幕間 鐘楼の少女
鐘楼の上は彼女が教会の中でいちばん好きな場所だった。
教会の見習いになってからは掃除や運びものを任されることが増えた。だから好きな時に上がれるわけではない。それでも手が空き、少し休んでよいと言われれば自然と石段へ足が向いた。
最後の階段を抜けると、街が一度に見える。
通りからでは重なって見える屋根も、市場に張られた布も、壁の外に広がる畑も、その向こうの森も。晴れた日には川まで細く光って見えた。朝と夕方では光の色が違い、季節が進めば畑や森も少しずつ姿を変える。
何度見ても飽きなかった。
アルノ様が初めて鐘楼へ上がった日、自分と同じものを好きな人ができたと思ったのもそのせいだった。
「ここなら、ずっと見てられる」
「私もです」
あの時のことはよく覚えている。
領主様の隣にいたアルノ様は、頭から口元まで布で覆っていた。石段の途中では高い段を前に立ち止まり、上り方を考えていただけだと言い張った末に領主様へ抱えられていた。
けれど鐘楼へ出た途端、そんなことは忘れてしまったようだった。
屋根から畑へ、畑から川へと視線を動かし、最後には空まで見上げていた。
その顔を見ていると彼女まで嬉しくなった。ずっと好きだったものを誰かが同じように見てくれるのは嬉しかった。
アルノ様はそれからも何度も鐘楼へ来た。
最初は領主様も一緒だったのに、そのうち護衛だけを連れて上がってくるようになった。高い石段もいつの間にか自分で上れるようになり、上へ着けば長い間街を見ている。
ただ、見ているものは彼女とは少し違っていた。
門から入った荷車を目で追い、屋根の陰へ消えれば次に現れそうな道を探す。何台通ったのか数えていることもあった。
そこまで荷車を見て何が楽しいのかは今でもよく分からない。それでも以前、
「本当にお好きなんですね」
と聞いた時、アルノ様は少し考えてから街を見たまま答えた。
「好きですよ」
と。
だから、きっと同じなのだと思っていた。
彼女は屋根や川を見る。アルノ様はその間を通る道や荷車を見る。見る場所は違っても、ここから街を眺めることが好きなのは一緒だ。
その日も、最初はいつもと変わらなかった。
鐘楼へ出ると空はよく晴れていた。風は冷たかったが遠くまでよく見える。吹きつけた風に髪が広がり、彼女は慣れた手つきで肩の後ろへ流した。
「髪をちゃんと手入れしてるんだね」
不意に言われて振り向いた。
「私の……ですか?」
「うん。母上もいつもきれいにしてるから、見れば分かる」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
アルノ様の母君を遠くから見たことはある。いつも美しく髪を整えている領主夫人の髪を見慣れているアルノ様が、自分の髪もきちんと手入れされていると分かってくれた。そう思うと、自然と頬が緩んだ。
「ありがとうございます。毎朝きちんと梳いているんです。長いと少し大変ですけど……綺麗だと言っていただけるのが嬉しくて」
「だから伸ばしてるの?」
「はい。小さい頃から褒めていただくことが多かったので」
答えながら、少しだけ髪へ触れた。髪がきれいだと言われるのが好きだった。朝に梳く時間も、絡まないよう気をつけることもそれほど苦にはならない。長く伸ばした髪は、彼女が自分の中で気に入っているものの一つだった。それをアルノ様にも気づいてもらえたことが素直に嬉しかった。
だからだろうか。
前から気になっていたことを聞いてみようと思ったのは。
「あの……アルノ様」
「なに?」
「ずっと気になっていたのですが……どうしていつも、その布を巻いていらっしゃるんですか?」
口にしてから、急に不安になった。何か聞いてはいけない理由があるのかもしれない。だから咄嗟に続けた。
「嫌でしたら、答えなくても大丈夫です」
「別に嫌じゃないよ」
アルノ様は気にした様子もなく少し考えた。
「街だと……いろいろ気になるから」
「いろいろ?」
「汚れとか、臭いとか」
そう言われて、下の街を見る。
馬も荷車も通っている。道には泥もある。けれど今いる鐘楼にはそのどれもなかった。風は強いが石床は乾いていて下の街の臭いもほとんど届いてこない。だから何となく、そのまま聞いた。
「ここでもですか?」
「……いや」
アルノ様が足元を見た。それから周りへ視線を動かし、しばらく考えている。
「ここでは……いらないかも」
そう言って、頭に巻いた布へ手をかけた。
彼女は何気なくその様子を見ていた。
巻かれていた布が緩み、押さえられていた髪が額へ落ちる。最後の一巻きが外れたところで風が吹いた。
髪がふわりと持ち上がった。
光がその間を通り、細い毛先が淡く透ける。そのまま風に流されて頬の横へゆっくりと落ちていった。
美しいと思ってしまった。自分の髪とは明らかに違う。
