第十五話 毛布が柔らかかったです
それからも、街へ出るたびに鐘楼へ上がった。
最初の何度かは父上も一緒だった。けれど、一度上から何が見えるのか分かってしまえば、父上はそれで満足したのか毎回着いてこなくなった。倉庫を見に行く日もあれば、工房で職人の話を聞く日もある。フェルナー先生から市場の仕組みを教わることもあった。
俺も最初から別行動をするわけではない。一通りついて回り、最後に時間が残れば教会へ行く。それが何度か続くうちに、護衛を一人つけてもらって鐘楼へ向かうのが自然になっていった。
見習いの少女も、もう俺の姿を見て驚かない。
「今日も上がられますか?」
「お願いします」
「今日は遠くまで見えますよ。川もよく光っています」
そう言って少女が先に階段へ向かう。
父上が一緒に上らなくなった最初の何度かは、高い段だけ護衛に支えてもらっていた。
それが嫌で、何度か上るうちに足を置く場所を覚えた。壁に手をつき、身体を横へ向けて膝を上げる。三歳の脚にはまだ高いが、角度さえ分かれば何とかなる。
後ろでは護衛がいつでも支えられるようについてきている。それでも自分で一段上がれた時は、少しだけ勝った気がした。
少女は最初こそ面白そうに見ていたが、今では俺が高い段を前にしても立ち止まらない。
「もうお一人で上がれますね」
「最初から上がれました」
「そうでしたか?」
「上がり方を考えてただけです」
少女が笑った。
鐘楼へ出れば、いつもの景色が広がっていた。
街の屋根。その間を走る道。壁の向こうに続く畑と森。今日は少女の言った通り、さらに向こうの川までよく見えた。
俺が最初に探すのは門だった。
そこから入ってくる荷車を一台ずつ追う。
何度も眺めるうちに、荷車が集まりやすい通りや、ほとんど入らない細い道も分かるようになってきた。地上で一台ずつ追っていた頃より、街の中の流れはずっと見える。
それでも、それをどう馬の数を減らすことへつなげればいいのかは分からなかった。
鐘楼へ来ること自体は嫌ではない。
地上にいると、足元がどうしても視界に入る。道の端に茶色い跡が残っていれば、泥なのかそれ以外なのかが気になる。誰かがそこを踏めば、その靴が次にどこへ行くのかまで目に入る。
ここでは、そんなものまで見えない。
道はただ道として続き、人も馬も小さく動いている。市場の布が風に揺れ、その向こうまで屋根が重なっていた。
何が落ちているのか分からないくらい離れて、ようやく街全体を見ることができる。このくらい遠い方が、俺にはちょうどよかった。
「本当にお好きなんですね」
ある日、隣からそんなことを言われた。
「ここが?」
「はい。こんなに何度も上がってこられる方、ほかにいませんから」
少女は自分のことのように嬉しそうだった。
俺は少し考えてから街へ視線を戻す。
「好きですよ」
嘘ではない。
前世で憧れていた景色に近いし、ここなら街を見ていても疲れない。それに今のところ、荷車を追うならここが一番いい。
少女は満足したように笑った。
俺もそれ以上は何も言わず、門へ視線を戻した。
朝は街へ入る荷車が多い。麦や野菜を積んだものは市場へ向かい、薪や木材を運ぶものは別の通りへ入っていく。店先で袋や樽を下ろしている間も、馬はそこで待っていた。
見れば見るほど、最初に考えていたような単純な話ではなかった。
馬を減らしたい。
けれど、その後ろには必ず荷がある。
流れは前より見えるようになったのに、どうすればいいのかは少しも見えてこない。
その日も、いつものところで考えが止まった。
強い風が鐘楼を抜けた。頭に巻いた布の端が浮き、首元へ冷たい空気が入り込む。顎を引いたところで、手袋の中の指先まで冷えていることに気づいた。
「寒っ」
声に出してから、ようやく今日は風が冷たいのだと分かった。隣では少女の長い髪が大きく流れていた。頬へかかった髪を片手で押さえ、背中へ戻す。
「今日は冷えますね」
「昨日までこんなに寒かった?」
「少しずつ寒くなっていましたよ」
言われてみれば、街へ出る時の服も前より一枚増えている。鐘楼で風が吹いていても、荷車を見ている間はあまり気にならなかったらしい。
もう一度風が抜けた。
今度ははっきり寒かった。
「もう下りますか?」
少女に聞かれて門を見る。
ちょうど一台入ってきたところだった。
