第十八話 馬が力負けしていました
鐘楼へ行かなくなって数日が経った。
別に行きたくなくなったわけではない。あそこからなら街の様子がよく見えるし、荷車の動きを調べるにも都合がいい。地上では何度も見失って分からなかったが、鐘楼からなら屋根の間を通っているのまで見えた。
今でも、あそこ以上に街を見渡せる場所は知らない。
ただ、最後に会った少女のことが少し気になっていた。
髪に触れられたのは確かに嫌だった。でも、あの子が悪気なく触れたことは分かっているし、怒っていないとも伝えた。
それなのに、俺はそのまま鐘楼を下りてしまった。
あの時の少女の顔を思い出す。ひどく申し訳なさそうで何度も謝ろうとしていた。俺は髪のことばかり考えていたから、それどころではなかったのだけれど。
次に会ったらまた謝られるのだろうか。
その時は、もう気にしていないと言えばいい。そう思うのにいざ教会へ寄れる時間ができると、今日はいいかと考えてしまう。そんなことを何度か繰り返していた。
「アルノ、今日も鐘楼へは行かないのか?」
街へ向かう馬車の中で父上に聞かれた。窓の外を見ると、街を囲む壁が近づいている。もう少しすれば教会の塔も見えてくるはずだった。
「……今日はいいです」
「そうか。あれだけ毎回行きたがっていたのにな」
父上はそれ以上聞いてこなかったが、向かいに座っていたユリウスが顔を上げた。
「そういえば最近行ってないよね。もう荷車を見るのに飽きたの?」
「飽きてません」
「じゃあ、どうして?」
「毎回行く必要はないでしょう」
「前は毎回行ってたじゃないか」
それはそうだけど。
言い返す言葉を探していると、今度はレオルが口を開いた。
「教会で何かあったのか?」
「……何もありませんよ」
「そうか? この前はずいぶん変な格好で戻ってきただろ」
ああ、あれか。
自分で布を巻き直した日のことだ。
「少し巻き直しただけです」
「そういえば下手な巻き方だったよなあ」
ユリウスに笑われた。
「少し静かにしろ。……布が気になったのか?」
笑うユリウスに視線を向けて、ため息をつきながら父上が言った。
「……まあ、そんなところです」
「それなら今度はミーナを連れていくか?」
「もう大丈夫だと思います」
「そうか」
父上はそれ以上何も言わなかった。けれど、その顔を見ると納得していないような気もする。
ユリウスはまだ笑っているし、レオルも何か言いたそうだったので俺は窓の外へ目を向けた。
ちょうど建物の向こうに鐘楼の上部が見えた。
あの少女は今日もあそこへ上がるのだろうか。
荷車を眺めながら街のことをいろいろ教えてくれた。川や森の話もよくしていたし、俺が荷車を追っている間は邪魔をせず隣にいてくれた。別に、避ける必要なんてないんだけどな。そう思いながら塔が建物の陰へ隠れるまで見ていた。
街へ着くと、いつもの場所で馬車を降りた。
頭から口元までは布で覆い、両手には革手袋。
降りる場所は毎回きれいに掃かれている。今日も目につくようなごみはなく、馬糞も落ちていない。ここだけ見れば最初に馬車から降りられなかった時が嘘のようだった。
もちろん、ここを離れれば話は別だ。
父上たちについて通りへ出ると、すぐに馬の匂いがした。荷車が通ったあとの道には蹄の跡が残り、石の隙間には乾いた泥が詰まっている。
人が多いところでは足元だけ見ているわけにもいかない。向こうから来る人を避け、荷物を運んでいる男がいれば道を譲る。そんなことをしている間にも、馬がすぐそばを通り過ぎていく。
俺はできるだけ人の少ない方を選びながら歩いた。
最初は詰んだと思ったが、以前よりは慣れたと思う。少なくとも父上たちの話を聞きながら歩けるようにはなった。
