幕間 ヴァイスベルク家の三男坊
朝の客が一段落すると、市場の通りにも少しだけ余裕ができた。
野菜商の男は台の前へしゃがみ、売れた分だけ空いた籠を重ねて横にまとめていた。葉物野菜は外側の傷んだ葉を落とし、形の良いものを上に固める。根菜の方はまだ数がある。昼から来る客にも見やすいよう、泥の多いものを底に移していると通りの向こうから見慣れた魚商が歩いてきた。
肩に掛けた籠は空だった。手にした木桶の底から水が垂れ、歩くたびに地面に点々と跡が残されていく。
「屋敷へ納めてきたのか」
声をかけると、魚商は足を止めた。
「ああ。今朝の分をな。だが、いつもなら納めて終わりなんだが、今日は妙なことまで聞かれたぞ」
「何をだ?」
「魚のことだよ。ヴァイスベルク様のところの三男坊に」
「あの三男坊か?」
野菜商は籠へ伸ばしかけていた手を止めた。
「知ってるのか」
「この前、ここへ来た。顔を布で隠してる子だろ」
「……顔を?」
魚商が怪訝そうな顔をした。
「そうだよ。頭から被って、口の辺りまで隠してた。見えてたのはほとんど目だけだったぞ」
「今朝は何もしてなかったぞ」
「何も?」
今度は野菜商が魚商をしげしげと見つめた。
「ああ。普通に顔を出してた。年若い侍女と護衛が一緒だったし、屋敷の者もアルノ様と呼んでいた」
それなら同じ子だ。
野菜商は根菜を籠へ戻しながら少し声を落として言った。
「じゃあ、顔を怪我してるって話は違ったのか」
「怪我?」
「市場じゃそういう話になってたんだよ。あれだけ隠してたからな。火傷でもしたんじゃないかって言ってるやつもいた」
「……そうか。しかし少なくとも、俺が見た限りじゃ傷なんかなかったぞ」
「そうなのか……」
怪我なら、布を巻いていた理由は納得だった。それが違うとなると、かえって分からなくなる。
「なら、もう一つの噂の方かもしれんな」
「まだ何かあるのか」
魚商が呆れたように言った。
「素顔を知られないようにしてるんじゃないかって話だよ。領主様がずいぶん気を遣ってる子らしいからな。年の割に頭がいいとかで、変な連中に目をつけられないようにしてるんじゃないかって」
「顔だけ隠してもヴァイスベルク家の馬車から護衛付きで降りてきたら分かるだろう」
「俺に言うなよ。噂なんてそんなものだ」
もっともだとは思う。
顔を隠したところで、あの格好で市場を歩けばヴァイスベルク家の子供だということくらいすぐに知れる。
それでも、ガルム様自身が幼い三男を街まで連れてきていることや兄たちと一緒に勉強をしているらしいという話まで混ざれば、何か特別な事情があるのではないかと思う者は出てくる。
野菜商自身も、半分くらいはそう思っていた。
「頭がいいって話なら俺も聞いたことはある」
魚商が言った。
「だろ?」
「だからといって攫われないために顔を隠してるかは知らんぞ。ただ、変わった子なのは確かだな」
魚商がそう言うので、野菜商は顔を上げた。
「何を聞かれたんだ?」
「最初は今日持ってきた魚がどこで獲れたのかだった。そこまでは、魚が珍しいのかと思ったんだよ」
魚商は空になった桶を足元へ置いた。
「ところが、そのあと獲った魚をどうしてるのか、遠いところから来る魚はどうするのかって聞かれてな。生かしておける魚は川の魚籠や囲いへ入れるって話をしたら、今度は市場で売れ残った魚はどうするのかまで聞いてきた」
「売れ残りまで?」
「ああ。うまい魚はどれかとか、大きい魚が見たいとかなら子供らしいんだが、そんなことは一度も聞かれなかった。どこで獲って、どう持ってきて、残ったらどうするのか。朝からずっとそんな話だ」
野菜商は黙って魚商を見る。三歳児に聞かれた話としては確かに妙だった。そういえば、自分の店に来た時もそうだった。