「……あれだけ見てから」
少女が笑う。
「やっぱりお好きなんですね」
「……まあ」
荷車は大通りを進み、市場の手前で曲がった。
屋根の陰へ消れる。しばらく待つと、少し離れた道からまた姿を見せた。
そこまで見届けてから鐘楼を下りた。
結局、その日も答えは出なかった。
夜になると、昼間に感じた寒さを思い出した。
寝台へ入って布を肩まで引き上げても、足先だけがなかなか暖まらない。膝を曲げて丸くなってみても、布の中が暖かくなるばかりで足は冷たいままだった。
「ミーナ」
「はい」
部屋の隅で片づけをしていたミーナが振り返る。
「もう一枚、何か掛けるものない?」
「寒うございますか?」
「足がずっと冷たい」
「少々お待ちください」
ミーナは部屋を出ていき、しばらくして厚い毛布を抱えて戻ってきた。
寝台の上へ広げると、それまでの布より重みがあり、足元までしっかり覆われる。
これなら暖かそうだ。
端を引き寄せようとして毛布に触れたところで手が止まった。
厚い羊毛の毛布だった。
表面には細かな毛羽があり、前世で使っていたものほど滑らかではない。それでも、思っていたような硬さがなかった。
手のひらで撫でる。押したところが柔らかく沈んだ。
「これ、本当に羊毛?」
「はい。羊毛でございます」
「もっとごわごわしてると思ってた」
「こちらは上等なものですから」
ミーナが毛布の端を整える。
そういうものか、と納得しかけたところでふと気になった。
屋敷で使う寝具なら汚れれば手入れもされているはずだ。
それでも、この手触りが残っている。
「これ、洗ってもこうなの?」
「こう……とは?」
「硬くならないの?」
「ああ、それでしたら普通の布と同じには洗わないそうです」
「何が違うの?」
ミーナは少し考えた。
「洗濯場では、強い灰汁を使うと毛が硬くなったり縮んだりすると聞いております。こういったものには泡草を使うことがあるそうです」
「泡草?」
「水に浸して揉むと泡の出る草です。汚れのひどいものには向かないそうですが、毛や傷めたくない布に使うのだとか」
毛布を撫でていた手が止まった。
水に浸して揉むと泡が出る。
その言葉に、前世の記憶が引っかかった。
植物の中には石鹸のように泡立つものがある。
しばらく考えて、サポニンという言葉が出てきた。サボンソウだったかもしれない。実際に使ったことはない。ただ、そういう植物があることだけは知っていた。
もう一度毛布へ触れる。
強い灰汁を使わなくても汚れは落とせる。毛を傷めにくい。
そこまで考えたところで、手が自然に頭へ上がった。
髪へ指を入れる。
いつものように途中で引っかかった。
薄めた灰汁で洗うようになってから、何度も味わってきた感触だった。
最初の頃は、そのたびに髪が死んだと言っていた。
最近はもう言わない。
慣れたわけではなかった。
どうにもならないと思っていただけだ。
シャンプーが欲しいと思っても、作り方なんて知らない。前世では店で買って使っていただけで、何をどう混ぜれば同じものになるのか考えたこともなかった。
だから、灰汁で洗ったあとのきしみくらいは仕方がないと思っていた。
毛布へ手を戻す。
指はそのまま毛の上を滑っていく。
自分の髪へ戻すと、やはり途中で引っかかった。
ミーナが怪訝そうにこちらを見る。
「坊ちゃま?」
「泡草って、髪に使ったことある?」
「お髪に……でございますか?」
「うん」
「私はございません。髪でしたら、いつものように薄めた灰汁で洗いますので」
やっぱりそうか。
この世界では、それで困らないのだろう。
洗ったあとの髪がきしむ。それが当たり前なら、わざわざ別のものを使おうとは思わない。
でも俺は、その感触が当たり前ではないことを知っている。
「これ、シャンプーになるんじゃない?」
「しゃんぷー……でございますか?」
ミーナには通じなかった。
当然だ。
俺にも、まだ本当に髪へ使えるのかは分からない。
それでも足元を暖めている毛布をもう一度撫でる。
さっきまでただ暖かいだけだったその柔らかさが、今は妙に気になった。
指先で毛布を撫で、そのまま自分の髪へ触れる。やはり途中で引っかかった。
「……明日、洗濯場へいらっしゃるとダリアさんに伝えておきますね」
ミーナは俺の仕草を見て、小さく息を吐いた。




