第三話 水をそのまま飲むのが無理でした
手を洗ってからリリアに触る。
それだけのことが、屋敷では少しだけ騒ぎになった。
マルタは面倒そうにしながらも、リリアのそばへ行く前に湯で手を洗うようになった。産婆も、俺がじっと見ていると渋い顔で手を湯に通した。
完璧ではない。
湯に手をつけるだけで洗ったことになるのかも怪しい。
拭く布だって信用できない。
けれど、今はそれ以上を言い出す前に別の問題が来た。
喉が渇いた。
三歳の体は本当に面倒くさい。泣けば喉が痛くなる。叫べば腹が減る。少し安心すれば眠くなる。そして目が覚めれば、当然のように水が欲しくなる。
俺は寝台の上で起き上がり、枕元に置かれた水差しを見た。
素焼きの水差しだった。
もとはただの土だ。
表面には細かな傷があり、水を吸い、匂いも残りそうだった。
いつ洗ったのか分からない。何で拭いたのかも分からない。
横には木の杯が置かれていた。
木。
木である。
染みる。
吸う。
傷に入る。
乾ききっているかも分からない。
無理だ。
そこへマルタが入ってきた。
「アルノ坊ちゃま、お水を飲まれますか」
飲みたい。
ものすごく飲みたい。
喉は渇いている。
でも、その水差しから注がれた水をその木の杯で飲むのは無理だった。
「その水、どこから来たの?」
「井戸でございます」
マルタが少し首をかしげた。
「いつ汲んだの?」
「今朝です」
「――誰が?」
「下働きの娘です」
「何で汲んだの?」
「桶でございます」
「その桶は、昨日は何に使ったの?」
「………」
マルタが黙った。
俺も黙った。
沈黙が答えだった。
やめてほしい。
安心したくて聞いているのに、黙られると余計に怖い。
「……坊ちゃま、水ですよ」
「水だから怖いんだよ」
「水は飲むものです」
「飲むものだから怖いんだよ」
マルタは困った顔をした。
だが、俺からすれば井戸水をそのまま飲める方がよほど不思議だった。
前世の俺は、日本で暮らしていた。蛇口をひねれば水が出た。透明な水が当たり前のように出た。潔癖症の俺はそれでも気になる時があったが、今思えば贅沢すぎる悩みだった。
この世界には蛇口がない。浄水器もない。消毒済みのコップもない。
誰がどこに置いたか分からない桶で汲んだ井戸水が普通の水として差し出される。
「――煮て」
俺は言った。
マルタが瞬きをした。
「何をですか?」
「水だよ」
「水を……飲むために煮るのですか?」
「うん」
「薬湯でも、産湯でもなく?」
「飲む水だよ」
「今朝汲んだばかりの澄んだ井戸水でございますよ」
「汲みたてでも駄目なことがあるの」
「水を煮たら湯になります」
「知ってる」
「湯を冷ましたら水に戻ります」
「そうだね」
「……何のために?」
「安心のために決まってるだろ」
マルタは本気で分からないという顔をした。
別に困らせたいわけではない。わがままを言いたいわけでもない。ただ、水を飲んで腹を壊したくないだけだ。赤ん坊や母上にもそんな水を飲んでほしくないだけだ。
この世界の人たちは、水を煮ることを知らないわけではない。薬湯も作る。産湯も用意する。料理にも火を使う。でも、澄んだ井戸水を飲むためだけに毎回煮るという発想がない。
「水には見えない汚れがあるかもしれない」
「見えませんが……?」
「見えないから怖いんだよ」
「匂いもしません」
「匂わないから安全とは限らない」
「澄んでおりますよ」
「澄んでても駄目なことがあるの」
濁っていれば避けられる。
腐った匂いがすれば捨てられる。
でも、見た目が澄んでいる水ほど困る。
飲んですぐ腹を壊すものだけではない。
その時は何も起きなくても体の中に残るものもある。
胃に住みつくもの。
腸を荒らすもの。
熱を出させるもの。
小さい子や弱った母親から、少しずつ体力を奪うもの。
見えない。
匂いもしない。
だから怖い。
考えれば考えるほど三歳児の怖がり方ではなくなっていく。
けれど、黙っていれば水を飲まされる。
言うしかない。伝わるかどうかは、別の問題だった。俺は毛布を握りしめた。
「お腹を壊すかもしれない。熱が出るかもしれない。小さい子なら死ぬかもしれない」
リリアの名前は出さなかった。
でも、マルタの顔が変わった。最近は、リリアの話をすると大人たちは少しだけ黙る。生まれたばかりの赤ん坊はそれだけ弱いものとして見られているのだろう。彼らは、弱いと知っている。でも、なぜ弱るのかは知らない。
「……旦那様に聞いてまいります」
「今、飲みたい」
「――では、今から煮ます」
マルタは一瞬、俺の顔を見た。
俺が泣くかどうかを見ていたのだと思う。
「ちゃんと沸かして」
「はい」
「湯気が出るだけじゃ駄目。ちゃんと煮立たせて」
「はい」
「冷ます時、何に使ったか分からない布をかけないで」
「……はい」
「杯も煮て」
マルタは遠い目をした。
「坊ちゃま。この調子ですと、屋敷中のものを煮ることになります」
俺は少し考えた。
水。杯。布。小刀。食器。匙。赤ん坊に触れるもの。母上のそばに置くもの。
考えれば考えるほど煮たいものが増えていく。
「できるところから煮る」
俺が言うと、マルタは頭を抱えた。
「三歳のお子様の言葉とは思えません」
「俺もそう思う」
そうして、この世界に来て初めて俺の飲み水が煮られることになった。
水を飲む。
ただそれだけのことに説明と交渉と人手が必要だった。
この世界では、生きるために必要なものでも一から信用できなかった。




