第二十五話 雨の日の街
庭を歩いている途中で空が暗くなってきた。
朝は雲の間から日が差していたのにいつの間にか屋敷の向こうまで灰色の雲が広がっている。風も少し強くなったらしく庭木の枝が揺れるたびに色づいた葉が何枚か落ちていた。
少し前までは外を歩けば汗ばんでいたのに最近は朝夕の空気が冷たい。今日はミーナに勧められて厚手の上着を着てきたが、それでも風が吹くと袖口から冷気が入り込んでくる。
「……雨が降りそうじゃない?」
「そうですね。そろそろお戻りになられますか?」
「うん。リリアのところに行こう」
ミーナに声をかけてから玄関へ向かって歩き始めた。その途中で頬に冷たい滴が落ちてきた。指で確かめると少し濡れている。足元の敷石にも黒い点が一つできた。見ている間にまた二つ増えた。
「あ、降ってきた」
玄関へ着く頃には背後から雨音が聞こえていた。顔と手を洗い、濡れた上着を着替えてからリリアの部屋へ向かった。
リリアは床に広げられた布の上で腹這いになっていた。最近は少し厚手の服を着せられている。袖口から小さな手を出し目の前に置かれた木の輪を掴もうとしていた。
俺が近づくとリリアが顔を上げた。
「こっちおいで」
「あー、うぅ」
木の輪を置いて両腕で身体を引き寄せ始めた。
ずり這いを覚えたばかりだが随分と早く進めるようになった。右手、左手と交互に手を伸ばして腹を床につけたまま足で布を蹴るようにして前進。俺の膝に手が届くとリリアは嬉しそうに笑った。
手を差し出すとすぐに指を握ってくる。小さな掌が温かい。さっき庭で冷えた指先を包まれる。
「アルノが来ると本当によく動くわね。アルノに遊んでもらいたいのでしょうね」
隣で見ていた母上が笑った。
そうだったら嬉しい。
リリアは俺の指を引っ張ったあと今度は袖を掴もうとしていた。木の輪を渡してもすぐに手を離し、また俺へ伸ばしてくる。どうやら今日は木の輪より俺の手の方がいいらしい。そんなことを考えていると、窓を叩く音が急に大きくなった。
顔を上げると雨粒が次々と窓にぶつかり、流れ落ちている。
「……結構、降ってますね」
「ええ。少しずつ強くなってるわね」
部屋の中は暖かい。
今日はこのまま遊んでいよう。
そう思ったところで扉が叩かれた。
「ここにいたか」
入ってきたのは父上だった。
リリアが俺の膝に手を伸ばしているのを見ると、少し笑ったようだった。母上がずり這いのことを話し始め、父上も何度か頷いていたがやがて俺へ目を向けた。
「支度をしろ。今日は街へ行くぞ」
「……え?」
思わず窓を見た。
雨は変わらずに降っている。
「今からですか?」
「ああ。晴れた日の街は何度も見ただろう。雨の日も見ておいた方がいい」
「……こんなに降ってますけど」
「だからこそだ。普段とどう違うか見ておくといい」
父上は何でもないことのように答えた。
領地の勉強なのは分かる。けれど、もう一度窓を見ると雨水が勢いよく流れていた。できればリリアと遊んでいたかった。そう思っているとリリアが俺の袖を引っ張った。まだ遊び足りないらしい。
「……帰ってきたらまた遊ぼうね」
袖を握るリリアの手に木の輪を握らせてから俺は立ち上がった。
部屋へ戻るとミーナが外出の支度を整えていた。あらかじめ父上がミーナに伝えていたのかもしれない。厚手の上着の上から毛織りの外套を羽織り、首元を留めてもらう。いつもの革手袋に顔を覆う布。それに今日は外套についている頭巾まで深くかぶせられた。
「……傘はないの?」
「傘――でございますか?」
「雨を防ぐものなんだけど。頭の上に広げて持つような」
両手で形を作ってみせたがミーナは首を傾げた。
