第十七話 勝手に髪を触られました
翌朝、リリアの部屋へ行くと母上は窓際の椅子に座っていた。
膝の上ではリリアがちょこんと身体を起こし、窓から差し込む朝の光へ何度も手を伸ばしている。指をいっぱいに開いては閉じるものの、当然ながら何も掴めない。それでも諦める気はないらしく、今度は母上の腕を支えにして身を乗り出した。
「おはよう、リリア」
声をかけると、リリアがこちらへ向いた。あう、と声を上げながら、さっきまで光を追っていた手も一緒に俺へ伸びてくる。
その手に触れようとしてかがんだところで、小さな手は俺の手を横切り、そのまま髪へ触れた。
前にもまとめて掴まれ、そのまま引っ張られたことがある。けれど今日は、指にかかった髪がするりと抜けた。
リリアは手のひらを見る。それからもう一度伸ばしてくる。今度も掴もうとした髪はそのまま滑って逃げていった。それが面白かったのか笑いながらまた手を伸ばす。
「人の髪で遊ばないでね」
分かるはずもなく、リリアはますます楽しそうだった。
昨日はあれから残りの髪も泡草で洗ってもらった。一晩寝ても、状態はあまり変わらず灰汁で洗ったときのようなきしみもほとんどない。これなら髪は本当に生き返ったと言っていいかもしれない。少なくとも俺の中では。
「……アルノ、少しこちらを向いて」
「何ですか?」
顔を向けると、母上がこめかみの辺りへ手を伸ばした。俺の髪を指に取り、そのまま毛先まで滑らせる。少しくすぐったい。
「これは……どうなっているの? 髪に何かしたでしょう」
「分かります?」
「分かるわよ。昨日までと違うもの」
母上は俺の髪を少し持ち上げ、窓から入る光の中で眺めた。自分では指通りばかり気にしていたので、見た目までどれほど変わったのかはよく分からない。
「泡草で洗ったんです」
「……泡草で?」
「毛布を洗う時に使ってる草です。強い灰汁だと毛が硬くなるから、上等な毛織物には泡草を使うことがあるってミーナとダリアが教えてくれて。それなら髪にも使えるんじゃないかと思ったんです」
母上は少し考え、自分の髪へ手を入れた。
いつもきちんと梳かれているので乱れてはいない。それでも毛先へ行く途中で、指の動きがほんの少し止まる。昨日までなら気にも留めなかったことだろう。
母上は自分の髪を見たあと、もう一度俺の髪へ触れた。
「私も使えるかしら」
「俺は大丈夫でしたけど、最初は少しだけ試した方がいいと思います」
「そうね。ダリアにも聞いてみるわ」
そう答えたあとも母上は自分の毛先を指で挟んでいた。
その横ではリリアが俺の袖を掴もうとしている。今度は髪を狙われる前に指を差し出すと、小さな手がすぐに握りついた。
その傍で母上がまだ俺の髪を見ていた。
この日も街へ出た。
父上たちと倉庫を見て、市場の近くも回る。何をどこから運び、どこへ保管するのか。見るものは増えているのに結局気になるのは荷車だった。
門から入る数。よく使われる道。店や倉庫の前で止まる時間。
流れは少しずつ見えてきた。それでも馬を減らす方法にはまだつながらない。
一通り父上たちについて回ったあと、護衛を一人つけてもらって教会へ向かった。
入口近くにいた見習いの少女は、俺を見るとすぐ鐘楼の方へ目を向けた。
「今日も上がられますか?」
「うん。お願い」
何度も通った道なので、もう案内がなくても鐘楼までは行ける。それでも少女はいつものように先を歩いてくれた。
石段にもだいぶ慣れた。
鐘楼へ出ると、冷たい風が頬へ当たる。今日はよく晴れていた。街の屋根の向こうまで明るく、壁の外に広がる畑もその先を流れる川もよく見える。
少女の髪が風に揺れた。腰近くまで伸びた髪を片手で押さえている。これだけ長ければ絡まりやすそうなのに、毛先まで大きく乱れたところはない。
それを見て、今朝の母上の髪を思い出した。
母上も毎朝きちんと梳いている。そのおかげでいつも整っている。少女の髪も同じだった。
「髪をちゃんと手入れしてるんだね」
少女が振り向いた。
「私の……ですか?」
「うん。母上もいつもきれいにしてるから、見れば分かる」
一瞬だけ目を丸くしたあと、少女は嬉しそうに髪へ触れた。
