第一話 妹のおくるみが無理でした
妹の産声を聞いた瞬間、俺は思った。
うるさい。
まだ眠いのに。
夜明け前だというのに。
屋敷中がばたばたと騒がしく、廊下を走る足音と女たちの声が、薄い扉の向こうから何度も聞こえてくる。
俺は毛布の中で丸くなった。
三歳の体は眠気に弱い。寒さにも弱い。腹もすぐ減る。何より、泣き声が頭に響く。
赤ん坊が泣いている。
誰かが笑っている。
母上が無事だったと、乳母が泣きながら言っている。
妹が生まれたらしい。
そう思った瞬間だった。
頭の奥で、何かが割れた。
病院。
白い天井。
消毒液の匂い。
手洗い。
マスク。
アルコール。
清潔なガーゼ。
赤ん坊を包む清潔な布。
知らないはずのものが一気に頭の中へ流れ込んできた。
俺は、三歳の辺境貴族の三男だった。けれど、それだけではなかった。前世の俺は日本で暮らしていた。大人だった。そして、かなり面倒な潔癖症だった。
その記憶が戻った瞬間、俺は毛布を跳ねのけた。
「アルノ坊ちゃま?」
乳母が驚いた声を上げる。
俺は答えなかった。答える余裕がなかった。
廊下へ出る。
冷たい床に足が触れて、ぞわりとした。裸足だ。最悪だ。けれど、それどころではない。
妹が泣いている。
生まれたばかりの赤ん坊がいる。
なら、きっと今、誰かが妹を包もうとしている。
俺は母上の部屋の前まで走った。
扉は少しだけ開いていた。
中には入れない。三歳の男児が入っていい場所ではないのだろう。そんなことは分かる。分かるが、隙間から見えてしまった。
産婆が布を手にしていた。
古い布だった。何度も洗ったのだろう。端は柔らかくなっている。けれど、白くはない。乾いてはいるが、どこに置かれていたのか分からない。近くの椅子の上には、血のついた布と、湯気の消えかけた桶と、誰が触ったのか分からない小刀があった。
産婆はその布を広げた。
生まれたばかりの妹を包もうとしていた。
「それで包むなあああああ!」
俺は叫んだ。
部屋中の大人がこちらを見た。父上も、乳母も、産婆も、使用人も、全員が固まった。
俺は三歳だった。背も低い。声も幼い。今にも泣きそうだった。けれど、前世の俺が全力で叫んでいた。
その布は駄目だ。
その手で触るな。
その小刀も駄目だ。
その桶の水も信用できない。
「それ、煮て! 布も煮て! 手を洗って! 赤ちゃんに触らないで!」
産婆が目を丸くした。
「坊ちゃま、何を――」
「とにかく洗って!」
俺は泣いた。
泣きながら叫んだ。
妹が生まれた感動ではない。家族が増えた喜びでもない。
この世界の衛生環境が、あまりにも無理だったからだ。
新連載です。
剣も魔法もありますが、主人公が最初に戦うのは魔物ではなく、汚れと衛生環境です。
中世風の魔法世界で、潔癖症の彼がどこまで暮らしを整えていけるのか。
まずは手洗いと煮沸から始まります。
しばらくは毎日更新予定です。
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