第十四話 見える場所
教会に着くと、父上は入口近くにいた者へ声をかけた。用件が奥へ伝えられ、ほどなくして年配の神官が姿を見せる。父上へ頭を下げたあと、その視線が隣に立つ俺へ移ったところで一瞬だけ動きが止まった。
まあ、そうなるよな。
頭から口元まで布で覆い、両手には革手袋までしている。街へ出るたびに同じ格好をしているので、最近は通りで露骨に見られることも減ったが、教会へ来るのは初めてだ。何者なのか分からなくても仕方がない。
「……そちらのお子様は?」
「アルノだ。以前、娘のことで屋敷へ来てもらった時にも会っている」
神官は父上に言われて、布の隙間から出ている俺の目元を見た。しばらく見つめたあと、神官の眉が上がった。
「ああ、あの時の。リリア様はその後いかがですかな」
「元気です」
「それは何よりです」
前に会った時は、リリアの身体に発疹が広がっていた。原因も分からず、神官も悪いものではないと思うが約束はできないと言っていた。それを思えば、今の穏やかな笑顔を見るだけで印象がずいぶん違う。まあ、俺の印象も違うだろうが。
父上が鐘楼へ上がりたいと告げると、その笑顔に今度は戸惑いが混じった。
「鐘楼へ……ですか」
「街を上から見たいんです」
「荷車を見るためにな」
父上が横から付け足すと神官は俺と父上を順に見た。
「荷車を……」
「領地の勉強だ」
「なるほど」
父上がそう言えば、それ以上の説明は求められなかった。
鐘楼の上まで続く階段は狭いらしく、神官は案内役を呼んでくれた。やってきたのは十歳だという教会見習いの少女だった。簡素な服の背中に、腰近くまで伸びた髪をまとめている。長いのに乱れは少なく、毛先までよく揃っていた。
「ご案内いたします」
少女は父上を前にして少し固くなっていたが、奥へ向かう足には迷いがなかった。
レオルとユリウスには下で待ってもらい、父上と俺だけが少女についていく。護衛も一人、少し間を空けて後ろからついてきた。
石の階段は最初こそ普通だった。ところが上へ進むにつれて壁が近くなり、一段ごとの高さも少しずつ増していく。外の光は細い窓からしか入らず、曲がるたびに先が見えなくなるほど暗くなっていった。
少女は慣れた様子で上っていく。
俺もその後ろを追ったが、しばらくして次の段を前に足が止まった。膝をかなり上げなければ届かない高さだった。
届かないわけではない。石段へ手をついて身体を持ち上げればいけるはずだと考えていると、背後から父上の声がした。
「アルノ」
「今、上がります」
片足を上げて両手をついたところで、身体が先に浮いた。父上に両脇を抱えられた。
「歩けます」
「止まっていただろう」
「上がり方を考えてたんです」
「そうか」
そう言いながら父上は俺を下ろさず、そのまま階段を上り始めた。
全然信じていない。
前を歩いていた少女が振り返る。俺と目が合うと慌てたように前へ向き直ったが、肩が少し震えていた。
笑ったな。
高くなるにつれて、石壁の細い窓から入る風が強くなった。少女の長い髪も背中から浮き、肩の前へ流れてくる。少女は歩みを止めず、片手で髪を後ろへ戻した。
さらに階段を上っていくと頭上から差し込む光が急に広がった。
父上に下ろされ、最後の数段を上がって塔の上へ出る。周囲には石壁が巡らされ、そのところどころに外を見通せる狭い開口があった。
そこへ近づいた途端、風が布越しに頬を撫でた。一瞬だけ目を瞑ってしまったが、もう一度開くと街が下に広がっていた。
通りを歩いていた時は左右に並んでいた家々が、今は屋根ごと見えていた。赤茶色や灰色の屋根が重なり、その隙間から何本もの煙が細く上がっている。市場の辺りには屋台に張られていた色の違う布が並び、その下を人が小さく行き交っていた。
そこから目を外へ動かすと、街を囲む壁の向こうまで一度に見渡せる。
畑がずっと続いていた。一面同じ色ではなかった。濃い緑の場所もあれば、土の色が広く残っているところもあり、その間を細い道が何本も伸びていた。さらに向こうには森が続き、その脇を流れる川がところどころ日の光を返している。
街の中では屋根と屋根の隙間にしか見えなかった空も、ここでは見上げればどこまでも青が広がっていた。
前世で見た本の挿絵や映画を思い出した。
城壁に囲まれた街。その外に畑が広がり、遠くに森や川がある。中世風の物語なら何度も見た景色だし、本当にこんな場所を歩いてみたいと思ったことだってある。
実際に歩いてみると、泥があり、馬がいる。馬がいれば、その後ろには当然あれも落ちる。景色を見るどころではなかった。
