幕間 ガルムの見立て
その日の夕方、ガルムは書斎で領地から上がってきた報告書に目を通していた。
市場へ運び込まれた荷の量と倉庫の利用状況。どちらも普段から確認しているものだが今日は少し違うことが気になっていた。
アルノのことだ。
最近、三男は街へ出るたびに荷車を見ている。
最初は道の汚さを気にしてばかりいたが、最近では荷車の行き先を調べ始めていた。魚商から話を聞き、冒険者の力に興味を持ったかと思えばとうとう引退した冒険者から荷運びの話まで聞いていた。
馬の代わりに冒険者を使えないか。
アルノが考えていたことは分かっている。倉庫で元冒険者に話を聞きたがったのもその可能性を確かめるためだった。もっとも、その発想自体はガルムにも覚えがあった。
生力を扱える冒険者なら普通の人間よりはるかに重いものを運べる。実際、街の倉庫や荷役には引退した冒険者もいるし、腕の立つ者なら馬車を引くことさえできるだろう。
だが、それで馬を減らせるかとなれば話は別だった。
大量の荷を積んだ荷台で通りを進む。そんな仕事を任せられるほど力のある冒険者は限られているし、そもそも魔物を狩った方が稼ぎになる。荷役を仕事にしている元冒険者たちでは馬車一台分の荷を運ぶには力が足りない。
ガルム自身、以前に考えて諦めたことだった。
だからアルノが元冒険者に話を聞きたいと言い出した時も期待しているような答えは得られないだろうと思っていた。
それでも認めたのは本人が確かめたがっていたからだ。
三歳にしては随分と熱心なものだ。領地の勉強に興味を持つのは悪いことではない。レオルやユリウスとも関心の向くところは違うが、それぞれが自分の目で見て考えるようになればいい。
ただ、なぜアルノがそこまで馬の代わりを探しているのかはまだよく分からなかった。
そんなことを考えていると扉が叩かれた。
「少しいいかしら」
エレオノーラだった。入るように告げると妻は笑みを浮かべながら書斎へ入ってきた。
「何かあったのか?」
「ええ。今日はリリアが初めてずり這いをしたのよ」
「ほう。それはよかったな」
「アルノを追いかけるようにして動いたの。あの子も驚いていたわ」
ガルムは手にしていた報告書を置いた。
この前、リリアがアルノの服を掴んで立ち上がったと聞いたばかりだ。もっとも、それからは立とうとする様子もないらしく偶然身体が持ち上がっただけだったのだろうと話していた。
「アルノを……か?」
「そう見えたのよ。アルノが部屋を出ようとしたら急に動き始めて。まだ少ししか進めなかったけれどアルノが戻ってきたら嬉しそうに笑っていたわ」
「――そうか。アルノも喜んだだろう」
「ええ、とても」
エレオノーラはその時の様子を思い出したのか楽しそうに笑った。
兄が妹を可愛がるのは結構なことだ。少し前まではリリアに触ることさえ嫌がっていたのだから随分と変わったものだと思う。もっとも、今でも手洗いについてはうるさいらしいが。
「それでね。その前に、アルノがリリアへ相談していたのよ」
「……相談?」
「ええ。街のことで困っているんですって」
ガルムの眉間に皺が寄った。
街のことなら普段から何かと質問してくる。倉庫で聞いた話について考えているのだろうか。
「リリアに聞いてどうするんだ」
「私もそう思ったのだけれど、本人は随分真剣だったわ。リリアも楽しそうに笑って聞いていたからついそのまま見てしまったの」
「……それで、何を相談していた?」
「馬糞を減らせなかったんですって」
ガルムは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……馬糞?」
「ええ。冒険者なら馬の代わりに荷物を運べるかもしれないと思ったそうなの。でも、今日会った方に難しいと言われたらしくて」
ガルムは少し考えた。
馬を減らしたいというのは分かる。飼料代や厩舎の維持費、街路の混雑などが軽減される可能性がある。だが、そこへ馬糞が出てくるとは思わなかった。
確かにアルノは馬糞をひどく嫌っている。以前踏んでしまった時など自分で歩くこともできなくなったほどだ。
