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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら領地の「普通」がいつの間にか変わり始めました~  作者: 織 航(しき わたる)
第二部 街の通り

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第二十七話 蜂蜜をたくさん食べました

 最近、リリアは何でも口へ入れたがるようになった。

 鈴のついた木の輪もそうだ。以前は手を伸ばして掴むだけだったのに今では少し眺めてから口へ運んでいる。

 そのたびに涎で濡れた木の輪を布の上へ落とし、しばらくするとまた拾って口へ入れる。もちろん木の輪は綺麗にしてあるし布も毎日替えている。それでも、見ていて気持ちのいいものではなかった。

 とはいえ、何でも口へ入れようとする時期なのは分かっている。いちいち取り上げていたらリリアは何もできなくなる。


「今日はイルゼが来るわよ」


 母上にそう言われたのはリリアが木の輪を口へ運ぼうとしているところだった。


「……イルゼが?」


「ええ。そろそろリリアにもお乳以外のものを食べさせてみようと思っているの」


「ああ、離乳食ですか」


「りにゅうしょく?」


 母上が首を傾げた。


「お乳以外の食べ物に少しずつ慣れていくことです」


「そうね。そのために来てもらうのよ」


 もうそんな時期か。

 前世では生後五、六か月頃から始めることが多かったと思う。リリアはそれより少し遅いが、この世界ではこんなものなのかもしれない。

 母乳はよく飲んでいるし、身体も順調に大きくなっている。俺が急がせる理由もなかった。


「何を食べさせるんですか?」


「最初は麦を柔らかく煮たものかしら。レオルたちの時もそうだったけれど、久しぶりだからイルゼに相談しようと思っているの」


「俺の時も?」


「ええ。あなたは最初、匙を近づけるだけで顔を背けてしまって大変だったのよ。リリアは食べてくれるかしらね」


 母上が少し笑ってからリリアへ目を向けた。あれだけ何でも口へ入れたがるのだから食事も案外すんなり受け入れてくれるかもしれない。

 そんなことを考えながら俺もリリアのそばへしゃがみ込んだ。

 イルゼが屋敷へ来たのは昼前だった。

 最後に会ったのはリリアが熱を出した時だったと思う。あの時は何日も熱が下がらず、母上もマルタもほとんど眠れていなかった。イルゼもずっとそばについて何度も具合を看てくれていた。

 ただ、おくるみや腹這いについて言われたことも忘れていなかった。イルゼは今までと違う育て方をすることに慎重だったし母上もあの時はひどく動揺していた。

 部屋の前でイルゼが手を洗っているところで俺も一緒になった。石鹸を使い、水で流してから布で拭く。イルゼも慣れた手つきで済ませるとマルタが開けた扉から部屋へ入っていった。

 中では母上がリリアを抱いて待っていた。


「今日はよろしくお願いね」


「承知いたしました。まずはリリア様のお身体を拝見いたします」


 イルゼはリリアを寝台へ寝かせて頬や腹へ触れた。腕と脚を順番に持ち上げ、曲げ伸ばしをしながら動きを確かめていく。

 リリアは最初こそ大人しくしていたが途中から脚をばたばたと動かし始めた。イルゼが片脚を持ち上げるともう片方の足で寝台を蹴る。


「ずいぶん力がつきましたね」


 イルゼが少しだけ笑った。


「そうでしょう? 最近は抱いていてもじっとしていないのよ」


 母上も嬉しそうだった。

 イルゼは授乳の様子や便の具合を聞き、身体に気になるところがないか確かめると食事を始めてもよいと告げた。


「最初は麦をよく煮たものがよろしいでしょう。粒が残らぬほど柔らかくしてほんの少しずつお与えください。嫌がるようでしたら無理になさらず、お乳も今まで通りに」


 母上が頷いた。

 俺も聞きながら納得していた。

 食材は違っても前世でやっていたこととそれほど変わらないらしい。


「では、今日から少しずつ始めてみましょう」


 母上がマルタへ目を向けるとイルゼが立ち上がった。


「最初のお食事でございますので一度、台所へ参りましょう。念の為に確認をして参ります」


「お願いできるかしら」


「俺も行きます」


「アルノも?」


「何をどう作るのか見たいです」


 母上は少しだけ俺を見た。


「いいけれど、邪魔はしないようにね」


「はい」


 返事をすると、母上が笑った。その笑い方が少し気になったが俺はイルゼたちの後を追うことにした。

 台所は相変わらず忙しそうだった。

 大きな鍋では肉が煮込まれ、作業台には切り分けられた食材が並び、料理番たちが動き回っていた。

 俺は入口の手前で足を止めた。床には水が跳ねているし、炉の周りには灰も落ちている。

 イルゼが用件を伝えると年かさの料理番がすぐに小鍋を用意した。麦を少し取り分け、細かく砕いてから鍋へ移す。

 以前にも俺や兄上たちの食事を作ってきたからか手つきに迷いはないようだった。料理番が棚から青い紐のついた壺を取り出すとイルゼが首を傾げた。


「そちらはリリア様のお水ですか?」


「いいえ。以前はそうでしたが、今は専用というわけではありません。今は屋敷の者もこちらを飲んでおります」


「……皆が?」


「はい。煮て冷ました水を飲み始めてからは腹を下して休む者が少なくなりまして。実際に水のおかげかどうかは分かりませんが、今では料理の邪魔にならない時にまとめて沸かしております」