朝には時間をかけて梳いている。乱れれば直すし、風の強い日に鐘楼へ上がれば毛先が絡まないよう気をつける。どうすれば髪がきれいに見えるのかも何となく分かっているつもりだった。だからこそ、目の前の髪がおかしいほどきれいに見えた。
風が吹くたび髪が一本ずつほどけるように動く。
日の光を拾い、また頬へ落ちる。
その光景を見ているうち、祭壇の脇に描かれた美の女神の姿が浮かんだ。
教えの中で何度も見てきた。
美しい長い髪を持つ女神。
幼い頃には、自分もあんなふうに髪を伸ばしたいと思ったことさえある。
けれど今は、動かない絵の髪が急に物足りなく思えた。目の前では風が吹くたび、光が入り、風が抜け、また揺れる髪がある。アルノ様はそんなことにはまるで気づいていないらしく、いつものように街の方を見ていた。
また風が吹いた時には気づけば手を伸ばしていた。
指先が髪に触れる。その瞬間になって、自分が何をしているのか分かった。けれど手を引くより早く、触れた髪が指の間を抜けていった。
息が止まった。
指を通せば、どこかでほんの少し引っかかる。それが普通だと思っていた。けれど今触れた髪にはそれがなかった。触れたと思った次にはもう毛先が指から抜けている。
風に運ばれて髪が離れたあとも、その感触だけが指先に残った。
その時、今度は別の話が浮かんだ。
清らかな場所を好み、濁った水辺には近づかない白い獣。人にも滅多に触れさせないというユニコーン。
教わった話の中では、その身体は雪のように白く、鬣も汚れを知らないほど美しいものとして語られていた。
幼い頃、一度だけ考えたことがある。本当に触れることができたならその鬣はどんな感触なのだろう。
きっと、こんなふうなのだ。
そう思ったところでアルノ様と目が合った。
頭が真っ白になった。
自分は何をしているのだろう。
勝手に触った。
それも、ほんの少し前に汚れや臭いが気になるから布を巻いているのだと聞いたばかりなのに。アルノ様の身体が強張ったのが分かった。
「――も、申し訳ございませんでした!」
慌てて手を引く。
アルノ様は返事をせず、手袋をした手で触れた辺りの髪を頬から離した。その仕草を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「……下ります」
「本当に申し訳――」
「怒ってるわけじゃないです」
そう言ってくれた。
けれど、だからといって安心できるはずもない。アルノ様は布を片手にそのまま動きを止めた。
「……アルノ様?」
「今、考えてます」
「何をでしょうか……」
「どう巻くかを」
どうしてそこで迷うのかと思いかけて、すぐに分かった。自分が触った髪を布の中へ入れたくないのだ。
申し訳なさでまた顔が熱くなる。
アルノ様はしばらく考えた末、触れた辺りを手袋で顔から離すように押さえ、その上から布を巻き始めた。
結び目は斜めになり、横から髪が何本か飛び出している。おそらく本人も分かっている。それでも最後には、
「……これでいい」
と自分に言い聞かせるように呟いた。
そしてそのままアルノ様は石段を下りていった。
階段の出口で待っていた護衛がその姿を見る。
一度。
それから、もう一度。
「何ですか」
「いえ」
二人の声が下へ消えていく。
彼女はしばらく、その場から動けなかった。
自分が聞かなければアルノ様は布を外さなかったかもしれない。けれど、あの髪を見ることもできなかった。
勝手に触れて申し訳ないはずなのに、見なければよかったとは思えなかった。それどころか、もう一度見たいと思っている自分に気づいてしまった。
彼女は慌てて街へ目を向けた。
いつもの景色が眼下に広がっている。
屋根の重なりも、市場の布も、壁の外に広がる畑も、その先の森も。
ずっと好きだった景色だった。
それなのに視線はさっきまでアルノ様が立っていた場所を自然と追っていた。
そっと自分の髪へ触れた。
朝に丁寧に梳いた髪だ。アルノ様にもきれいに手入れしていると褒めてもらった。
指を入れる。
毛先へ向かう途中でほんの少し止まった。今までなら何とも思わなかった。けれど、もう知ってしまった。指の間を何の抵抗もなく抜けていく髪がある。手を離しても、触れた時の感触がまだ指先に残っている。
彼女は自分の指先を見つめた。
目を閉じると、美の女神が浮かんだ。光の中に立ち、長い髪が風に揺れている。
次には、物語の中でしか知らない白いユニコーンが浮かんだ。清らかな泉のそばに立ち、風に鬣を揺らしている。
けれど、どちらもすぐにさっきの光景へ重なった。
日の光の中で揺れていた髪。
指先を何の抵抗もなく抜けていった感触。
彼女はそっとその手を胸元へやった。
それからは、美の女神の髪を思い浮かべる時も、清らかなユニコーンの鬣を想像する時も、先にあの髪が浮かぶようになった。




