第十三話 見えない道
数日が経ち、俺はまた街にやってきた。
頭から口元まで布で覆い、両手には革手袋。馬車が止まったのは前と同じ場所だった。降りる前に足元を見る。今回もきれいに掃かれている。藁も馬糞も見当たらない。ここだけは、もう気にしなくてもいいのかもしれない。
父上たちに続いて俺は馬車を降りる。父上とレオル、ユリウス、フェルナー先生、それに護衛たち。領地の勉強で街へ出る時のいつもの顔ぶれだ。
「今日は荷車を見るんだ」
父上に言われて顔を上げた。
「はい」
「前回みたいに地面だけ見て終わるなよ」
「分かってます」
足元を見ないのは無理だ。
それでも今日は、視線が落ちるたびに前へ戻した。話に耳を傾けなくていい。それだけで気が楽だった。
大通りへ出ると人が一気に増えた。道の両側には店が並び、軒先まで籠や樽が出ている。露店の前には客が集まり、その間を荷物を抱えた人たちが行き交っていた。
そこへ荷車が入ってくる。
木の車輪が軋み、馬の蹄が乾いた音を立てる。御者が声を上げると人が少しずつ脇へ寄り、その間を荷車がゆっくり進んでいった。
門の方から大きな袋を積んだ一台が来た。
袋は荷台の上まで重ねられ、太い縄でまとめて押さえられている。御者が人の流れを避けながら進み、市場の少し手前で右へ曲がった。
俺もそちらへ目を向ける。
細い道に入った荷車は店先の人影に一度隠れた。少し先で馬の頭が見えたので、そのまま追う。だが、その先の角を曲がったところで完全に消えた。
「あ」
「どうした?」
「見えなくなりました」
父上も同じ方を見る。
「曲がったからな」
「どこへ行ったんですか?」
「俺に聞いてどうする。お前が見ていたんだろう」
それはそうだけど。
一本曲がっただけでもう何も分からない。
次に樽を積んだ荷車を見つけた。今度は通り沿いの店の前で止まる。荷台へ男が上がり、下では別の男が受け取る準備をしていた。
これなら最後まで見られそうだと思ったところで、大きな籠を抱えた女が目の前を横切った。
少しずれて見ようとしても、今度は立ち話をしている男たちが邪魔になる。反対へ動いても後ろから来た別の荷車が止まって視界を塞いだ。
「……見えない」
「僕も見えない」
横でユリウスが首を伸ばしていた。俺より三つ上でも、大人の間を見通せるほどではない。
「レオル兄上は?」
ユリウスに呼ばれ、少し前にいたレオルが振り返る。
「俺は多少見えるぞ」
俺とユリウスは揃ってレオルを見た。
「ずるい」
「何がだよ」
年齢が違うのだから仕方がない。それでも今だけは、俺もユリウスと同じ気持ちだった。
背伸びしてみる。けれど、やっぱり見えない。
通りの脇に木箱が置かれていた。あれに乗れば少し高くなる。そう思ったが、側面には泥が跳ねていた。蓋には黒い靴跡までついている。
やめた。
荷車を見るためにそこまで自分を犠牲にしたくない。
そのあとも何台か追ったが結果は似たようなものだった。大通りを進めば人や看板に隠れる。市場へ入れば露店の向こうへ消える。
一台を追っている間にも次が来る。そちらへ目を移せば、さっきまで見ていた荷車がどこへ行ったのか分からなくなった。
「父上。思ったより難しいです」
「何がだ?」
「一台ずつ追っても途中で見えなくなります。人も建物も邪魔になりますし、曲がった先が分かりません」
「そんなものだ」
あっさり返された。
「そんなものなんですか?」
「ああ。街の中を全部、自分の目だけで見ることはできん。見えるところまで見て、分からないところは聞く。地図や報告と合わせて考える」
「……そうなんですね」
「自分で見たものだけで全部分かると思うな」
それはその通りだった。
けれど俺が知りたいのは、今ここを走っている荷車が実際にどう動いているのかだ。一台ずつ御者に聞くことはできても、この数を全部となれば現実的ではない。
俺が通りを見ていると、隣のフェルナー先生が口を開いた。
「ですが、最後まで追えなくても分かることはありますよ」
「何ですか?」
「先ほどから、何が荷を運んでいましたか?」
改めて見る。
袋。樽。野菜。薪。木箱。
荷物は違う。けれど、その前にいるものは全部同じだった。
「……馬」
「はい」
そんなことは最初から知っている。
それでも荷車として見てみると、今までより馬の足取りを意識するようになった。