「あの子、うちじゃ屋敷へ行く荷車を見てたぞ」
「荷車を?」
「ああ。ちょうど野菜を積んでたんだ。それを見て、あれはヴァイスベルクの屋敷へ行くのかって聞かれた」
言いながら、あの日の様子を少しずつ思い出していく。あの三男坊は店先へ来る前から荷車を見ていた。屋敷へ運ぶ野菜だと分かると、今度は台に並べてある品を見た。客が来ればこちらの手元までじっと見ていた。
何をそんなに気にしているのかは分からなかったが、ただ珍しがっているだけの子供とは少し違っていた。
魚商も何か考えたらしく通りへ目を向けた。
ちょうど一台の荷車が市場へ入ってくる。袋を積んだ荷台が石の継ぎ目で揺れ、御者が馬の横を歩いている。その向こうでは別の荷車が店の前に止まり、二人がかりで樽を下ろしていた。
毎日見ている光景だった。何がどこから来て、どの店へ入り、そのあとどこへ行くのか。商売をしている者なら自分に関わる範囲は知っているが市場全体をわざわざ考えることはない。
「お前のところでは、屋敷へ行く方を見てたんだな」
魚商が言った。
「そうだな」
「俺には屋敷へ来る前のことを聞いた」
それだけ言って魚商は少し考える素振りをした。野菜商も黙ってあの日のことを振り返る。
「……領主様が市場のことを教えてるのかもしれんな」
先に口を開いたのは野菜商だった。
「三歳にか?」
「三歳だから妙なんだろ。普通の子なら、わざわざ領主様が連れて歩いて荷車なんか見せないんじゃないか」
「それはまあ……」
魚商は完全には納得していないようだったが、さっきのように笑い飛ばしもしなかった。
「頭がいいって噂も、その辺から出たのかもしれないな」
「いや、それはもっと前から聞いたことがある」
「じゃあ本当に頭がいいのか」
「俺に聞くな」
野菜商は思わず笑った。魚商も頬を少し緩める。顔を隠していた理由は相変わらず分からない。それでも、ただ妙な格好をしたヴァイスベルク家の子供だと思っていた時より少しだけ印象が変わった。ふと台の端に置いた黄色い房が目に入った。
「そういや、あの子にはこれをやろうとしたんだ」
野菜商が顎で示すと魚商もそちらを見る。
「南から入ってきたやつか」
「ああ。まだこの辺じゃ珍しいだろ。店先で見てたから一本持っていけと言ったんだが、断られた」
「知らないものは食べないように言われてるんじゃないのか」
「いや、名前は知ってた。俺が説明する前に言い当てたぞ」
「それで断ったのか?」
「そうなんだよ」
そこも妙だった。
珍しいから見ているのかと思った。だからヴァイスベルク家の子供なら一本くらい構わないと差し出したのに急にいらないと言われた。
「あの時は、ずいぶん気位の高い子だと思ったよ。市場の店から手渡されたものなんて食べたくないのかとな」
魚商が少し考える。
「気位の高い子が朝から魚の売れ残りを気にするか?」
「だから分からなくなってるんだよ」
野菜商が言うと魚商は声を立てずに笑った。
ヴァイスベルク家の三男坊は怪我をしているわけではなかった。だからこそ顔を隠している理由が余計に分からない。
市場のことを教えられているのか、本当にただ気になったものを聞いているだけなのかも分からない。
分からないことばかりなのに、最初に見た時よりあの三男坊のことが妙に頭へ残った。
「そろそろ戻る。店を開けんと今度は俺の魚が売れ残る」
魚商が空の桶を持ち上げた。
「その時は三男坊に聞かれるぞ」
「勘弁してくれ。今朝もう説明した」
魚商はそう言いながら通りへ戻っていった。
野菜商も仕事へ戻ろうとして並べ直した籠へ手を伸ばす。
その向こうをまた一台の荷車が通っていった。
次にあの三男坊が来た時は何を見ているのか。
それが少しだけ気になった。




