第二十六話 雨の日の後始末
雨の街からどうやって屋敷へ戻ったのかよく覚えていない。
気がつけば自分の部屋にいて椅子に座っていた。
ミーナに何度か声をかけられ、濡れた服を脱がされて身体と髪を洗ってもらったことは覚えている。今は服を着替えて髪も綺麗に拭いてもらっていた。それでも、頭の中にはさっきの光景があった。
荷車の車輪が水を跳ね上げ、茶色い塊が目の前を横切っていく。あの塊が地面に落ち、雨水に崩れていくところまではっきりと思い出せる。
これまでは足元に落ちている馬糞を避ければいいと思っていた。けれど、雨が降るとそれは通用しなかった。膝の上に置いた手を見つめているとミーナが顔を覗き込んできた。
「アルノ様、お加減はいかがですか?」
「……大丈夫」
「本当ですか? お戻りになってからずっとぼんやりされていますよ」
「……うん」
ミーナはしばらく俺の顔を見ていたが髪に触れて乾き具合を確かめると少しだけ安心したようだった。
「身体も温まりましたし、雨に濡れたからといってすぐにお風邪を召されるわけではありませんからね」
「……ありがとう、ミーナ」
「いいえ。あとはゆっくりお休みになってください」
ミーナが布を片づけ始めたところで扉が叩かれた。ミーナが応対し、廊下にいた使用人から何かを伝えられる。戻ってきたミーナは少し言いにくそうな顔をしていた。
「旦那様がお呼びだそうです」
父上が?
街でのことだろうか。
書斎へ入ると、父上は机に向かっていた。俺が挨拶をすると顔を上げて、いつものように椅子を勧めてくれた。けれど、その表情は少し厳しかった。
「身体はもう大丈夫か?」
「はい。ミーナに洗ってもらいました」
「そうか。では、今日のことを話そう」
「分かりました」
俺は椅子に腰を下ろした。
「――お前は街で何と言ったか覚えているか?」
「……馬を入れないでほしいと」
「そうだ。あれを聞いた者が、本当に馬を止めたらどうなる?」
俺は答えに詰まった。
荷車が止まれば市場へ荷物が届かなくなる。荷を運んできた商人も困るだろうし、街の人たちだって必要なものを買えなくなるかもしれない。そんなことはここしばらく自分で調べてきたのだから分かっている。
「……荷物が運べなくなります」
「分かっているではないか」
父上の声が少し厳しくなった。
「お前はヴァイスベルク家の人間だ。まだ幼くとも街の者たちはお前が誰なのか知っている。あの場で馬を入れるなと言えばただの子供の言葉では済まなくなる」
「……はい」
俺は頷いた。
命令するつもりなんてなかった。
ただ、あれ以上馬糞を広げないでほしかった。もう一台も荷車が来なければいいと思った。けれど、俺の言葉を本気にして荷車を止める者がいたら父上の言う通り大変なことになる。そこまで考える余裕が、あの時の俺にはなかった。
「……ごめんなさい」
「分かったならこれ以上は何も言うまい。今後はよく考えてから口にしなさい」
「はい……」
父上は俺の顔をしばらく見ていた。
俺も何か言わなければと思ったが、あの雨の中で見たものをどう説明しても馬を入れないでほしいという話に戻ってしまいそうだった。
「……父上」
「何だ?」
「馬が必要なのは分かっています」
「ああ」
「……でも、あんなに通りが汚れるなんて思ってなかったんです」
父上はすぐには答えなかった。しばらく俺の顔を見る。
「そうだな。雨の日は誰にとっても嫌なものだ」
「……はい」
「今日のことは忘れずにいなさい」
俺はもう一度頷いた。
最後に、雨の中へ連れ出したことについては少し無理をさせたかもしれないと言い、今日は休むようにと告げられた。
椅子を降りて頭を下げてから書斎を出る。
父上の言っていることは正しかった。
馬がいなくなれば困る人がいる。そんなことを言われるまでもなく知っていたはずなのに俺はあの場で何度も馬を入れないでほしいと思った。
それなら、どうすればよかったのだろう。
結局、何も思いつかなかった。
廊下へ出るとミーナが待っていた。
「旦那様のお話は終わりましたか?」
「……うん」
「では、お部屋へ戻りましょうか」
差し出された手を取ろうとして少し考えた。
「……リリアに会いたい」
「かしこまりました」
リリアの部屋へ向かうと、母上が床に広げた布のそばに座っていた。リリアは木の輪を掴んでいたが、俺に気づくとすぐに手を離した。
「あー、うぅ」
