第二話 妹が朝まで生きているか怖いです
結果から言えば、俺の叫びは半分だけ通ったらしい。
いや、通ったというより、泣き止ませるために大人たちが折れたのだと思う。
産後の母上と生まれたばかりのリリアのそばで三歳児が泣き叫び続ける。
それは、この屋敷の大人たちにとっても無理だったのだろう。
布は替えられた。
手も洗わせた。
ただし、それが俺の求める清潔だったかと言われるとまったく違う。
湯に通した。
洗った。
乾いた布を使った。
この世界の大人たちはそれで十分だと思っている。
違う。
全然違う。
それは消毒として怪しい。そもそも、その布をどこで乾かした。誰が触った。どの桶を使った。湯は本当に沸いていたのか。考え出すと、頭がおかしくなりそうだった。
俺は寝台の上で目を覚ました。
喉が痛い。目も重い。昨日、泣きながら叫びすぎたせいだ。ぼんやりと天井を見ながら、俺は二つの記憶を並べていた。
三歳のアルノとしての記憶。
前世の俺としての記憶。
この世界は、前世で読んだ中世ヨーロッパに似ている。
石造りの屋敷。薪の匂い。井戸の水。産婆。薬草。神官の祈り。馬車と泥道。
もちろん、まったく同じではない。
ここには魔法がある。傷を塞ぐ魔法も、熱を下げる薬草も、神官の祈祷もある。
けれど、赤ん坊に触る前に手を洗うことも、飲み水や布を用途ごとに分けることも、前世の現代日本ほど徹底されていなかった。
前世で知っている中世の話でも赤ん坊や子どもはよく死んだ。
熱。
下痢。
栄養不足。
冬の寒さ。
出産後の母親の衰弱。
原因を知らない時代では、それらは運や神の思し召しにされることも多かったはずだ。そして、この世界でも同じだった。アルノの記憶の中にもそういう話はある。
使用人の子が熱で亡くなった。
村の赤ん坊が乳を飲まなくなった。
産後の女が寝込んで、そのまま戻らなかった。
大人たちは声を落として話し、神官を呼び、祈り、それから「運が悪かった」と言った。
昨日までの俺は、それをよく分かっていなかった。
三歳の子どもだったからだ。
けれど、前世の記憶が戻った今なら分かる。
運ではないものが混じっている。
手を洗っていない。
布が清潔ではない。
水をそのまま使っている。
刃物を使い回している。
赤ん坊に触る手と、血のついた布を片づける手が分けられていない。
悪意があるわけではない。
誰かが怠けているわけでもない。
ただ、知らない。
見えない汚れが命を奪うことを誰も知らない。
俺は毛布を握りしめた。
この屋敷が特別に汚いのではない。
この世界そのものが前世の俺から見ればあまりにも危うかった。だから、最初に出た言葉は決まっていた。
「リリアは?」
妹の名前だ。
昨日、生まれたばかりの赤ん坊。
俺が、汚い布で包むなと泣き叫んだ相手。
そばにいた乳母のマルタが少し驚いた顔をした。
「リリア様なら奥様のおそばにいらっしゃいますよ」
「生きてる?」
マルタの顔が固まった。
「……生きておられます」
「母上は?」
「奥様もご無事です」
よかった。
そう思った瞬間、体から力が抜けた。
三歳の体は分かりやすい。安心しただけで眠くなる。けれど、眠っている場合ではなかった。
「見に行く」
「アルノ坊ちゃま、まだお休みになった方が――」
「――見に行く」
マルタは困ったようにため息をついた。
それでも、上着を着せてくれた。
昨日、裸足で走った廊下を今日は靴を履いて歩く。母上の部屋に近づくと空気が少し変わった。薬草の匂い。血の匂い。湯の匂い。湿った布の匂い。全部混ざっている。
俺は息を止めるようにして扉の前に立った。
中では母上が寝台に横になっていた。
顔は白い。髪は汗で額に張りついている。
いつもなら俺を見ると少し体を起こしてくれる。手を伸ばして、髪を撫でてくれる。けれど今は、まぶたを上げるだけで精一杯のように見えた。
その姿を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
前世の記憶ではない。
三歳のアルノの記憶が母の手を覚えていた。
眠れない夜に背中を撫でてくれた手。
転んで泣いた時、髪を撫でてくれた手。
その手がなくなるかもしれないと思うと息が詰まった。
「……アルノ」
母上がかすれた声で呼んだ。
俺は部屋の入口で止まったまま、こくりとうなずいた。
近づきたい。でも近づきたくない。
床が気になる。
布が気になる。
産婆の手が気になる。
母上の体力も気になる。
リリアの呼吸の小ささが怖い。
「……昨日は、なぜあそこまで騒いだ」
部屋の奥から父上の声がした。父上は寝台の近くに立っていた。背が高く、顔が怖い。昨日、俺が叫んだ時もこんな顔だった。
俺は少しだけ黙ってから答えた。
「ーー布が怖かった」
「布が?」
「手も。小刀も。水も」
「お前は昨日から怖いものが多いな」
「多いよ」
母上が小さく笑った。その笑い方が弱々しくて、俺はまた怖くなった。
「母上、熱は?」
「大丈夫よ」
「寒くない?」
「ええ」
「……痛い?」
「少しだけ」
少しだけ。
大人はよくそう言う。
前世の記憶を取り戻した俺は知っている。大人の「少し」は信用できない。特に、出産直後の母親の「少し」は信用できない。
「無理しないでね」
「ありがとう、アルノ」
そう言われて、俺は少しだけ気まずくなった。
俺は優しい息子として来たわけではない。
ただ怖くて見に来ただけだ。
リリアが死んでいないか。母上が死んでいないか。誰かがまた汚い手で触っていないか。確認しないと眠れなかっただけだ。
リリアが小さく泣いた。マルタがすぐに動こうとした。
「――手は?」
俺が反射的に言うと、マルタの足が止まった。
「……洗っております」
「そのあと何を触った?」
マルタは黙った。
父上も黙った。
産婆も黙った。
俺は泣きそうになった。
なぜ黙る。
黙らないでほしい。
俺はただ安心したいだけなのに。
「洗ってから触って。リリアは小さいから」
部屋の空気が重くなった。
産婆が息を吐いた。
「アルノ坊ちゃま。赤子というものは弱いものです。どれだけ気をつけても、育たぬ子は育ちません」
その言葉は、きっとこの世界では普通なのだろう。
赤子は弱い。
育たない子は育たない。
そうやって、たぶん何人も見送ってきたのだ。
だから、責める気にはなれなかった。
でも。
「違う」
「……違う?」
「育たない子もいるかもしれない。でも、死ななくてよかった子もいるはずだ」
父上がいぶかしげに俺を見た。
三歳児の言葉だ。
きっと、うまくは伝わっていない。
それでも俺の中の前世の記憶だけは、はっきり言っていた。
全部は救えない。
けれど、全部を運命のせいにするな。
「手を洗ってたら、布がきれいだったら、水を煮てたら、死ななかった子もいるかもしれない」
部屋は静かになった。
俺の言葉を誰もすぐには信じなかった。
それでも、誰も笑わなかった。
「……湯を持ってこさせましょう」
産婆が小さく言った。
それが正しい手洗いかどうかは分からない。
石鹸もない。流水もない。手を拭く布も信用できない。
でも、何もしないよりはいい。
リリアは生きている。
母上も生きている。
屋敷の大人たちはそれだけで安心していた。
けれど俺は、安心できなかった。
この世界では、赤ん坊が朝まで生きているだけでも祈るようなことだったからだ。




