第十六話 ようやく髪が生き返る
翌朝、朝食を終えると俺はミーナと洗濯場へ向かった。
昨夜聞いた泡草が気になっていた。毛布に使えば強い灰汁で洗うより毛が硬くなりにくい。なら髪にも使えるのではないか。その考えが朝になっても消えなかった。
洗濯場ではもう朝の仕事が始まっていた。軒下にはいくつもの桶が並び、布の種類ごとに洗う場所が分けられている。干し場でも白い布と色物の間には少し隙間があり、その先に毛織物がまとめて掛けられていた。
近くで布を絞っていたダリアが俺たちに気づいて手を止める。
「ダリア。昨日ミーナから聞いたんだけど、泡草って見せてもらえる?」
「泡草でございますか。こちらにございます」
ダリアが奥から持ってきたのは紐で束ねられた乾いた草だった。細い茎に縮んだ葉が残り、根らしいものまで混じっている。
昨夜の毛布から勝手にもう少し特別なものを想像していたせいで、見た目は拍子抜けするほど普通だった。
「これで洗うの?」
「そのままではございません。湯に浸してから揉みます」
ダリアは小さな桶にぬるい湯を入れ、泡草を沈めた。乾いた葉が水を吸うと色が濃くなっていく。しばらくしてダリアが両手で揉むと、水面に細かな泡が浮かび始めた。石鹸ほどではない。それでも草を揉んだだけの水面に細かな泡が残っている。
やっぱりサポニンっぽい。
前世にあったのはサボンソウだったか。実際に使ったことはないのでその程度しか覚えていない。水に入れて揉めば泡立つ植物がある。その記憶だけは残っていた。
「これで汚れも落ちる?」
「落ちます。ただ、ひどい泥や油汚れには向きませんね」
「じゃあ毛布がすごく汚れたら?」
「それでも上等なものなら強い灰汁はなるべく避けます。毛は扱い方を間違えますと硬くなりますし、縮むこともございますから」
ダリアは迷わず答えた。
俺には初めて聞く話でも、ここではずっとそうやって毛織物を扱ってきたらしい。
強い灰汁では毛が硬くなるし、縮む。前世でも扱い方を間違えると縮んだ。
「ダリアはこれを髪に使ったことある?」
ダリアが俺を見る。
「髪に……でございますか?」
「うん」
「ございませんね。髪でしたら灰汁で洗いますので」
横を見るとミーナも当然のように頷いている。
「灰汁で洗ったあとって指が引っかかるよね?」
言いながら自分の髪を触る。指を入れて毛先へ滑らせると途中で引っかかる。いつもの感触だった。ダリアも自分の髪へ触れた。毛先に指を通してから少し首を傾げる。
「洗ったあとは、このようなものではございませんか。乾かして梳けば整いますし」
「私もそう思います」
やっぱりそうか。
二人には、この感触が普通なのだ。
髪を洗えば少しきしむ。乾いたら梳く。俺だって前世を思い出していなければ何も疑わなかったかもしれない。
でも知っている。洗ったあとでも指が途中で止まらず、そのまま毛先まで抜ける感触を。
「これを髪に使ってみたい」
言った途端、ミーナがこちらを向いた。
「坊ちゃま。こちらは毛織物に使うものでございます」
「分かってる。でもダリアは素手で触ってるでしょう?」
「手で扱うぶんには問題ございません」
ダリアはそう言ったあと少し困った顔をした。
「ただ、お髪に使ったことはございませんので、どうなるかまでは」
「じゃあ毛先だけ。少しなら、すぐ流せるでしょ?」
「いつもの灰汁でもきちんと洗えております」
ミーナはまだ納得していない。それがこの世界では普通なのも分かっている。けれど俺にとっては、ずっと普通ではなかった。
「洗えてるのは分かってるよ。でも俺、これがずっと嫌だったんだ」
髪へ指を入れる。髪が軋んで、また指が途中で止まった。
「最初に髪が死んだって言っただろ? あの時からずっと嫌だった。でも、どうにもならないと思ったから言わなくなっただけなんだ」
ミーナの視線が俺の髪へ向けられる。いつもならここで、髪は死んでおりません、と返されるところだった。
「これで変わるかもしれないなら一回だけ試したい」
ミーナはしばらく黙っていた。ダリアと顔を見合わせ、ようやく息を吐く。
「それでは本当に毛先だけです。赤くなったり、かゆくなったりしましたらすぐにやめます。坊ちゃまが平気だとおっしゃってもです」
「分かった」
ダリアが新しい泡草を少量取り、別の器に揉み出した。
ミーナが俺の髪を少しだけ取り、毛先を濡らす。そこへ泡草の湯をなじませた。
髪につけても泡はほとんど立たなかった。草の匂いがわずかにするだけで、前世のシャンプーとはまるで違う。
少し不安になってきた。
そもそも、この草が前世のサボンソウと同じものかどうかも分からない。毛布が柔らかい理由だって泡草だけではないかもしれない。
ミーナがきれいな湯で毛先を流した。見た目は何も変わっていない。
俺は濡れた毛先を指で挟み、ゆっくり滑らせた。すると、そのまま抜けた。もう一度同じところへ指を通す。今度も止まらない。
「ミーナ。触ってみて」
ミーナが横へ回った。まず洗っていない髪へ指を通す。途中でわずかに引っかかり、髪が引かれる感触がした。それから泡草で洗った毛先へ触れた。指を入れても途中で止まらず、そのまま毛先まで抜ける。ミーナの動きがそこで止まった。もう一度、確かめるように同じところへ指を通す。
「……坊ちゃま。以前おっしゃっていた『髪が死んだ』というのは、こういうことでございましたか」
その言葉を聞いて、最初に灰汁で髪を洗った日のことを思い出した。何度説明しても伝わらなかった感触を今はミーナ自身の指が確かめている。
「そう。それ。こっちは引っかからないだろ?」
「はい。触った感じも全然違います」
「だから髪が死んだって言ったんだ」
「死んではおりませんでしたが、意味は分かりました」
そこだけは譲らないらしい。
そう言ったあともミーナは泡草で洗った毛先から指を離さなかった。指を通して毛先まで抜けるのを確かめると、今度は何気ない顔で自分の髪へ触れる。
「やっぱりミーナも気になるよね」
「確認しているだけでございます」
そう答えながら、ミーナの指は自分の毛先をもう一度なぞっていた。