でも、ここから見える通りにはそれがなかった。正確にはあるのだろうが、ここではそれを気にする必要がない。
自然と視線が見たいものにだけ向かっていく。市場から屋根へ。屋根から壁へ。さらに畑を越えて川まで行く。街をこんなふうに見たのは初めてだった。
「……ここ、いいな」
つい声が出た。隣で街を見ていた父上も門から伸びる大通りへ目を向けている。
「なるほど。確かによく見える」
父上の視線が道をたどり、市場の辺りで止まった。地上では建物に隠れていた細い道も、ここからなら屋根の隙間を縫うように続いているのが分かる。
「ここなら荷車も追えるだろう。しばらく見ていろ」
「父上は?」
「今日はまだ回るところがある。レオルたちを待たせているからな。帰りに寄る」
父上は少女へ俺のことを頼み、護衛には階段の出口で待つよう命じた。階段へ向かう前に一度だけ振り返る。
「勝手に下りるなよ」
「分かってます」
「それと、景色を見るために来たわけではないからな」
「……分かってます」
少し間が空いたせいで、父上の目が細くなった。余計なところだけよく気がつく。やがて父上の足音が石の階段の奥へ消えた。
それまで意識していなかった風の音が急に大きくなる。下からは人の声や車輪の響きが上がってくるものの、どれも遠く、通りに立っていた時のように一つ一つが迫ってこない。
少女も少しだけ肩の力を抜いたようだった。
しばらくして教会の前を見ていると、父上が建物から出てきた。待っていたレオルとユリウスが近づき、護衛と一緒に通りへ向かう。
あれだけ大きく見えていた父上も、ここからでは人の流れの中の一人だった。
俺はその姿を目で追った。
父上たちが通りへ入る。店先に並ぶ人や荷車と重なり、地上ならその時点で見失っていたはずだ。今は屋根の向こうへ隠れても、少し待てば別の通りからまた姿が現れる。
レオルの頭が見え、少し遅れてユリウスが出てくる。父上もその後ろから続いた。
角を曲がって消えたあとも、道の先を追っていれば次に出てくる場所がなんとなく分かった。
「……見える」
声に出すと、隣からすぐ返事がきた。
「よく見えるでしょう?」
少女の声はさっきまでより柔らかかった。父上がいなくなったからだろう。俺と同じように下を覗き込み、父上たちが歩いていった方を見ている。
「私もここが好きなんです。休みをいただいた時に、ときどき上がってくるんです」
「ここまで?」
「はい。下からでは見えないところまで見えますから」
少女は街の外へ顔を向けた。風が吹くと背中の髪が大きく揺れた。顔の横へ流れてきた髪だけを指で押さえるとそのまま遠くを指す。
「あの川も、日差しの強い日はもっと光るんですよ。夕方になると森の色が変わって、畑も今とは全然違って見えます」
話しているうちに、最初に会った時の固さがなくなっていく。
俺も少女が指した方を見る。
川は遠くに細く伸び、そこから目を戻せば街壁の外に畑が広がっている。屋根の上を風が抜け、煙がゆっくり横へ流れていた。
下にいた時と同じ街なのに、ここでは別の場所みたいだった。道の汚れを探さなくていいだけで、こんなにも綺麗なところがある。
「ここなら、ずっと見てられる」
「私もです」
少女が嬉しそうに笑った。
同じものを好きだと言われたのが嬉しかったのだろう。そのまま俺の隣へ並び、二人で街を見下ろす。
俺もすぐには視線を戻さなかった。
市場の布が風に揺れている。その向こうでは人の流れが細く動き、門の外まで続く道には何台かの荷車が見えた。
一台が門をくぐる。
そこで、ようやく父上の言葉が頭に戻ってきた。危ない。本当に景色だけ見て終わるところだった。
門から入った荷車へ目を合わせる。荷台には袋が積まれているようだった。大通りをそのまま進み、市場の手前で右へ曲がる。
それから屋根に隠れていた荷車が、少し離れた通りからまた姿を見せた。そのまま進み、店の前で止まる。御者が降り、荷台の後ろへ回った。
そこへ別の荷車が門を通った。
さらにその後ろにも一台いる。
一度に全部を追うことはできない。それでも、目の前を通り過ぎた一瞬しか分からなかった地上とは違う。どこから入り、どの道を選び、どこで止まるのか。その途中をかなり長く見ていられる。
俺は最初の荷車から次の一台へ視線を移した。
「やっぱり、ここから見るのが一番ですよね」
少女が少し得意そうに言った。
「うん」
門をくぐった荷車がまた屋根の間へ進んでいく。
俺はその先を追った。
少女も隣で、同じ方を見ていた。




