第十一話 これはいつ獲った魚ですか?
その日の昼食は魚だった。
皮には焼き色がつき、表面には刻んだ香草が散らされている。何度も食べたことがあるし、珍しい料理でもない。昨日までならそのまま食べていた。
けれど今日はフォークを伸ばしかけたところで、ふと街の魚屋が浮かんだ。
昨日だけじゃない。初めて街へ行った時から魚を売っている店は何度も目に入っていた。木の台に魚が並び、男がその上へ水を流していたことも覚えている。
でも、それだけだった。
あの頃は馬糞や道へ流れていく水の方が気になっていて、魚そのものがどう扱われているのかまでは意識が回っていなかった。
俺は皿の上の魚を見る。これ、いつ獲ったんだ。そう思った瞬間、フォークが止まった。
前世なら魚は冷やしておくものだった。店でも、運んでいる間も、買って帰ってからも。それが当たり前だった。けれどこの世界に冷蔵庫はない。中世には塩漬けや干物があることは知っている。ただ、目の前にあるのは塩漬けにも干物にも見えない。普通に焼かれた魚だ。
この世界で前世の記憶が戻ってから魚を食べて腹を壊した覚えはないし、台所の人たちが傷んだものを平気で料理するとも思えない。
それでも一度気づいてしまうと無性に気になった。
「アルノ?」
母上の声で顔を上げる。
「食べないの?」
「……食べます」
答えたもののフォークを握ったまま魚をまじまじと見つめてしまう。母上が俺の皿を見る。
「魚は嫌いだったかしら」
「嫌いじゃないです。……これは、いつ獲った魚ですか?」
「いつ?」
母上が一度瞬きをした。
「今日? 昨日?」
「そこまでは知らないわね」
母上の視線が俺の後ろへ向く。俺も振り返った。ミーナがいた。
「ミーナは?」
「申し訳ございません。私も存じません」
「ミーナでも?」
「坊ちゃまのお食事に何が出るかは存じておりますが、魚がいつ獲られたかまでは」
昨日も似たようなことを聞いた気がする。
「最近、ミーナの知らないことが多い」
「坊ちゃまが今までお尋ねにならなかったことばかりでございますので」
それはそうだった。
「じゃあ、誰なら分かる?」
「台所で聞けば、今日届いたものかどうかは分かるかと」
「その前のことは分かるかな?」
「その前、と申しますと?」
「魚屋に来る前だよ」
「それは魚を納めている者に聞かなければ分からないかと」
そこだ。
俺が知りたいのはそこだった。
今日届いたからといって今日獲れたとは限らない。
台所へ来てからなら、たぶんちゃんとしている。今まで見てきた屋敷の人たちは俺が思っていたよりずっと細かく物を見ていた。
「アルノ」
母上に呼ばれる。
「はい」
「聞くのは食べてからにしなさい」
「……はい」
俺はおそるおそる一口食べた。普通においしい。身は柔らかいし、変な匂いもしない。だからこそ困る。
昨日までなら前に出されても気にしなかったというのに。
昼食が終わると、そのままミーナと台所へ向かった。中では食事に使った鍋や皿が片づけられていて、ベルタが炉のそばで次に使う薪をまとめていた。
「……ベルタ」
「はい、アルノ様」
「今日の魚って今日届いたの?」
「はい。朝に届いたものでございます」
「届いた時に何か見る?」
ベルタが少し首を傾げた。
「どういうことでしょうか」
「傷んでないかとか」
「ああ。もちろん見ますよ」
当たり前のように返ってきた。
「目が濁っていないか、色がおかしくないか、腹が崩れていないか。匂いも見ます。駄目なものは受け取りません」
「受け取らないの?」
「はい。お金を払って傷んだ魚を買う理由がございませんので」
そりゃそうだ。俺は勝手に衛生の話をしていたつもりだったけれど、向こうにとっては商売の話でもある。
「今日のは?」
「問題ございませんでしたよ」
そこまで聞けて少しだけほっとした。
「でも、魚屋に来るまでは?」
「それは私には分かりませんね。いつもの魚商なら、明日の朝も参りますが」
「明日も?」
「魚を使う予定がございますので」
俺はミーナを見る。
「聞けるね」
「聞けますね」
「朝、来たら教えて」
「かしこまりました」
ミーナはもう何も聞かなかった。
野菜の次は魚か、とでも思っているのかもしれない。
翌朝、魚商が来たと聞いて俺はミーナと一緒に台所の裏手へ向かった。
小さな荷車が止まっている。荷台には蓋をした籠と木桶が積まれ、その間には濡れた藁が見えた。
男が荷台から籠を下ろしている。俺たちに気づくと手を止めた。俺を見てからミーナを見る。
「おはようございます」
先に声をかけると、男は慌てて頭を下げた。
「お、おはようございます。そのお年頃からしてアルノ様ですか?」
