第八話 馬糞を踏んでみて
「ミーナ、街へ行くぞ」
リリアの部屋を出たところでそう言うと、隣を歩いていたミーナが足を止めた。
「街へ、でございますか。いつでしょうか」
「今から」
「今からは難しいかと。旦那様のお許しもいただかなければなりませんし、馬車と護衛の手配もございますので」
「……そうだった。じゃあ父上に聞いてくる」
考えてみれば当然だった。馬車も護衛も、俺が行きたいと言った瞬間に動かせるものではない。
そのまま書斎へ向かい、扉を叩く。
「父上、アルノです」
「入れ」
中では父上が机の上で書類仕事をしていた。俺が入ると顔を上げ、少し遅れて入ってきたミーナにも一度目を向ける。
「どうした」
「街へ行きたいです」
父上の眉がわずかに動いた。
「何をしに行く?」
「それは……」
馬糞を見に行きたい。
リリアがあの通りを歩くようになる前にどうにかできるものなのか。できないとしても、何がどうなっているのかを見なければ何も始まらない。
言いかけたが、口を閉ざした。領主である父上に馬車と護衛を用意してもらうのだ。こんな理由では通らないだろう。
少し頭を冷やして考える。
前に父上と街を歩いた時、何が駄目だったのか。
足元を見れば説明が聞けず、話を聞こうとすれば今度はどこを踏んでいいのか分からなくなった。結局、父上に教えてもらったことも途中からほとんど頭に残っていない。
そこまで考えたところで俺は言った。
「この前、父上と歩いたところをもう一度見たいんです」
「また同じところをか?」
「――はい。今度は、自分のペースで見てみたいんです。止まりたくなったら止まって、気になったところを見て。それなら、この前教えてもらったことも少しはちゃんと見られると思います」
我ながらずいぶん真面目なことを言っている。
もちろん嘘ではない。父上が教えてくれたことを何も覚えられないままなのは困る。
ただ、今の俺の頭の中はほとんど馬糞だった。
「前に話したことは覚えているか」
「途中までは」
「どこまでだ?」
「市場に入った荷が、そのまま一つずつ売られるとは限らなくて、まとめて買う商人もいるところまでは。そのあとから……」
馬糞しか覚えていない。
さすがにそうは言わずに口を閉じると、父上は小さく息を吐いた。
「市場まで見るつもりか」
「そこまでは決めてません。前に歩いた通りを見て、余裕があれば」
父上はこめかみを指でとんとんと叩き、少し考えてから俺を見る。
「分かった。教えられながらでは見られんというなら、一度好きに見てこい」
「行っていいんですか?」
「ああ。ただし、見てきたものはあとで話せ」
「……分かりました」
「今日はもう馬車を回せん。明日の朝なら出せる。ミーナと護衛を二人連れていけ」
「ありがとうございます」
「昼までには戻れ」
「はい」
許可が出た。
書斎を出ると、ミーナが隣に並んだ。
「ずいぶんお急ぎなのですね」
「リリアは待ってくれないから」
「リリア様が――ですか?」
「そのうち歩くでしょ」
ミーナは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
ただ、少しだけ、また遠い目をしていた。
翌朝、玄関を出た瞬間、空気が少し冷たく感じた。
寒いというほどではない。日向へ出ればまだ暖かい。それでも、少し前まで外へ出た時にまとわりついていた暑さがましに思えた。
庭の木を見ると、濃い緑の中に端の方だけ色を変え始めた葉も混じっていた。
そういえば、この世界の季節についてはまだちゃんと教わっていない。
暑い時期があって、今は少しずつ涼しくなっている。それなら日本みたいに春夏秋冬があるのだろうか。それとも、季節の数も巡り方も違うのか。今度フェルナー先生に聞いてみよう。