 イルゼは少し意外そうに並んだ壺を見た。俺とリリアのために始めたことが今では屋敷の者たちにも広がっている。それを知らなかったのかもしれない。俺だって最初に知った時は驚いたくらいだ。

 料理番はそのあと慣れた手つきで鍋へ水を注いだ。ところが、安心できたのはそこまでだった。


「少し甘みをつけて差し上げましょうか。初めてのお食事ですし、その方が食べやすいかもしれません」


 イルゼがそう言った。料理番も頷き、棚の奥へ手を伸ばす。


「では、蜂蜜を少しお入れいたしましょう」


「……蜂蜜?」


 俺は訊ねた。


「はい。ほんの少しでございます」


 料理番は何でもないことのように答えた。

 イルゼも頷いている。

 俺はその場で固まった。

 一歳未満の赤ん坊に蜂蜜を与えてはいけない。

 乳児ボツリヌス症。前世で子供が生まれた時、何度も目にした注意事項だった。加熱してもダメだ。


「……蜂蜜は入れない方がいいと思います」


 イルゼがこちらを見る。


「なぜでございますか?」


 当然の質問だった。

 前世でそう教わったから。

 そんな説明が通用するわけがない。菌のことを話したとしても、それを確かめる方法がない。そもそも俺自身、詳しく説明できるほど知っているわけではなかった。


「……まだ小さいから」


「ほんの少しでございますよ。リリア様が召し上がりやすいようにするためのものでございます」


 イルゼは落ち着いて答えた。

 これまで何人もの赤ん坊を見てきた人だ。蜂蜜を口にしても何事もなく育った子供だっているのだろう。今さら三歳児に危ないと言われても納得できるわけがない。

 どうする。

 今ならまだ間に合う。

 料理番はすでに小さな壺を取り出していた。蓋が開けられる。琥珀色の蜂蜜が見えた。麦粥に入れられるのを防がねばならない。


「……それ、ちょっと見せてもらえませんか?」


 料理番が振り返った。


「蜂蜜でございますか?」


「はい。どんな壺に入っているか見てみたいです」


「壺……でございますか?」


「はい」


 料理番は少し不思議そうにしたが、俺が以前から壺の扱いや印にうるさいことを思い出したのだろう。身を屈めて俺に壺を差し出してくれた。


「こちらでございます」


 小さな陶器の壺だった。

 中にはそれほど多く残っていない。底に溜まった蜂蜜が光っている。それを見た瞬間、俺は壺に手を伸ばしてひったくった。そのまま壺の中に手を突っ込む。


「――坊ちゃま?」


 壺の内側に指を滑らすとべったりと蜂蜜がまとわりついた。

 指についた蜂蜜を口へ押し込み、飲み込むと同時にもう一度壺へ手を入れた。

 甘い。

 ものすごく甘い。

 指先で掻き集め、また口へ運んだ。それでも底にはまだ残っている。

 壺の内側はいつ洗った?

 ここに来るまで俺は何を触っていた?

