第九話 この野菜がうちに来るらしいです
いい加減、馬糞ばかり見て帰るわけにもいかない。父上には見てきたものを話せと言われている。
顔を上げると、少し先で一台の荷車に籠がいくつも積み込まれていた。細い枝を編んだ深めの籠で口の部分は太めの枝でしっかりまとめられている。青い葉が縁からはみ出したものもあれば、土のついた根菜が詰められたものもあった。
気になってそのまま見ていると、男たちは籠を積み終えたあと荷台へ縄で固定し始めた。これから運び出すらしい。
「ミーナ、あれってどこへ行くか分かる?」
「どちらの荷車でしょうか」
「あの野菜を積んでるやつ」
ミーナが俺の指した先を見る。少し目を細め、それから何かを探すように視線を移した。
「あれは屋敷の荷車でございますね」
「……うちの?」
「はい」
思わずもう一度見る。
言われてみれば、荷台の横に見覚えのある印があった。父上たちが乗る馬車ほど目立つものではないから気づかなかった。
「じゃあ、あの野菜はうちに来るの?」
「そのようですね」
「ちょっと近くで見ていい?」
ミーナが振り返って護衛たちに確認すると彼らは頷いた。
「それでは参りましょう。ただし、荷車には近づきすぎませんように」
「分かってる」
ミーナと一緒に荷車の方へ向かう。
この辺りは野菜や果物を扱う店が集まっているらしく、通りへ張り出した庇の下には木の台が並び、その上にサイズの違う籠がいくつか置かれていた。
根菜ばかりを積んでいる店もあれば、葉物野菜を束ねて並べているところもある。
店と店の間を籠を担いだ男や布袋を抱えた女が行き交い、少し離れたところでは荷車の車輪が石を踏むたびにごとごとと音を立てていた。
俺たちの屋敷の荷車が止まっている店も通りに面した木の台へ野菜を並べている。
店の男がこちらに気づいた。
最初に俺を見たところで手が止まり、次にミーナ、その後ろの護衛へと視線が移った。最後にもう一度俺へ戻ってきた時には、明らかに目が大きくなっていた。
「……何かお探しでございましょうか」
すぐに取り繕ったが、反応はやはりぎこちない。
まあ、そうなるよな。
顔のほとんどを布で覆い、手袋までした三歳児が侍女と護衛を連れて野菜を見に来たのだ。俺でも二度見る。
「あれはうちに納める野菜ですか?」
荷車を指すと、男もそちらを見る。
「はい。ヴァイスベルクのお屋敷へお納めする分で――」
そこまで言って、男の表情が変わった。俺と荷車を見比べ、そのあと後ろの護衛を見る。
「もしや……アルノ様でございますか?」
「そうです」
「これは失礼いたしました」
慌てるように深く頭を下げられた。
「普通にしてくれていいよ。野菜を見たいだけだから」
「は、はい」
余計に困らせた気もする。
それでも男はすぐ仕事へ戻ったので俺も店先を見ることにした。
近くで見ると、並べ方にもそれなりに決まりがあるらしい。土のついた根菜は大きな籠へまとめられ、葉物野菜は木の台の上に並べられている。男は傷んだ葉を見つけるとその場でちぎり、傷み始めたものは別の籠へ移していた。
荷車のそばには厚手の毛織りの上着を着た男がいた。腰を革の帯で締め、袖口には使い込んだ擦れがある。上着の胸には見覚えのあるヴァイスベルク家の紋章が縫われていた。俺には見覚えのない顔だ。
「あの人、屋敷の人?」
「はい。食料の受け取りに来る者でございます。私もお名前までは存じません」
店の男とのやり取りを見ていると渡されたものをそのまま荷車へ載せているわけではなかった。籠の中を覗き、ときどき手に取って確かめている。
店には小さな秤も置かれていた。別の客が根菜を選ぶと、店の男が皿へ載せ、重さを見てから布袋へ移している。
思っていたより、ずっとちゃんとしている。売る方も買う方も傷んでいないかを見て、ちゃんと商品として扱っている。少しだけ安心した。
その時、隣にいた客が店主へ硬貨を差し出した。
店主は受け取った硬貨を指先で何枚か数え、腰につけた革袋へ入れた。それから何事もなかったように手を伸ばし、葉物野菜の束を持ち上げる。さっき硬貨をつまんでいた指が、葉の間へ入った。
俺の目はそこに釘付けになった。硬貨を触った手で食べ物にそのまま触るのか。それでは誰が何を触ったのか分からないものが、何人もの手を通して渡ってくる。
肉を扱った手かもしれない。馬具を握っていた手かもしれない。厠へ行ったあと、どの程度手を洗ったのかも分からない。