「ありがとうございます。毎朝きちんと梳いているんです。長いと少し大変ですけど……綺麗だと言っていただけるのが嬉しくて」
「だから伸ばしてるの?」
「はい。小さい頃から褒めていただくことが多かったので」
そう言って笑う顔を見ると、手間がかかったとしても自分の髪が好きなのだと分かった。
俺は少女の髪から街へ視線を戻した。門の辺りにはすでに何台か荷車が見える。今日もまずはそこからだと思ったところで、隣から少し遠慮がちな声がした。
「あの……アルノ様」
「なに?」
振り向くと、少女は俺の顔を見ていた。頭を覆う布を眺めているようだった。
「ずっと気になっていたのですが……どうしていつも、その布を巻いていらっしゃるんですか?」
聞いてから気にしたのか慌てて言葉を続けた。
「嫌でしたら答えなくても大丈夫です」
「別に嫌じゃないよ」
街へ出る時には当たり前のように巻いている。
髪や顔に何かつくのが嫌だからだ。埃も泥もあるし、人や荷車が行き交う場所では何が飛んでくるか分からない。臭いだって直接吸いたくない。
「街だと……いろいろ気になるから」
「いろいろ?」
「汚れとか、臭いとか」
少女は眼下の街を見たあと、もう一度俺を見る。
「ここでもですか?」
「……いや」
言われて初めて考えた。
ここへ上がってから、足元の汚れを気にしたことはほとんどない。鐘楼の石床は乾いている。泥も馬糞もない。風は吹いているが、下の街の臭いもほとんど届いてこない。
「ここでは……いらないかも」
結び目へ指をかけた。
いつもなら屋敷を出る前に巻き、戻るまで外さない。街の中で自分からほどくなんて考えたこともなかった。
けれど、ここは下の通りとは違う。
布をほどいていく。
頭を覆っていたものが緩み、押さえつけられていた髪が額へ落ちた。最後の一巻きを外したところで風が抜ける。
髪がふわりと持ち上がり、頬の横へ流れた。冷たい空気が直接顔に触れる。思っていたより気持ちいい。
俺は一度息を吸い、門の方へ視線を戻した。
そこで、隣がひどく静かなことに気づいた。少女はいつもなら街を眺めながら川や森のことを話す。
けれど振り向くと、街ではなく俺を見ていた。
いや、俺の髪を見ている。何か言おうとした唇がそのまま閉じる。さっきまで笑っていた顔から表情が抜け、何かとても大切なものを目の前にしたように髪から目を離さない。
俺には理由が分からなかった。ただ、ひどく心を動かされていることだけは分かった。
背後から差す日の光の中で風が髪をふわりと持ち上げる。細い毛先が透けるたび、少女の目がその動きを追った。何度か瞬きをしたあと目元には薄く涙まで浮かんでいる。
昨日、泡草で洗ったばかりの髪だ。少女はさっき、自分の髪を褒められるのが嬉しいと言っていた。もしかして、そんなに泡草で洗った髪が気になるのか。
そう考えると少し納得した。
自分の髪を大事にしているなら、軋まない髪を見れば気になるのかもしれない。今朝の母上もそうだった。俺だって毛布を触った翌朝には洗濯場まで行ったのだから人のことは言えない。
そんなことを考えていると少女の手が動いた。あまりにも自然な動きで止める間も避ける間もなかった。少女の指先が頬の横を流れていた髪に触れた。
他人の素手だと気づき、身体が強張る。それでも手を避けるより先に少女の顔を見てしまった。触れた髪が指の間をするりと抜ける。
少女の目がわずかに見開かれた。息をするのも忘れたように見ていた。やがて視線が自分の指へ落ちる。本当に今触れたのか確かめているようだった。
また風が吹いて髪が自然と少女の指先から離れていく。少女がようやくこちらを見る。そこで初めて自分が何をしたのか気づいたらしい。
「――も、申し訳ございませんでした!」
その声を聞いたところで、今度は俺の方も意識が戻った。
触られた。
素手で。
髪を。
頬の横だ。
少女の手は見るからに汚れていたわけではない。ここは泥も馬糞もない鐘楼だ。
分かっている。
分かっているが、それとこれとは別だった。
「……下ります」
少女の顔が強張った。
「本当に申し訳――」
「怒ってるわけじゃないです」
そこは勘違いされたくない。
怒ってはいない。
今はただ、髪をどうにかしたい。
手にした布を持ち上げたところで今度は別の問題に気づいた。