「雨でしたらこちらの外套で防げますよ」
「……そうなんだ」
そうか。傘がないのか。
前世では雨が降れば当たり前のように傘を差していた。それなのに、この世界ではこんな分厚い外套を着て外へ出るらしい。少し不安になって外套を触ってみた。目の詰まった毛織物で普段の服よりもずっと厚い。水を弾くわけではないが多少の雨なら内側まで染み込みにくいそうだ。
まあ、レインコートみたいなものだと思えばいいのか。
前世の防水素材とは違うだろうけど何も着ないよりはずっとましだろう。
靴も丈の高いものへ替えてもらい厚手の靴下を履いた。これなら多少水たまりを踏んでも足まで濡れることはないだろう。
玄関では父上と兄上たちが待っていた。
レオルもユリウスも外套を羽織り、頭巾をかぶっている。護衛たちはすでに外で支度を終えていた。
馬車は入口のすぐ近くまで寄せられている。護衛に手を借りて乗り込むまでの短い間にも冷たい雨が頬へ当たったようだった。顔を覆っている布が少しだけ冷たくなる。
早く帰りたい。まだ出発もしていないのにそんなことを考えてしまった。
街へ向かう間に雨は次第に強くなっていった。
窓を伝う水も増え、外の景色がぼやけている。車輪が水たまりへ入るたびに馬車が揺れ、その下から水を跳ねる音が聞こえた。
父上はどうして雨の日の街を見せたかったのだろう。
前世では雨の日になると車が少し増えていた気がする。この世界でも似たようなことがあるのかもしれない。馬車を利用する人が増えたり、荷物の運び方が変わったりするのだろうか。
窓の外を覗いてみたが雨が邪魔でよく分からなかった。
できれば早く見学を済ませて帰りたい。そんなことを考えているうちに街の門を通り、市場の近くで馬車が止まった。
護衛が先に降り、周囲を確かめてから扉を開けた。
雨の音が一気に大きくなる。冷たい風が吹き込み、頭巾の端が揺れた。俺は外套の裾を少し持ち上げ、いつものように護衛の手を借りて馬車を降りた。
地面に足をつけると、ぴちゃり、と水が跳ねた。
足元を見ると地面の上に薄く水が張っている。丈の高いものを履いてきたおかげで中まで濡れることはなさそうだった。それでも冷たい風も吹いてくるし、外套の裾は少しずつ重くなっている気がする。早く屋根のあるところへ行きたかった。
レオルとユリウスはもう歩き始めていた。父上もその後ろから市場へ向かっている。
俺もついていこうとした時、蹄の音が聞こえた。
荷車だった。
雨の中でも馬はいつものように荷物を運んでいた。御者が手綱を握り、濡れた道をゆっくりと進んでいる。馬が歩くたびに蹄の周りから水が跳ねて、後ろの車輪が溜まった泥水を辺りに飛ばしていた。
近くに寄ると泥水をかけられてしまいそうだ。あまり近づかないようにしよう。
そう思って眺めているとまた荷車の片側の車輪が少し深い轍へ入った。轍にできた水たまりを車輪が跳ね上げ、茶色い飛沫が大きく飛んだ。思わず目を細める。飛沫の中に何かが混じっているのが見えた。茶色い小さな塊だった。水と一緒に飛び上がり、俺の目の前を横切っていく。それは道の脇へ落ち、湿った音を立てて崩れた。
何だろう。
何となくその塊を目で追った。
濡れた表面には細かな草のようなものが混じっている。地面へ当たったところから崩れ、茶色いものが周りの水へ広がっていった。見覚えがあった。馬糞だった。
しばらく、その塊を見つめていた。
今、目の前を馬糞が飛んでいったのか。
そうか。
馬糞が――。
「アルノ?」
父上の声が聞こえた。
俺が立ち止まったのに気づいて振り返る。俺は父上の顔を見た。ついで、レオルとユリウスにも目をやった。三人とも普通に歩いていた。
