第二十四話 リリアが這い始めました
街から戻り、手洗いと着替えを済ませてからリリアの部屋へ向かった。
母上は窓際に座り、その前にはいつものように綺麗な布が広げられている。リリアは布の上に座り、両手で木の輪を握っていた。
この前、俺の服を掴んで立ち上がった時には驚いたけれどあれ以来同じことはしていないらしい。母上に聞いても立とうとする様子はないと言っていた。
それでも、自分で座って遊べるようになっただけでも大きな変化だった。
「ただいま、リリア」
声をかけるとリリアが顔を上げた。俺を見つけた途端、口を大きく開けて笑う。
「あー!」
「うん。ただいま」
布の端へ座るとリリアが木の輪を持ったまま両手を伸ばしてきた。受け取ってほしいのかと思って手を出したが渡すつもりはないらしい。俺の指が触れると輪を引き寄せて嬉しそうに振っていた。
「……リリア、ちょっと聞いてくれる?」
「あぅ」
「今日も街へ行ってきたんだけどね」
返事があったので俺はそのまま話し始めた。
森で会った冒険者のこと。街で荷運びをしている元冒険者に会ったこと。普通の人よりずっと重い荷物を運べるのに馬車の代わりにはなれないと言われたこと。
リリアは俺の顔を見ながら時々木の輪を振っている。
「馬を減らせれば街の馬糞も減ると思ったんだけどね。やっぱり難しいみたいなんだ」
「あー」
「そうなんだよ。俺も何とかなると思ったんだけど」
リリアが笑った。
もちろん、俺の話を理解しているわけではないと思う。話しかけられるのが嬉しいのか声を出すたびに笑顔を返してくれる。その様子を見ていた母上が口元に手を添えた。
「ずいぶん難しい相談をしているのね」
「……相談というか聞いてもらってるだけです」
「そう。リリアはちゃんと聞いてくれているかしら?」
「笑ってくれてます」
「それはよかったわね」
母上まで笑っていた。
俺としては結構深刻な話なのだけれど三歳の息子が赤ん坊へ相談しているのだから微笑ましく見えるのも仕方がないのかもしれない。
リリアはそんなことも知らず俺の方へまた木の輪を差し出してきた。今度こそ渡してくれるのかと思って受け取ろうとするとまた引っ込める。
「……それはくれないんだね」
「あぅ!」
どうやら、あげるつもりはないらしい。
俺はリリアの頭を撫でた。
「でも、何とかしないとね。お前が街を歩くようになった時、馬糞を踏んじゃったら困るから」
小さな頭を撫でているとリリアが俺の手を掴もうとした。指先を握られる。今はこうして手を伸ばしてくれる。けれど、街で馬糞を踏んだリリアに同じことをされたら俺は……。
「……ごめんね、リリア」
「あー?」
笑いながら返事をされた。
何も分かっていなさそうだ。
俺はもう一度頭を撫でてから立ち上がった。
「それじゃ、またあとでね」
母上へ声をかけて扉の方へ向かう。その時、背後から少し大きな声がした。
「あうー!」
振り返る。リリアが俺を見ていた。さっきまで握っていた木の輪は布の上へ転がり、両手を前についている。
「どうした?」
声をかけるとリリアが身体を前へ倒した。腹が布へつく。そのまま両腕を伸ばし、指先で布を掴むような仕草をした。何をするつもりなのかと見ていると片方の膝が身体の横へ引き寄せられた。それから腕に力が入ったのか身体がほんの少し前へ動いた。
「……え?」
リリアはもう一度腕を動かした。腹を布へつけたまま、今度は足で床を蹴るようにして身体を押し出す。さっき座っていた場所から明らかに移動していた。ずり這いだ。
「――母上、リリアが!」
「ええ、見ているわ」
母上も驚いたように身を乗り出していた。リリアは顔を上げて俺を見ると嬉しそうに声を出しながらまた腕を伸ばす。右手を前へ出し、身体を引き寄せる。膝はまだうまく使えていないらしく片足が布の上を滑っていた。それでも少しずつ進んでいる。俺の方へ。思わず扉から離れ、布の前へしゃがんだ。
「リリア、おいで」
声をかけるとリリアは口を大きく開けて笑った。もう一度腕を動かし、腹を引きずりながらこちらへ近づいてくる。俺はその様子から目を離せなかった。あれだけ小さかったリリアが今は自分の力で俺のところへ来ようとしている。やがて布の端へたどり着くと、俺の方へ手を伸ばしてきた。
「あぅ!」
「うん、ここにいるよ」
差し出された手を握る。リリアは俺の指を掴むともう片方の手も伸ばしてきた。そのまま身体を寄せようとするので両脇へ手を入れて抱き上げた。俺の腕の中へ収まると、リリアは満足したように笑った。
「……追いかけてきたの?」
「あぅ」
「そっか」
「アルノが行ってしまうと思ったのかしらね」
母上もそばへ来てリリアの頭を撫でた。
「……そうかもしれませんね」
リリアは俺の服を握り、まだ嬉しそうに笑っている。
この前、偶然立ち上がった時とは違う。
今度は俺のところへ来たくて自分から身体を動かしたように見えた。
その小さな手を見る。
こんなふうに追いかけてきてくれるのにいつか俺の方から逃げてしまったら。
それだけは嫌だった。
俺はリリアを抱え直し、もう一度顔を覗き込んだ。
「……リリア。街へ行く時はちゃんと手をつないで歩こうね」
まだそんな約束をしても分かるはずがない。それでも、俺は伸ばされた小さな手を握り直した。
馬糞をなくすことはできなかった。
でも、リリアが歩く時には俺がそばにいる。足元をよく見て、汚れたところへ近づかないようにすればいい。たとえリリアが別の方へ行こうとしても踏んでしまう前に気づいて止めればいい。
俺が今まで自分のためにしてきたことを今度はリリアのためにもすればいいのだ。
腕の中では、リリアがもう別のものを見ていた。
母上の髪が気になるらしく、俺の服を握っていた手を離して伸ばそうとしている。
さっきまで俺を追いかけていたのにもうそちらへ行きたいらしい。
俺は少し笑い、リリアが落ちないように身体を支え直した。