それでも、誰かが泥を踏んだ靴で近づいてくると、そちらを見ないわけにはいかなかった。
その日は市場の近くにある店や倉庫を回っていた。
父上とフェルナー先生は、レオルたちへ荷の出入りについて話している。俺も聞いていたが以前ほど荷車を追いかけることはなくなっていた。
ここから見える範囲には限りがある。
どこへ入って、どこで荷を下ろすのか。鐘楼からなら多少は分かるが、地上で一台ずつ追いかけても途中で見失ってしまう。
だから今日は、見えるものだけを見ることにした。
店の前に止まった荷車からは男たちが木箱を下ろしている。向かいの倉庫には空の荷車が一台あり、御者が馬の首を撫でながら誰かを待っていた。
それを横目に歩いていると、少し先で父上が立ち止まった。
通りの向こうから荷車が来ていた。荷台には大きな樽がいくつも積まれ、縄でしっかり固定されている。道幅に余裕がないので、俺たちは店先へ寄って通り過ぎるのを待つことになった。
父上と兄上たちは少し前にいる。俺のそばには護衛が一人ついていた。
店の壁際には木箱が積まれていて俺はその横へ立った。すぐ隣にも誰かいるようだったが、邪魔にならなければそれでいい。それより、通り過ぎる馬の方が気になった。
馬が近づけば足元に何が落ちてくるか分からない。通り過ぎたあとまで油断できないのだから早く行ってほしかった。
その時、向かいの店先で大きな音がした。荷を下ろしていた男が木箱を取り落としたらしい。角が石へぶつかり、乾いた音が通りに響いた。
俺も思わずそちらを向いた。
続いて、馬の荒い鼻息が聞こえた。振り返ると、目の前の馬が大きく首を振って暴れていた。御者がすぐに手綱を引いたが、馬は前脚を持ち上げて身体を捻る。荷車の車輪が道の窪みへ落ち、積まれた樽が一斉に揺れた。
「危ないぞ!」
「離れろ!」
周りから叫び声が上がる。
父上がレオルたちを下がらせ、前にいた護衛が荷車の方へ動いた。
「アルノ様!」
俺のそばにいた護衛も荷車の方へ動いていた。そのとき、馬が突然大きく動いてこっちに向かってきた。護衛がすぐに俺を抱えようとして手を伸ばしてくるが、その手よりも馬の方が早い。
俺も逃げようとした。
けれど後ろには木箱がある。横へ逃げようとすると、今度は道の端に溜まった黒い泥が目に入った。
そこへ足を入れるのか。
ほんの一瞬、そんなことを考えてしまった。
次に顔を上げた時には、馬がすぐ目の前まで来ていた。首を振るたびに革具が鳴り、持ち上がった前脚の先には大きな蹄がついている。
あれが落ちてきたら……。
そう思ったところで身体が動かなくなった。
あ、死んだ俺。
次の瞬間、横から腕が伸びてきた。身体を抱え込まれ、足が地面から離れる。何か硬いものが肩へ当たり、俺はそのまま店の奥の方へ引き寄せられた。
すぐ近くで蹄が石を叩く音がした。
思わず目を閉じる。けれど、痛みはなかった。おそるおそる目を開けると、目の前には革鎧があった。誰かの腕に抱えられているらしい。
その向こうでは馬がまだ暴れていた。さっき俺が立っていた場所で。あそこにいたら本当に踏まれていたかもしれない。
「アルノ様!」
護衛が駆け寄ってきた。
俺を抱えていた男はすぐに護衛へ俺を預けると、もう一度馬の方へ戻っていった。護衛はそのまま父上たちのいる方へ運んでくれた。
父上が近づいてくる。
何か聞かれた気がしたが、俺はまだ馬を見ていた。
御者が手綱を引いている。それでも馬は落ち着かず、何度も暴れていた。
そこへ、さっきの男が横から近づいていく。暴れている馬のすぐそばなのにその足取りは軽い。