その硬貨を触った指が、今、食べ物に触れている。
さっきまで、ちゃんとしていると思っていた。
傷んだ葉を落として、野菜も分けている。買う側も中身を確認している。そこまでしていて、これは平気なのか。店主が俺の視線に気づいた。
「アルノ様?」
「……何でもない」
何でもなくはない。
けれど、硬貨を触るたびに手を綺麗にしてほしいなんて言っても、たぶん困らせるだけだ。
俺だって前世で、店員が金を触るたびに手を洗えなんて言ったことはない。嫌だから、自分がなるべく触らないようにしていただけだった。
何も言えずに店主の手を見ていると、向こうは別の意味に取ったらしい。
「そうだ。アルノ様、よろしければこちらを」
急に表情を明るくして店の奥へ手を伸ばした。野菜の籠とは少し離れたところに、黄色く湾曲した細長い実が何本もまとまって房になっていた。見覚えがありすぎる。
「……バナナ?」
「ご存じなのですか?」
思わず口に出してしまった。
この世界にもあるんだ。しかも名前まで同じだった。不思議ではあったが、それより今は、久しぶりに見たバナナを普通に食べたかった。
「南から入ったばかりのものでございます。少々値は張りますが、甘くて柔らかいのでお子様には喜ばれております」
店主が房から一本折り取った。
南から来るなら、この辺りでは珍しいのだろう。前世では何度食べたかも分からないものが、今は遠くからわざわざ運ばれてくる果物になっている。
妙な感じがした。けれどそれ以上に、久しぶりに見たせいか普通に食べたかった。
「いつも領主様にはご贔屓にしていただいておりますから、一本どうぞ」
にこやかに差し出される。俺も反射的に手を出しかけた。その途中で、店主の指が目に入った。さっき硬貨を数えていた指だった。今はバナナの皮を掴んでいる。手が止まった。
「どうぞ」
もう少し近くへ差し出される。
バナナには皮がある。だったら大丈夫じゃないか、と一瞬だけ思った。でも、その皮を誰が剥くんだ? 俺だ。今、店主の指が触れているところを俺が持つ。その手で皮を剥いて、その時に中身に触れてしまうかもしれない。
駄目だ。
食べたいのに、それ以上、手が動かなかった。
「……お気に召しませんでしたか?」
「いや、その……」
嫌いじゃない。
むしろ欲しい。
でも、その一本は無理だ。
理由を説明しようとすると、まず硬貨から始めなければならない。その硬貨を誰が触ったか分からなくて、その手で皮を持ったから俺がその皮に触れた手で中身を触るのが嫌で――。
三歳児が店先でする説明ではない。
「お気持ちだけ頂戴いたします」
横からミーナが助け舟を出した。
「さ、左様でございますか」
店主は差し出していたバナナを見たあと、少し考えるように別の房へ目を向けた。
「では、こちらの方がよく熟れておりますが」
「大丈夫です!」
思わず声を上げてしまった。
違う。
替えるところはそこじゃない。
店主の手が止まった。
「……左様でございますか」
さっきまで俺に食べさせようと笑っていた顔から、少しずつ笑みが消えた。姿勢までわずかに固くなる。
「失礼いたしました。お屋敷のお子様には、こうしたものはあまり――」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
どうやら完全に違う方向へ伝わったらしい。
市場で売っているものなんて食べないとか、もっと上等なものを出せとか、そんなことを言いたいわけじゃない。
そのバナナ、普通に食べたい。
ミーナを見ると目が合った。何も言わなかったが、少しだけ遠い目をしている。俺は説明は諦めた。
店主は最初に差し出していたバナナを元の房の横へ戻した。
そこへ戻すのか。
硬貨を触った手で持ったやつを他のバナナのところへ。喉まで出かかった言葉を飲み込む。
もういい。
これ以上見ていたら、たぶん別のものまで気になり始める。
「ミーナ」
「はい」
「あの野菜はうちに来るんだよね」
「はい」
「今、お金を触った手で触ってた」
口に出すと、やっぱり嫌だった。
ミーナも店先を見る。店主はもう別の客から硬貨を受け取り、今度は根菜を袋へ入れている。
「屋敷へ届いたお野菜は台所で洗っておりますよ」
「……洗ってる?」
「はい。土もついておりますから、そのまま使うことはございません」
それを聞いて、少しだけ力が抜けた。
洗う。その工程があるなら、さっきの手からそのまま俺の皿まで来るわけではない。
「何の水で?」