俺はもう一度、道の脇に落ちた馬糞を見た。
雨が打ちつけるたびに崩れていく。黒っぽかった塊は少しずつ小さくなり、周りの水と混ざっていった。
さっきまで確かに馬糞だった。
それが、もうただの泥水みたいになっている。
気づけば足元を見ていた。
俺の靴の周りにも薄く水が張っている。
さっきまでは何とも思わなかった。
けれど、足元の水は馬糞が崩れたところにある水と同じような色をしていた。
足元の感覚が急になくなったような気がした。
俺は靴を見つめたまま動けなかった。
雨が降っている。
水が流れている。
その中に馬糞が混じっている。
やがて、もう一台の荷車が通った。
蹄が水を跳ねる音につられて顔が自然と上がる。
通りには何台もの荷車がいた。
市場へ荷物を運んできた馬車が店の前へ止まり、別の馬車がそこを避けて通っていく。雨を防ぐため頭巾をかぶった人たちも歩いていた。その足元には茶色い水が広がっている。
馬の蹄が水を踏み、車輪が泥水を辺りに飛ばす。店先では男が荷物を抱え、濡れた靴のまま中へ入っていった。
俺はその男の靴を見ていた。
男が踏んだあの水にも馬糞が混じっているのだろうか。
そう思ったところで視線が隣の店へ向いた。
そこでも人が歩いている。軒下の石は濡れ、通りの水たまりから跳ねた飛沫が店先まで届いていた。
その向こうにも馬がいる。
どこを見ても濡れていた。
俺はさっきまで雨で水浸しになっているだけだと思っていた。
けれど違った。
あの水の中には馬糞が混じっている。
馬が通るたびに踏み潰され、車輪で飛ばされて、雨と一緒に広がっていく。まるで街に馬糞を塗りたくっているようだった。
どうして、こんなことになるんだろう。
いつものように馬糞を拾っている人はいた。けれど、晴れた日でも完全に拾えていたわけではない。雨の日ならなおさらだ。
昨日までは馬糞のないところを選んで歩けばいいと思っていたのに。
リリアと一緒でもそれなら街を歩けると思っていたのに。
雨が降っただけで目の前の景色がさっきまでとはまるで違って見えた。水たまりを踏んで歩く人も、その靴で店へ入る人も、荷物を置く人も、みんな普通にしている。誰も気にしていない。
あそこには今、馬糞があったんだぞ。
車輪が踏み潰して飛び散ったんだぞ。
なのに――誰も止まらない。
何事もなかったように仕事を続けている。
俺は目の前を通り過ぎる馬を見つめた。雨に濡れた背中から水が流れ、馬が一歩進むたびに泥水が跳ねる。その後ろからまた荷車がやってきた。馬はゆっくり歩いているだけだった。御者だって荷物を運んでいるだけだ。
馬がいなければ街に荷物が入らない。冒険者でも代わりにはならない。自分で調べてようやく納得したばかりだった。
だから、馬糞を避けて歩くしかないと思っていた。それなのに今は避けることさえできない。
雨が冷たいことも、外套が濡れていることも、いつの間にか気にならなくなっていた。
目の前を馬が通る。
水が跳ねる。馬糞が広がる。
まだ来るのか。
もう十分じゃないか。
これ以上、馬糞を広げないでほしい。
せめて今だけでも馬を止めてほしい。
けれど、次の馬が通りへ入ってくる。
また濡れた地面を踏んでいく。
どうして止まらないんだ。
あんなものが飛び散っているのに。
街中が馬糞まみれになっているのに。
もう、これ以上入ってこないでくれ。
気づいた時には声が出ていた。
「……馬を入れるな」
父上が振り返った。近くにいた護衛も店先の人たちもこちらを見ている。
「頼むから、これ以上、馬を街にいれないでくれ……!」
俺は声を絞り出した。
それでも、荷車は街へ入ってきた。