「うん。そうだよ。少しだけ魚のこと聞いていい?」
「魚……でございますか?」
明らかに戸惑っていた。領主家の三男が朝から魚の荷受けを見に来る理由なんて、普通は思いつかないだろう。
「昨日食べた魚が、どうやって屋敷まで来るのか知りたいんです」
「ああ、左様でございますか」
男の顔から少しだけ緊張が和らいだ。
「この魚ってどこで獲るの?」
「この辺りへ生のまま持ってくるものは、近くの川で獲れたものが多うございます。こちらへ納めるものもそうでございますよ」
川の名前を聞くと知っている川だった。フェルナー先生の授業で何度も出てきている。
「獲ったら、そのまま市場へ?」
「その日のうちに出すものはそうすることもございますが全部ではございません」
「じゃあ、出さない魚はどうするの?」
「川の魚籠に入れておきます」
「……びく?」
聞き慣れない言葉だった。
「どんなものですか?」
「枝を編んだ籠ですよ。蓋をつけて、川の流れが緩いところへ沈めておくんです。水は中を通りますが魚は逃げられません」
「川の中に籠を?」
「はい。売る分だけそこから出します」
そこでようやく意味が分かった。
保存しているんじゃない。
生かしている。
「……生かしておくんですね」
「そうでもしないと腐ってしまいます。注文が決まっている分だけ必要な時に魚籠から出します」
男は当たり前のように答えた。理解するまで少しだけ時間がかかった。俺は魚を獲った瞬間から、どうやって傷ませないかを考えていた。
冷やす。
塩をする。
干す。
それくらいしか思いつかなかった。
でも、その前に一つあった。
まだ死んでいなければ魚は傷まない。
「そこから、売る分だけ?」
「はい。一度に上げてしまえば売れなかった分が無駄になりますから」
「遠方から来る魚もありますか?」
「生のまま遠くから運ぶものは多くございません。塩をしたものや干したものになりますね」
「じゃあ、市場に並んでた生の魚は近くのものが多いってことですね?」
「左様でございます」
「売れ残ったら?」
男が少し考えた。
「状態にもよりますが、鮮魚として何日も並べることはいたしません。塩漬けできるものなら回しますし、料理屋がまとめて買うこともございます。売れそうな数を見て魚籠から出しますから最初から余らせすぎないようにもいたします」
「なるほど……」
俺が思っていたより、ずっと普通だった。
男が籠の蓋を開ける。中には濡れた藁が敷かれ、その上に魚が並んでいた。
台所の男が一匹持ち上げ、えらを開く。腹へ指を当て匂いも確かめてから別の籠へ移した。昨日ベルタから聞いた通りだった。
売る側は傷めれば損をする。買う側も状態を見て受け取る。そのために生かしておける魚は必要になるまで生かしておく。
「坊ちゃま」
隣からミーナに呼ばれた。
「何?」
「ご安心されましたか?」
「うん。かなり」
「それは何よりでございます」
俺はもう一度荷台を見る。昨日の昼からずっと頭の中にあった、どこでどう腐っていくのか分からない魚とはだいぶ違って見えた。
「冷やすことしか考えてなかった」
「魚でございますから生かしておくこともできますね」
「……今は分かってる」
「はい」
「その『はい』は、なんか嫌だ」
「普通にお返事しただけでございます」
本当にそうか。
ミーナの顔を見る。
いつもと変わらない。
変わらないから余計に怪しい。
「昨日の魚も朝まで泳いでたのかな」
「そこは魚商の方にお尋ねになってはいかがでしょうか」
振り返る。魚商は台所の男と荷を確認していた。一瞬、本当に聞こうかと思った。
「……やめとく」
「よろしいのですか?」
「食べ終わった魚のことまで気にし始めたら、たぶんきりがない」
「それはよいご判断かと存じます」
今度は明らかに返事が早かった。
やっぱり何か思っている。
それでも昨日よりはずっと気が楽だった。
次に魚が出ても、まずは普通に食べられると思う。
たぶん。
ミーナが隣で何も言わなかったので、俺もそれ以上は言わないことにした。
ーーその日の夕食は肉だった。
皿を見た瞬間、隣にいたミーナと目が合った。
「……まだ何も言ってないよ」
「はい」
結局、あとで確認した。
肉も魚と似たようなもので、家畜は生きたまま運ばれ、屠ったあとは早めに使う。しばらく使わないものは塩をしてから保存するらしい。
「これで終わりだからね」
「何がでございますか?」
「食べ物を一つずつ調べるの」
「左様でございますか」
ミーナはいつもの調子で言った。
絶対、終わると思ってないな。
俺の視線に気づくと、ミーナはぷいっと顔を背けた。