「何の水、と申しますと?」
「井戸水? 一回煮た水?」
ミーナは少し考えてから首を横に振った。
「そこまでは私には分かりません。飲み水を煮ていることは存じておりますが、野菜を洗う時に使う水までは」
「ミーナでも知らないことあるんだ」
「ございますよ」
「何でも知ってると思ってた」
「坊ちゃまのお世話に必要なことでしたら、なるべく把握しております」
「野菜を何の水で洗うかは?」
「今まで坊ちゃまから尋ねられたことがございませんでしたので」
「今日から必要になった」
「では、帰りましたら台所で尋ねましょう」
「うん」
荷車へ最後の籠が載せられた。縄を締めていた男が御者へ声をかけると、馬が歩き出し、車輪が石の上をゆっくり転がっていく。
俺はその後ろに積まれた野菜を目で追った。あれはここから屋敷へ行く。荷車が人の間を抜け、通りの向こうへ消えていった。
「坊ちゃま、そろそろ戻られますか?」
空を見上げると、来た時より日が高くなっていた。
「帰る。台所で確認したいことも増えたし」
「かしこまりました」
来た道を戻る。
さっきまで馬糞ばかり見ていた通りなのに、今度はそこを行き来する荷車が気になった。
木箱を積んだものもあれば、大きな袋をいくつも載せたものもある。何も積まずに市場へ向かう荷車とすれ違い、その後ろからは籠を背負った男が歩いてくる。
父上に何を見たと聞かれても、今日は馬糞以外にも答えられそうだった。
もっとも、荷車を引いているのはだいたい馬なので、結局その尻まで視界に入るのだけれど。
馬車に乗って街を出てからも窓の外を見ていた。街を囲む壁が遠ざかると畑が見え始めた。行きにはほとんど気にしていなかった。
道沿いだけではない。その向こうにも、そのさらに先にも畑がある。低い柵や細い道で区切られた土地に青い葉が並び、何も植わっていないところには黒い土が広がっていた。少し離れた場所には、刈り取ったあとの茎だけが残っている畑もある。
さっき市場に並んでいた野菜が、このうちのどこから来たのかまでは分からない。
「ミーナ、屋敷で買ってる野菜って、この辺の畑のもの?」
「この辺りから運ばれるものもございますよ。すべてがどこから来るのかまでは私にも分かりませんけれど」
窓の外へ目を戻す。少し先の畑では、何人かが鍬のような道具を持っていた。その脇に止めた荷車から、別の男が黒っぽいものを下ろしている。土とは少し違う。藁も混じっているように見えた。
「……あれ何?」
ミーナも窓の外を見る。
「肥やしではないでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、ずっと前に聞いた話が脳裏に蘇った。
厠の下に溜まったものはどうするのか。
あの時に気になって聞いた。聞くんじゃなかったと思ったやつだ。せっかく忘れかけていたのに、向こうから戻ってきた。
「肥やしって……」
「家畜のものや、厩舎から出た藁などを――」
「それ以上はいい」
ミーナがこちらを見る。
「まだ何も詳しく申し上げておりませんが」
「だから、もう十分なんだよ」
「かしこまりました」
畑では何事もないように作業が続いている。街で掃除人が集めていた馬糞も、捨てて終わりではなく、こうしてどこかの畑へ回ってくるのかもしれない。
通りでは踏みたくなくてずっと地面ばかり見ていた。その馬糞が肥やしになって野菜が育つ。そして、その一部が市場を通って屋敷へ来る。
さっき聞いた「洗う」という言葉が、急にずっと大事なものになった。
「……ミーナ」
「はい」
「やっぱり、ちゃんと洗ってるんだよね?」
「洗っておりますよ」
何の水かは、帰ってから聞けばいい。
俺はもう一度、窓の外に続く畑を見た。
屋敷へ戻って台所で聞くと、生で食べる野菜だけは、最近、最後に煮て冷ました水ですすいでいるらしい。飲み水を煮るようにしてから腹を壊す者が減ったので、直接口へ入るものにも井戸水を使わないようにしたそうだ。
ようやく安心できた。
「……ところで坊ちゃま。次に街へ行った時は、あの果物は私がお受け取りいたしますね」
「……分かってたの?」
「坊ちゃまのお顔を見れば」
「顔はほとんど布で隠れてたけど」
「目は出ておりましたので」
ミーナを見る。店先で目が合った時、どうやらちゃんと伝わっていたらしい。
「じゃあ、皮も洗ってね」
「かしこまりました」
次に街へ行ったら今度こそあのバナナを一本持って帰ろう。