両腕を動かし、腹這いのままこちらへ進んでくる。朝と同じだった。這うたびに少し身体を傾かせながらも俺のところまで来ると嬉しそうに手を伸ばしてくる。
「お帰りなさい。雨は大丈夫だった?」
「……はい」
母上が首を傾げた。
「どうしたの? 疲れてしまった?」
「……少し」
「そう。今日は大変だったわね」
俺は靴を脱いで布の上へ座り、リリアの前に手を持っていく。すぐに指を握ってくる。リリアはそれだけで満足したように笑っていた。
俺も笑い返そうとしたけれど、うまくできなかった。
リリアはそんなことを気にする様子もなく、今度は俺の袖を掴んで膝にちょこんと座ろうとしてくる。俺は倒れないように手を添えて、リリアを引き寄せた。まだ歩けない小さな足が俺の膝に触れた。
しばらくリリアと過ごしてから部屋を出た。
リリアが歩けるようになるのは嬉しい。
そのはずなのに、今日の街を思い出すとどうしても一緒に歩いているところを想像できなかった。そんなことを考えながら自分の部屋へ戻ろうとするとミーナが廊下で声をかけてきた。
「坊ちゃま、今日のお靴のことでございますが」
「……靴?」
「はい。泥を落としてから乾かそうと思うのですがかなり濡れておりますので」
その言葉を聞いた途端、さっきまで忘れていたものを思い出してしまった。
あの泥水を踏んだ靴だ。玄関で脱いでから一度も触っていない。洗ってもらうまでは屋敷の中へ入れないように頼んであるが今も外に置かれているのだろうか。
「……まだ玄関にある?」
「はい。外履きを置くところにございます。中へはお持ちしておりませんのでご安心ください」
「……そう。それならいいんだけど」
「ですが、このままでは革が傷んでしまいます。そろそろお手入れをしてもよろしいでしょうか?」
俺は少し考えた。表面についたのが泥だけなら、いつもと変わらない。けれど今回は違う。あの道に広がっていたのは馬糞が混じった泥水だった。靴底には当然ついているだろうし縫い目から染み込んでいるかもしれない。
「……捨てよう」
「駄目です」
即答だった。
ミーナは俺の顔を見たまま少しも迷う様子がない。
「まだ履けます」
「でも馬糞の水を踏んでる」
「どこに馬糞が混じっていたのかまでは分かりませんよ」
「分からないから嫌なんだよ」
ミーナは少し困ったようにため息をついた。
「では、坊ちゃまはご覧になさらないでください。私の方で勝手に綺麗にしておきます。それでしたらよろしいでしょうか?」
「……徹底的に?」
「徹底的に」
「靴底も?」
「靴底も」
「縫い目も?」
「縫い目もです」
そこまで聞いて、ようやく少しだけ安心する。それでもまたあの靴を履く自分を想像できない。
「……洗ってくれても履くとは限らないからね」
「かしこまりました。まずは汚れを落としてそれからよく乾かしておきます」
「ちゃんと乾く?」
「中まで濡れておりますが、暖炉から離したところに置いておけば明日の朝までには乾くと思います」
「……そう」
いっそのこと乾かないままでもいいのに。
そんなことを考えているとミーナが少し笑った。
「それでは失礼いたします」
ミーナが玄関の方へ歩き出す。
俺はその背中を見送りながらもう一度声をかけた。
「……やっぱり捨てない?」
「捨てられません」
振り返りもしないで返事があった。
やっぱり駄目か。
翌朝、玄関を通りかかったところで昨日の靴が目に入った。
外履きを置く場所の端に揃えてある。革はすっかり乾いており、あれほどついていた泥も綺麗に落ちていた。縫い目にも汚れは見当たらない。
俺は思わず足を止めた。
少し近づいてみる。
靴底まで確かめようとしたところで隣に立つミーナと目が合った。
「……徹底的に洗ったの?」
「はい。お申しつけの通りに」
そう答えたミーナがさりげなく手を前で重ねた。
何となく気になって目を向けると、指先が赤く荒れ、ところどころ小さく皮がむけていた。
最近は顔を洗う水も冷たくなってきている。そんな中であの靴を何度も洗ってくれたのだろうか。俺の視線に気づいたミーナは両手を後ろに隠してしまった。
……そこまでしなくても。
そう思いかけて口を閉じた。
靴底も縫い目も徹底的にと頼んだのは俺だった。
しばらく靴を眺めてから顔を近づけた。おそるおそる匂いを嗅いでみる。いつもの革の匂いだった。それでも昨日の泥水を思い出すとすぐに履く気にはなれない。
ミーナを見ると相変わらず微笑んでいる。その手をまだ後ろに隠したまま。
俺は小さくため息をつき、仕方なく靴を履いた。