 考えるな。

 俺は自分に言い聞かせながら一心不乱に蜂蜜を舐め続けた。


「何をなさっているのです!」


 イルゼが声を上げた。料理番が慌てて手を伸ばしてきたので俺は壺を胸へ抱え込んだ。

 小さな陶器の壺だ。無理に引っ張れば落として割ってしまうかもしれない。料理番もそれに気づいたらしく伸ばしかけた手を止めた。


「坊ちゃま、おやめください! こちらへお渡しください!」


 イルゼもそばへ来て俺の手から壺を取ろうとしている。

 あと少し。

 底に残っていた蜂蜜を指でこすり取り、最後の一口を口へ押し込んだ。料理番が壺を取り上げようとした時には、甘さで舌が痛くなりそうだったがようやく壺の底が見えた。


「……やっと食べきった」


 目の前の蜂蜜はなくなった。これでリリアの麦粥へ入れることはできない。


「坊ちゃま!」


 料理番に壺を取り上げられた。イルゼも俺の顔を覗き込んでいる。


「そんな召し上がり方をなさってはお腹を悪くされますよ!」


 そっちか。

 俺はため息をついた。


「……大丈夫です」


 たぶん。

 口の中が甘すぎて気持ち悪い。

 いや、それよりも指だ。

 蜂蜜がべったりついている。爪の間にも入り込んでいる。


「……手を洗いたいです」


 料理番が呆れたように俺を見た。


「洗うものを用意させましょう。ですが、その前に――」


「今すぐ洗いたい」


 指を開くと蜂蜜が糸を引いた。

 無理だ。

 もうこれ以上は無理だ。

 結局、すぐに水を持ってきてもらい、石鹸で指の間まで何度も洗った。それでも指先を擦り合わせるとまだ少しべたついているような気がする。

 そんな俺を見ながらイルゼが深く息を吐いた。


「アルノ様。蜂蜜がお好きなのは分かりましたが、あのような召し上がり方はいけませんよ」


「……はい」


 言い返せなかった。

 好きだから食べたわけではない。

 むしろ、しばらく蜂蜜は見たくない。

 でも、そんなことを説明できるはずもなかった。

 料理番が空になった壺を確かめながらため息をついた。


「全部召し上がってしまわれましたね」


「……はい」


「まあ、なくなった分はまた仕入れればよろしいのですが」


 俺は顔を上げた。


「……また?」


「はい。次の仕入れの際にお願いしておきますので、ご心配なく」


 料理番は親切にそう言った。

 俺は何も答えられなかった。

 ……待て。

 なくなったらまた仕入れる?

 ということは、俺が全部食べても終わらないのか?

 これからリリアが一歳になるまで俺はこの屋敷に入ってくる蜂蜜を全部食べ続けなければならないのか?

 あの小さな壺だけでもう口の中が気持ち悪いのに。

 次はもっと大きな壺だったら?

 何個も仕入れてきたら?

 ……無理だ。

 料理番はもう麦粥の方へ戻っていた。イルゼも鍋の中を確かめている。俺だけがまだべたついている気のする手を見つめていた。

 それからしばらくして、できあがった麦粥を持ってリリアの部屋へ戻ると母上が俺を見るなり首を傾げた。


「どうしたの?」


「……何でもありません」


「そう? 何だか元気がないわね」


 俺が答える前にイルゼが口を開いた。


「奥様。アルノ様が台所で蜂蜜をすべて召し上がってしまわれまして」


 母上が俺を見た。


「……全部?」


「……はい」


「あなた……そんなに蜂蜜が好きだったの?」


「いえ、そういうわけでは……」


「だったら、どうして全部食べてしまったの?」


 答えられなかった。

 母上はしばらく俺を見ていたが、やがて小さくため息をついた。


「あとでマルタにお腹の調子を見てもらいなさい。次からはちゃんと取り分けてもらうのよ」


「……はい」


 母上はそれ以上何も言わず、リリアへ目を戻した。

 マルタが小さな布を用意し、母上が麦粥の入った器を受け取る。

 蜂蜜はもうない。

 今はこれを食べてもらうしかなかった。

 けれど、リリアが嫌がれば次に蜂蜜を仕入れた時にはまた同じことになるかもしれない。

 あの壺をもう一度渡されたところで俺には食べきる自信がなかった。いや、そもそも二度と食べたくない。

 母上が小さな匙に麦粥をすくった。十分に冷めていることを確かめてから布をリリアの口元へあてながら近づける。

 リリアは不思議そうに匙を見つめていたが唇に触れると少しだけ口を開いた。

 匙が入る。

 俺はその小さな口を見つめたまま知らないうちに両手を握りしめていた。頼むから気に入ってくれ。

 リリアはしばらく口を動かし、少しだけ粥をこぼしたものの飲み込んだらしい。


「あら、食べたわね」


 母上がもう一度匙を近づけると今度はリリアの方から口を開けた。それを見た母上が嬉しそうに笑う。


「気に入ったみたいね」


「このご様子でしたら、しばらくは麦粥だけでもよろしいでしょう」


 イルゼの言葉を聞いて、ようやく握っていた手を開く。

 母上はもう一度だけ粥を食べさせて今日はそこで終える。リリアはまだ匙を目で追っていたが、片づけられても嫌がる様子はなかった。


「明日も同じものを用意してもらいましょうか」


「はい。これだけ召し上がってくださるのでしたら、今は甘みをつける必要もなさそうでございます」


「そうね。まずはこのまま続けてみましょう」


 母上が頷いた。俺は思わずイルゼを見た。


「……蜂蜜は入れなくていいんですよね?」


「はい。リリア様はそのままでも召し上がってくださいましたから」


「……そうか」


 よかった。

 口の中にはまだ甘さが残っているような気がするが、少なくとも明日また蜂蜜の壺を抱え込む必要はなさそうだった。

 母上はそんな俺を見て少し笑った。


「でも、アルノの分はまた仕入れてもらわないとね」


「……俺の?」


「ええ。そんなに蜂蜜が好きだとは知らなかったもの」


「……いりません」


「あら、遠慮しなくてもいいのよ」


「本当にいりません」


 母上は不思議そうに首を傾げた。その隣ではリリアがいつの間にか鈴のついた木の輪を掴み、また口へ運んでいた。


「……蜂蜜はしばらく見たくもありません」


 俺は遊んでいるリリアを見ながらもう一度だけ母上に言った。

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