だが、そこで終わりではない。

 洗った後に、手で鍋の内側を触った。

 その手は今、何を触った。

 さっき野菜の皮を捨てていなかったか。

 灰のついた炉を触っていなかったか。

 俺は震える指で鍋を指した。


「内側は触らないで」


「鍋の内側を触らずに、どう扱えと……?」


 台所の女が動きを止めた。


「外側だけ触れるんだよ」


「落とします」


「落とさないように持って」


「難しいことをおっしゃる」


「俺もそう思う」


 台所の女は小さく笑った。

 怒ってはいないらしい。

 少しだけ助かった。

 鍋に井戸水が注がれた。

 それを見ただけで喉が鳴る。飲みたい。ものすごく飲みたい。けれど、まだだ。

 台所の女が炉の前にしゃがんだ。薪を組み、細い枝を差し込む。そして指先を炉の奥へ向けた。小さく何かを唱える。次の瞬間、指先に赤い光が灯った。

 火だった。

 小さな火が、ぽっと薪に移る。乾いた枝がぱちりと鳴り、炉の中に炎が広がった。

 俺は目を見開いた。

 魔法だ。

 火を起こす魔法。

 この世界に魔法があることは、アルノの記憶として知っていた。けれど、前世の記憶が戻った今、改めて見るとかなり反則だった。

 ライターもマッチもいらない。

 火打ち石もいらない。

 指先で火がつく。

 なのに。


「火が出せるのに――」


 俺は呟いた。

 マルタが首をかしげる。


「はい?」


「火を出せるのに、なんで飲む水はそのままなの?」


 台所の女も、マルタも、そろって俺を見た。意味が分からないという顔だった。


「火は料理に使うものです」


「飲む水にも使えるだろ?」


「湯にしたい時は使いますよ」


「飲む水にも使って」


「毎回ですか?」


「毎回」


 台所の女が遠い目をした。

 マルタも遠い目をした。

 またこの顔である。

 神経質な三男坊を見る顔だ。


「坊ちゃま。屋敷中の飲み水を毎回煮るとなると、薪も手間も足りません」


「魔法の火なのに?」


「火をつけるのは魔法でも、燃やし続けるのは薪です」


「……なるほど」


 そこは現実的だった。

 魔法があるから全部解決、とはいかないらしい。

 火はつけられる。でも、鍋を沸かし続けるには薪がいる。人手もいる。時間もいる。

 俺は少しだけ納得した。

 でも、納得しただけで諦めるわけではない。

 そこで、別の疑問が浮かんだ。


「水は?」


「はい?」


「水も魔法で出せるの?」


 台所の女が少し困った顔をした。


「少しなら」


「出して」


「飲むのですか?」


「確認する」


 台所の女は小さな椀を手に取り、指先をその上にかざした。

 火を出した時とは違う、薄い青い光が指先ににじむ。

 ぽたり、と水が落ちた。

 もう一滴。

 それから細い糸のように水が落ち、椀の底にたまっていく。

 俺は息を止めて見た。

 水だ。

 魔法で水が出ている。

 すごい。

 すごいのに、何かが違った。

 椀の底にたまった水は、ほんの少し白く濁っていた。

 泥水ではない。

 腐っているようにも見えない。

 でも、井戸水のように澄んではいなかった。


「……これ、飲めるの?」


「飲めなくはありません」


「飲めなくはない……?」


 俺は椀を見つめた。

 駄目だ。

 その言い方は駄目だ。

 飲める水と、飲めなくはない水は違う。


「もっと澄んだ水は出せないの?」


「水術師ならもっと綺麗な水を出せます」


「あなたは?」


「私は火をつける方が得意です」


「……なるほど」


 魔法にも得手不得手がある。

 火も水も誰が使っても同じではない。

 火なら、すぐ消える火もあれば、薪にきちんと移る火もある。

 水なら、澄んだ水もあれば濁った水もある。

 出せる量も匂いもたぶん味も違う。

 前世の俺なら、それをこう呼ぶ。

 品質が安定しない。


「これなら井戸水の方が澄んでる」


「ええ。飲み水は普通、井戸から汲みます」


「じゃあ、やっぱり井戸水を煮る」


「はい」


 魔法で水は出せる。

 けれど、飲み水にはならない。

 少なくとも、俺が安心して飲める水にはならない。

 便利なのに信用できない。

 魔法とは、思っていたよりずっと厄介なものだった。


「これ、リリアと母上の水も同じようにして」


 俺が言うと、マルタの顔が少し変わった。


「それは旦那様からも言われております」


「本当に?」


「はい」


「ちゃんと沸かして」


「はい」


「湯気だけじゃ駄目。泡が出るまで」


「分かっております」


 本当だろうか。

 かなり怪しい。

 俺は鍋を見つめた。

 水は静かだった。

 底に小さな泡がつき始める。

 やがて、ふつふつと揺れた。

 白い湯気が立つ。

 鍋の中で水が動き、丸い泡が次々と浮かんで弾ける。

 沸いた。

 たぶん沸いた。

 前世の俺なら、ここからさらに何分かと考える。けれど、今の俺は時計を持っていない。正確な時間を測れない。


「まだだよ」


 俺が言うと、台所の女が鍋を見た。


「もう湯ですよ」


「湯気だけじゃ駄目」


「かなり熱いですよ」


「もう少し」


 俺は鍋から目を離さなかった。

 泡が出ている。

 湯気も出ている。

 でも、安心はできない。

 前世の俺は面倒な潔癖症だった。今の俺は、その記憶を持った三歳児だった。つまり、最悪だった。

 しばらくして、マルタが言った。


「そろそろよろしいですか」


「うん。たぶん」


「たぶんですか」


「本当はもっとちゃんと測りたい」


「何をです?」


「時間だよ」


 マルタはまた困った顔をした。

 この世界に時計はあるのだろうか。

 あるとしても、台所の壁に掛かっているようなものではないだろう。

 水を煮る時間も測れない。

 手を洗う時間も測れない。

 この世界は、清潔以前に手順がない。

 鍋が火から下ろされた。

 そこで俺は、次の恐怖に気づいた。

 冷ます。

 どこで。

 何に入れて。

 何をかぶせて。

 誰が触って。


「……冷ます場所は?」


 俺が聞くと、台所の女が言った。


「そちらの台に」


 俺は台を見た。

 木の台だった。

 濡れている。

 何かの汁がしみた跡がある。

 野菜の皮も近い。

 無理だ。


「そこは駄目」


「では、どこに?」


「きれいな場所」


「ここは台所ですよ」


「知ってる。でも、駄目だ」


 台所の女は笑った。

 マルタは笑わなかった。

 俺が本気で泣きそうになっているのに気づいたのかもしれない。

 彼女は少し考え、棚から乾いた板を一枚出した。


「これは今朝、出したばかりです」


「どこから?」


「棚から」


「棚は?」


「……坊ちゃま」


「……分かった。それでいい」


 妥協だ。

 悔しいが、妥協だ。

 完璧を求めたら水を飲む前に倒れる。

 煮た水は、乾いた板の上で冷まされることになった。

 俺はそれを見張った。

 魔法で火はつく。

 魔法で水も出る。

 けれど、それだけでは清潔にはならない。

 この世界では、火を起こすよりも、水を出すよりも、安心できる一杯の水を作る方がずっと難しかった。

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