男は御者へ何か声をかけ、馬の頭へ手を伸ばした。革具を掴み、前へ出ようとする馬を引き戻す。
馬は嫌がるように身体を捻った。普通なら、そのまま引っ張られてしまいそうだった。
けれど男は微動だにしなかった。大きく踏み出そうとした馬が引き戻され、前脚を元の位置へ強引に引っ張る。御者も手綱を引き直し、声をかけ続けていた。
馬がもう一度身体を捻る。
それでも男は革具を離さない。引っ張られるどころか、今度は馬の方が男の腕の動きに合わせて向きを変えた。馬が男の腕に力負けしている。何度かそんなことを繰り返すうちに、ようやく馬の動きが小さくなっていった。
御者が首元を撫で、落ち着かせている間も男はそばに立っていた。馬が静かになったのを確かめてから、やっと手を離した。
「……すご」
思わず声が漏れた。
あんなに大きな馬を人間が止められるものなのか。
もちろん御者も手綱を引いていた。それでも、男が革具を掴んでから馬の動きが変わったのは明らかだった。あの腕にどれほどの力があるのだろう。
「アルノ」
父上に呼ばれて、ようやく顔を向けた。すぐそばまで来ていた父上は俺の顔を確かめたあと護衛へ下ろすように言った。
「怪我はないか?」
「……はい」
「どこか痛むところは?」
言われて腕と足を動かしてみる。
抱えられた時に肩を強く押された気はするが、今は痛くない。服も破れていないし、血が出ているところも見当たらなかった。
「大丈夫です」
父上はもう一度俺を見て、ようやく頷いた。
「そうか。よかった」
その声を聞いたところで急に膝の辺りの感覚がなくなった。立っていられないほどではない。でも、さっきまで平気だったはずの足に力が入りにくい。膝が震えていた。
「馬に踏まれるかと思ったぞ」
ユリウスが言った。顔を見ると、いつものように笑っていない。
「……俺もです」
「ちゃんと逃げないと駄目だろ」
「逃げようとはしたんですけど」
あの泥さえなければ。
いや、泥を気にしている場合ではなかったのだ。
分かっている。けれど目の前に黒い泥があるとどうしても一瞬考えてしまう。
次に同じことが起きたら、ちゃんと逃げられるだろうか。そんなことを考えていると、馬の方から男が戻ってきた。
「怪我はなかったか?」
さっき俺を助けてくれた人だった。
「はい。助けてくれてありがとうございます」
頭を下げる。男は安心したように笑った。
「無事ならよかった。あの馬ももう落ち着いたからな」
そう言って近づいてきたところで俺は男の腕を見た。
厚い革の手袋をつけている。指の付け根には黒っぽい汚れがあり、手のひら側にはさっき掴んでいた馬の革具の跡が残っていた。
視線を少し上げると革鎧の表面にも細かな土がついている。膝の辺りはもっとひどい。乾いた泥が革の継ぎ目に入り込み、色が変わっていた。
よく見れば袖口にも茶色い染みがある。
何の染みだろう。
泥ならまだいい。
けれど、見るからに冒険者なのだから魔物の血や体液がついていたっておかしくない。
そう考えたところで自分の服へ目が向いた。
さっき抱えられた時、肩に硬いものが当たった。
あれは革鎧だったのか。
男の手袋はどこを掴んでいた?
袖だろうか。それとも背中の方だろうか。確かめたくなったが背中までは自分で見えない。
「……どうした?」
男に聞かれた。顔を上げると、少し不思議そうに俺を見ている。慌てて首を横に振った。
「何でもないです」
何でもなくはない。
でも、助けてもらったばかりなのに手袋が汚いから近づかないでほしいなんて言えるわけがなかった。
それに、あの腕がなければ今頃どうなっていたか分からない。助かったのは本当にありがたい。それは間違いないのだ。
だからこそ、余計に困った。