門から入り、市場へ向かう馬。店の前で荷を下ろしている間も待っている馬。空になった荷車を引いて門へ戻る馬。
一頭が通り過ぎれば、その後ろから次が来る。そして、どの荷台にも必要なものが載っていた。
「こんなに必要なんですね」
「必要だ。人が背負える量には限りがある。馬を減らして同じだけ運ぶなら、その分を誰かが持たなければならん」
「街には食料も薪も要ります。布も木材も運ばなければなりません。人が増えれば必要な量も増えますから」
フェルナー先生の言葉を聞きながら、薪を山のように積んだ荷車を見る。あれを人が背負うのは無理だ。
「レオル兄上は、もっと馬を減らせないと思いますか?」
レオルは通りを進んでいく荷車を見た。
「減らしたら、その荷は誰が運ぶんだ?」
「……そうですよね」
「少ない荷なら人でも運べるだろうけど、全部は無理だろ」
「ユリウス兄上は?」
「僕?」
ちょうど大きな袋をいくつも積んだ荷車が目の前を通っていく。ユリウスは荷台を見送った。
「あれを僕が運べって言われたら嫌だよ」
「兄上が運ぶ話じゃないです」
「でも誰かが運ぶんだろ? だったら馬でいいじゃないか」
「……そうですか」
父上もフェルナー先生も、レオルもユリウスも、見ているのは馬の後ろに積まれた荷物だった。
俺だってあれを運ぶ別の方法は分からない。前世なら車があった。けれど、この世界にはない。
また一台が横を通る。
車輪が窪みへ落ち、積まれた木箱が大きく揺れた。御者が馬をなだめながら市場へ進んでいく。その横を空の荷車が門の方へ戻っていった。減らしたいのに、見れば見るほど馬が必要な理由ばかり増えていく。
一台を追う。
曲がる。
消える。
別の一台を見る。
人に隠れる。
その向こうでは、また別の荷車が店先へ止まっていた。
目の前の一台ずつを追っていても、街の中でどう動いているのか全体がつかめない。
俺はようやく荷車から目を離した。店の軒の上には赤茶色や灰色の屋根が重なっている。煙突から細い煙が上がり、張り出した二階の向こうにも屋根が続いていた。
もっと高いところから見られればいいのに。
前世なら道路を上から見下ろせる場所はいくらでもあった。展望台でも高い建物でもいい。そこからなら車の流れをまとめて見ることができた。
この街にも、何か――。
そう思った時、ふいに重く低い音が響いた。ゴーン、と長く伸びた音が街の上を渡っていくように聞こえてきた。
店の呼び声も人の話し声も相変わらずある。それでも鐘の音だけは、その全部より高いところをゆっくり通り過ぎていった。俺は顔を上げた。
「……今のは何の音ですか?」
「鐘だ」
父上が答える。
「教会の鐘ですよ。祈りの刻を知らせています。街の者にとっても一日の区切りになりますね」
フェルナー先生が音のした方を見る。
俺もそちらを探した。
屋根。煙突。その向こう。一本だけ周囲より高く伸びた石造りの塔が見えた。鐘楼だ。街の屋根が、ほとんどその下にある。俺はしばらく見上げた。
「父上」
「今度はなんだ」
「あそこに登れますか?」
指で示すと父上も鐘楼を見る。
「鐘楼にか?」
「はい。あそこからなら街を上から見られますよね」
通りへ目を戻す。地上では人や建物に隠れる道も、あの高さならもっと先まで見えるはずだ。
「ここだと荷車が曲がったら終わりです。でも上からなら道も見えると思います。全部じゃなくても、今よりは追えるかもしれません」
父上は鐘楼と周囲の屋根を見比べた。
フェルナー先生も同じように視線を上げる。
「確かに、ここで一台ずつ追うよりは分かりやすいでしょうね」
「お願いすれば登れますか?」
「頼んでみるくらいはできるな」
「行きたいです」
「分かった。ただし上では勝手に動くな。荷車を見るために登って、お前が落ちたら何をしに来たのか分からん」
「動きません」
父上が俺を見る。そのあと少しだけ視線を下げた。地面を見ているようだった。
「その点だけは安心だな」
「何がですか?」
「お前は下を見るのが得意だ」
「落ちるかどうかを見るのと馬糞を見るのは違います」
「俺にはどちらも足元に見えるが」
「全然違います!」
ユリウスが吹き出した。
レオルまで笑っている。
父上は気にした様子もなく、もう教会の方へ歩き始めていた。
俺もその後を追った。
今度は荷車ではなく、父上の背中を見失わないように歩いた。