しかし、それだけのために何度も街へ出て荷車の行き先を調べ、魚商や冒険者にまで話を聞こうとするものだろうか。
これまでのアルノを思い返しても単に汚れを嫌がっているだけには見えなかった。
ガルムは妻へ目を向けた。
「……リリアに話していたんだったな」
「ええ。リリアが街を歩くようになるまでに何とかしたかったんですって」
なるほど。
まだ言葉も分からない妹が相手なのだ。荷運びの仕組みを話すよりリリアが街を歩く頃の話をしたかったのだろう。馬糞ならアルノ自身もひどく嫌っているし、妹に同じ思いをさせたくないという話にもなる。
あの子なりに自分が調べてきたことを身近な話に置き換えて聞かせていたのかもしれない。
「……それにしても、そこまで嫌だったか」
「アルノにとってはそうなのでしょうね」
エレオノーラは穏やかに答えた。
「でも、リリアのために何とかしたいと思ってくれているのは嬉しかったわ」
「それはそうだな」
ガルムは椅子の背へ身体を預けた。
以前、アルノが馬糞を踏んだ時のことを思い出す。
あの時は結局ガルムが背負って馬車まで戻った。それからしばらくは街へ出ること自体を嫌がっていたし、今でも歩く時には足元を何度も確かめている。
よほど堪えたらしい。
リリアに同じ思いをさせたくないという気持ちも、あの子なりにあるのだろう。
ただ、子供が街を歩くならほかにも気をつけるべきものはいくらでもある。
馬は身体が大きい。普段は大人しくても不意に驚いて暴れることがある。荷車の車輪に近づけば小さな子供など簡単に巻き込まれてしまう。
だから街へ出る時には護衛をつけている。アルノが馬に近づきすぎないようにするのも、荷車の進路へ飛び出さないようにするのも、そのためだ。
馬糞を踏むことまで護衛に防がせようとは思わない。汚れれば洗えばいい。靴も替えれば済む。
「……困ったものだな」
「そうかしら? アルノも、今日のお話で分かったようだったわ」
「そうか」
それなら元冒険者に話を聞かせた意味はあったのだろう。
ガルムは机に置いた報告書へ目を向けた。
街へ運び込まれる食料も薪も、商人が運ぶ品々も、馬が引く荷車によって支えられている。馬を減らしたいからといって代わりに荷を運ぶ者がいなければどうにもならない。
アルノも今日、それを自分で確かめた。
できると思ったことが調べてみれば難しい。領地の仕事にはそういうことがいくらでもある。
まだ三歳なのだからすぐに答えが出なくても構わない。
「それで……アルノはどうするつもりなんだ?」
「リリアと街を歩く時には自分が気をつけると言っていたわ。馬糞を踏まないように、ちゃんと手をつないで歩くんですって」
「……そうか」
ガルムは小さく息を吐いた。
リリアが自分の足で街を歩くようになるのはまだ先の話だ。それまでは大人が抱いていればいいし、歩けるようになってからも初めのうちは必ず誰かがそばについている。
アルノ一人に任せるつもりなどもちろんない。
それでも、妹と手をつないで歩く自分の姿をあの子なりに考えているらしい。
荷車について調べるうちにそんなことまで気にするようになったのだろうか。
「……まあ、兄らしいことを考えるようになったものだ」
「ええ。本当に」
エレオノーラが嬉しそうに笑った。
ガルムも口元が緩んだが、ふと、机の上に置いた報告書へ目を向けた。
馬の代わりに冒険者を使うことは難しい。だが、アルノがこれまで街で見聞きしたものまで無駄になるわけではない。
魚商から話を聞き、倉庫で荷の運ばれ方を確かめた。自分が疑問に思ったことを実際に働いている者へ尋ねるようにもなった。
これからもレオルやユリウスと一緒に街を回らせればほかにも興味を持つものが見つかるだろう。
何より、以前は馬車から降りることさえできなかったアルノが今は自分から街へ行きたがっている。
それだけでも随分な変化だった。
その時、窓の方から小さな音がした。
目を向けると窓に雨粒が当たっていた。ぽつり、ぽつりと音が重なり、外の景色が少しずつ霞んでいく。
「――そういえば、アルノには雨の日の街を見せたことがなかったな」
窓の外を眺めながらガルムは呟いた。