前と同じように手袋をつけ、顔も布で覆っているが、外へ出た途端に汗ばむことはなくなっていた。そのことにも少しだけ季節の変化を感じる。
馬車と護衛はすでに待っている。ミーナに手を借りて乗り込み、前に父上たちと歩いた通りへ向かってもらう。
今日は何かを聞きながら歩かなくていい。
止まりたければ止まっていいし、同じところを何度見てもいい。それだけで、街へ向かっているのに前よりは気が楽だった。
やがて建物が増え、人の声が窓越しに聞こえてくるようになる。馬車が速度を落とし、見覚えのある場所で止まった。
扉が開く。
俺は踏み台からすぐには降りず、まず地面を見る。
前に父上と来た時は、箒を持った男が父上へ近づいてきて、ここまででいいかと聞いていた。今日はその男の姿はない。それでも馬車のすぐ横は周囲より土が均され、目立つごみも馬糞も落ちていなかった。今回も掃いてくれたのかもしれない。
右足を下ろし、左足も地面につける。何も踏んでいない。それを確かめてから顔を上げた。
通りはすでに人が多かった。店先へ荷を運ぶ者がいて、その横を籠を抱えた女が通り過ぎる。荷車も何台か見える。道の端では男が箒で藁や木屑を集めていた。
俺はミーナと一緒に歩き始めた。
少し先に茶色いものがあれば止まり、泥だと分かってから進む。轍の中に黒っぽい塊があれば近づく前に目を凝らす。前を歩く人の靴が汚れていれば、その人がどこを踏んでいくのかまで気になった。
面倒なのは何も変わっていない。
それでも今日は、自分が納得するまで見てから次の一歩を出せる。
「坊ちゃま、前も少しご覧くださいませ」
「ミーナがいるから大丈夫」
「私がおりますので、余計に安心して下ばかりご覧になっておりませんか?」
「……否定はできない」
「前から人が来た時くらいは顔を上げてくださいませ」
「分かった」
そう答えて顔を上げた時、少し先を進んでいた荷車が目に入った。一頭の馬が引いている。特に珍しいものではない。前にも何台も見た。
ただ、今日は足元だけでなく馬も見るつもりでいたから、そのまま何となく目で追った。
馬の尾が持ち上がった。
ぼとり、と落ちる。
続けてもうひとつ。
馬は止まらない。御者も振り返らない。荷車は何事もなかったようにそのまま進んでいった。
俺は道に残されたものを見る。
「……今、したよね?」
「ええ」
ミーナには珍しくもないらしい。
少し離れたところから今度は男を乗せた馬がやってくる。
つい尻を見る。
何も起きなかった。
少しだけ安心したところで横の道から荷馬が一頭出てきた。尾が上がると、その尻からぽとっと落ちた。
「また?」
道の端では、掃除をしていた男が古い馬糞を平たい板ですくっている。
しかしその少し先では、今落ちたばかりのものが道の真ん中に残っていた。
拾っている。けれど片付いた端から増える。馬が来ると、尾を持ち上げて、尻から落ちる。
落とさない馬もいるかと思ったら、その後ろの荷馬が落とす。そこら中で、馬糞がぽこぽこ生まれているように見えてきた。
「……これ、無理では?」
「何がでございますか?」
「掃いても増えるじゃん」
ミーナが道の端で掃除をしている男を見る。
「馬が通りますので」
「そこなんだよ」
掃除をしていないわけではない。
落ちたものを拾う人もいる。店の前を掃いている人だっている。
それでも馬が通る。
馬が通れば、新しいものが落ちる。
一時間前に綺麗だった場所が、一時間後まで綺麗とは限らない。俺が降りる場所を先に掃いてもらったところで次の馬が通れば同じだ。
だったら馬を通さなければいい。
そう考えて、目の前を通り過ぎていく荷車を見た。
無理だ。
荷物を運んでいる。人も乗る。さっきから少し立って見ているだけでも何頭もの馬が通りを行き来している。馬をなくしたら今度は荷物が止まって店に商品が入ってこない。