これを巻くのか。
今、触られた髪ごと。
布の内側へ押し込めば頬に触れる。ほかの髪にも重なる。
嫌だ。
けれど、布を外したまま街へ下りるのはもっと嫌だ。しばらく布と自分の髪について考える。選択肢は二つしかないのに、どちらも選びたくない。
「……アルノ様?」
「今、考えてます」
「何をでしょうか……」
「どう巻くかを」
少女は何も言わなくなった。
触れられた辺りをなるべく顔から離して押さえ、その上から布を巻く。普段はミーナに任せているので、当然きれいにはいかなかった。
結び目は少し斜め。
何本か髪も飛び出している。
たぶんひどい。
鏡がなくてよかった。
「……これでいい」
よくはない。
今できる中ではこれが一番ましだった。
鐘楼を下りると、階段の出口近くで待っていた護衛が俺を見た。
一度。
それからもう一度見た。
「何ですか」
「いえ」
絶対何かある顔だった。
けれど今は聞かない。
父上たちが戻るまでは、教会の中で待つことにした。もう一度外へ出る気にはなれなかった。
椅子へ座っている間も、布の内側が気になる。
触られたのはどの辺だったか。
頬にはついていないか。
他の髪と重なっていないか。
確認したい。
でもここで布を外したら、また最初から巻き直さなければならない。
それも嫌だ。
昨日ようやく髪が生き返ったと思ったのに、翌日にはこんなことで悩むことになるとは思わなかった。
しばらくすると父上たちが迎えに来た。屋敷へ着くと、そのまま自分の部屋へ向かう。ミーナは俺の顔を見るなり布の結び目へ目を向けた。
「……どうなさいました、その巻き方は」
「自分で巻いた」
「それは見れば分かります。なぜご自分で巻くことになったのかをお聞きしております」
事情を話すと、ミーナは一度だけ俺の髪を見た。
「触れられたのはこちらですか?」
「頬の横。たぶんこの辺」
「では、そこだけ整えましょう」
きれいな湯と布を用意してもらい、鐘楼で触れられたところだけ丁寧に拭いてもらった。
泡草で洗ったばかりの髪を全部洗い直すほどではない。それでも、何もしないままリリアへ近づくのは無理だった。ミーナに整えてもらった髪へもう一度触れる。今度は気にならない。ようやく息を吐いた。
「もうよろしいですか?」
「うん」
「では、今度から鐘楼で布をお外しになる際はお気をつけください」
「何に?」
「人の手に……でございます」
そんな注意のされ方をする日が来るとは思わなかった。
髪を整えてからようやくリリアの部屋へ向かった。
朝と同じ部屋には、傾いた日の光が差し込んでいた。
母上はリリアを抱き、そばに立つマルタと話している。俺の気配に気づき、母上がこちらを向いた。
「お帰りなさい、アルノ」
「ただいま戻りました」
返事をしながら近づき、途中で足が止まった。
何かが違う。服は朝と同じだった。髪のまとめ方も大きく変わっていない。それでも母上がリリアを抱き直した瞬間に分かった。
肩へかかっていた髪が仕草に合わせて流れる。今朝までなら途中で少しまとまりながら落ちていた髪が、今日は肩の丸みに沿ってそのまま胸元まで滑り落ちた。傾いた光を受け、動いたところがやわらかく光る。
「……母上、髪が」
母上がにこやかに笑った。
「気づいたかしら?」
「泡草を使ったんですか?」
「ええ。朝あなたの髪を見たら、どうしても試してみたくなってしまって。ダリアに聞いてから少しずつ使ってみたの」
母上は自分の髪へ指を入れ、そのまま毛先まで滑らせた。途中で止まらない。それがまだ珍しいのか、もう一度同じように指を通す。
「ずいぶん違うのね。今までは洗ったあとの髪がこうなるとは思いもしなかったわ」
「ダリアもミーナも最初はそう言ってました」
「そうでしょうね。私だって今朝まではそうだったもの」
母上は髪を肩の後ろへ戻した。何本かがすぐに滑り、また前へ落ちてくる。腕の中ではリリアが俺を見つけ、話が終わるのを待てないように手を伸ばしていた。
近づいて指を差し出すと、小さな手がすぐに握りつく。
母上の髪を見ていたミーナがほんの少しだけ自分の毛先へ触れた。その横では、マルタも何も言わず母上の髪を見ている。
俺は気づかないふりをしてリリアの頭を撫でた。