俺は道の真ん中に残った新しい馬糞に目を向けた。
ここをいつかリリアが歩く。
昨日見た小さな足が思い浮かんだ。まだ立とうとしただけの足がそのうち靴を履いてこの道へ降りる。そして、踏む。俺が踏んだ時みたいにその場で動けなくなるかもしれない。何が起きたのかもよく分からないまま足元を見て、それから俺を見る。
にぃ。
そう呼んで手を伸ばしてくる。
そんなことになれば俺はたぶん離れる。馬糞を踏んだ靴のまま近づかれたら、リリアでも無理だと思った。
……でも、本当にそうなんだろうか。
俺は隣を見る。
ミーナが立っていた。
十二歳。前世の感覚なら、まだ子どもだ。それなのに俺が前世を思い出してからずっと俺の無茶に付き合ってくれている。
手を洗いたいと言えば水を用意してくれた。壺を運ぶ服が嫌だと言えば前掛けを分けてくれた。街へ行く時には、俺が言う前から替えの布や手袋まで用意していた。
面倒な三歳児だと思っていることはたぶんある。実際、呆れた顔も何度も見た。それでも嫌になったからと投げ出されたことは一度もない。
生活のことだけなら、この世界で一番俺のことを知っているのはミーナかもしれない。そんなミーナが馬糞を踏んだら、俺はどうするんだろう。
リリアとは違うのか。
家族ではないミーナなら、もっと駄目なのか。
それとも、これだけ俺のことを分かってくれている相手なら平気なのか。
少し先にさっき落ちたばかりの馬糞がある。
考えているうちに口が先に動いていた。
「ミーナ」
「はい」
「あそこの馬糞を踏んでみて」
ミーナの目が皿のように大きくなった。俺を見て、馬糞を見る。そして、もう一度俺を見る。
「……踏むのでございますか?」
「うん」
言ったあとで、自分でもかなりおかしなことを頼んでいると思った。
それでも確かめたかった。
ミーナならどうなのか。
馬糞を踏んだというだけで俺はこの子にも近づけなくなるのか。
ミーナはしばらく俺を見ていた。何か聞き返されると思ったが、やがて何も言わずに馬糞の方へ歩いていく。
一歩手前で止まり、裾が触れないように片手でスカートを持ち上げ、右足を上げた。その靴先を馬糞の上へ運ぶ。あとはそのまま足を下ろすだけだった。
そこまで見て、急に現実味が増した。前世の倫理観、もとい、コンプライアンスの波が頭に押し寄せてきた。
俺が頼んだからミーナは本当に踏もうとしている。俺よりずっと年上でもミーナは俺の使用人だ。俺に言われたから、こんな馬鹿な頼みにまで従おうとしている。頼んだ時にはそこまで考えていなかった。
「待って! 踏まなくていい! やらなくていいから!」
ミーナは足を地面に下ろし、スカートの裾も直した。
「……よろしいのですか?」
「うん。ごめん。もう分かった」
ミーナがこちらへ戻ってくる。
やるまでもなかった。
「……何かが分かったのですね」
「……ああ」
踏もうとした瞬間、俺は改めて思い知らされた。ミーナだからとかリリアだからとか、そんなことは関係ない。
誰が踏んでも同じだ。
俺が嫌なのは、その人じゃない。
馬糞だ。
最初から分かっていたことじゃないか。
俺はもう一度通りを見る。
さっきの荷車はとっくにいなくなり、別の馬がこちらへ向かってくる。その向こうでは掃除をしていた男がまた箒で掃いている。何も解決していない。
「……もう少し見てから帰るよ」
「かしこまりました」
ミーナは馬糞を踏めと言われたことについて、それ以上何も言わなかった。
俺も二度と頼むつもりはない。
そうしてまた通りを見始めたところで、目の前を一頭の馬が通っていった。尾が持ち上がる。 ぼとり。俺とミーナは同時にそちらを見た。
「踏みませんよ」
「頼んでない」
俺は何も言わず、その馬糞を大きく避けて歩いた。




