第七話 そのうち歩き始める
「アルノ様。聞いておられましたか」
名前を呼ばれて顔を上げると、フェルナー先生がこちらを見ていた。机の上では本が開かれ、俺の前には書きかけの蝋板がある。さっきまで尖筆を握って書いていたはずなのに、何を聞かれているのか分からなかった。
「……途中までは」
「どこまででしょう」
答えようとして蝋板を見る。書いてある文字を追っても、その先が出てこない。たしか街歩きで見たものをまとめていたところだ。
けれど、頭に浮かぶのは父上から教わったことではなく通りの方だった。
道の端にあった濃い茶色。馬糞かと思って足を止めたが、近くで見れば乾いた泥だった。その少し先には黒っぽい木の皮が落ちていて、人がその近くを通れば今度は靴の方が気になった。誰かが何かを踏めば、その靴が次にどこへ向かうのかまで目で追ってしまう。
「……すみません。分かりません」
フェルナー先生は何も言わず、俺の蝋板を見た。途中まで書いた内容を拾いながら、もう一度説明してくれる。
今度こそ聞こうと先生を見る。
それなのに、しばらくするとまた通りが頭に浮かんだ。
街では足元を見れば父上の話を聞き逃し、顔を上げれば今度はどこへ足を置けばいいのかが気になる。次に街へ行った時も同じなら、また何も覚えられない。
そう考えているうちに先生の説明もまた頭に入らなくなった。
「――先生」
「なんでしょう」
「今日はもう何も頭に入る気がしません。もういいでしょうか?」
フェルナー先生が少し目を見開いた。自分から勉強をやめたいと言ったのは、たぶん初めてだった。
「……分かりました。続きは明日にしましょう」
「すみません」
尖筆を置いて椅子から降りる。
レオルとユリウスも意外そうにこちらを見ていたが、今は二人に声をかける気にはなれなかった。
部屋を出ると、廊下で待っていたミーナがすぐにこちらへ目を向ける。
「ずいぶんお早いですね」
「俺から終わりにしてもらった」
ミーナの動きが止まる。
「そんなに珍しい?」
「坊ちゃまがご自分から勉強をおやめになるところは初めて見ましたので」
歩き出すと、ミーナもいつものように少し後ろからついてくる。
「次に街へ行っても同じだったらどうしようとそればっかり考えてしまう」
「足元が気になっておられたからですか」
「うん。見てたら父上の話を聞けない。でも、見ないのは無理だ」
「でしたら、次は私が先を歩きましょうか。避けた方がよいところがあれば、その都度お知らせいたします」
ミーナは少し考えてから、俺より半歩ほど前へ出た。
想像してみる。
父上の話を聞く俺の前をミーナが歩いて、右、左、そこは避けてください、と一歩ずつ教えてくれる。
「……三歳児の散歩みたいだね。危ないところへ行かないように誘導してる」
「坊ちゃまはまだ三歳児でございますので」
ミーナの口元が少し緩んだ。
俺も笑いかけたが、それでは足りない。
「人の靴まで気になるんだよ。誰かが泥とか糞を踏んでいたら、その人が次にどこを踏むのかまで見ちゃって。ひとりふたりじゃなくて、通りには何人もいるからとても無理だ」
「私一人では足りませんね。それなら、もう一人お連れしましょうか」
「それで全部見られそう?」
「それならば、さらに二人ほど」
「俺一人に何人つける気なの?」
俺の周りを大人が囲み、全員で地面だけ見ながら歩く姿が浮かんだ。領地の勉強どころではない。
「……駄目だね」
「そう簡単にはいきませんね」
「だから困ってるんだよ」
少し歩いてから、ミーナは前を向いたまま言った。
「最初に街へ行かれた時も、坊ちゃまは馬車から降りられませんでしたね」
「うん」
「それでも次には降りられました」
「……でも、今回は本当に何も思いつかないよ」
「昨日の今日でございますから」
「……そうだよね。今日はもう考えないことにする。でも明日はきちんと考えるよ」
「それがよろしいかと。明日の坊ちゃまにお願いいたしましょう」
「これ、ただの先延ばしじゃない?」
「勉強まで切り上げられたあとですので、今さらかと」
「それは言わないでよ」
俺は自嘲気味に笑うしかなかった。
何も解決していない。それでも、同じことを考え続けるのには少し疲れた。このまま自分の部屋へ戻れば、また昨日の続きを考えてしまいそうだった。
だからか、気づけば足は母上の部屋へ続く廊下を進んでいた。
今は、俺が何を悩んでいても関係なく笑ってくれる相手に会いたかった。
部屋の前まで来ると、いつものように手を洗った。石鹸を泡立て、指の間まで擦ってから水をかけてもらう。手拭き用の布で水気を取り、ミーナが扉を開けた。
「あぅ……あー」
中から聞こえた声に顔を向ける。
それだけで少し気が抜けた。
母上は窓の近くに座っていた。その前には、いつものようにリリアのための布が広げられている。
リリアもそこにいた。
いつものようにごろごろ転がっているのかと思ったが、少し違う。
顔の位置が高い。一瞬、何をしているのか分からなかった。リリアは座っていた。
両脚を前へ出し、片手を布についたまま身体を起こしていた。もう片方の手には木の輪を握っている。背中はまだ丸く、少し傾くだけで頭まで一緒にぐらぐらする。それでも倒れそうになると手をつき直し、また身体を起こした。
「……母上、リリアが座ってる」
「ええ。さっきから何度かできているのよ」
母上の返事が普通すぎた。少し前まで寝返りをするだけでも大きな変化だったのに、もう自分で座っている。
俺はすぐに布の端まで行ってしゃがんだ。さっきまで頭から離れなかった街のことは、もうどこかへ消えていた。
「リリア」
木の輪を見ていた顔が上がる。
目が合うと、口が少し開いた。
「にー……」
そのまま、もう一度リリアが声を上げる。
「にぃ」
俺は一瞬、呆けた。
今、たしかにそう聞こえた。
にーに、と。
振り返って母上を見ると笑われた。
「ただの偶然よ。でも嬉しいわね」
「まだ何も言ってません」
「顔を見れば分かるわ」
まだ七か月ほどだ。意味のある言葉を話したわけではない。ただ、俺を見ながら兄を呼んでいるような声を出しただけだ。
「リリア」
「にー」
俺が呼ぶと、また言った。
母上を見る。
「何度聞いても偶然よ」
「――分かってますよ」
それでも嬉しいものは嬉しかった。
俺が笑うと、リリアも口を大きく開けて笑った。握っていた木の輪を布の上へ落とし、今度は両手をつく。そのまま身体が前へ傾き、腹が布へぺたりとついた。
「あれ?」
座るのに飽きただけかと思った。
けれどリリアはすぐに頭を上げ、俺の方へ手を伸ばす。腕で身体を引き寄せ、膝も一緒に動かそうとしている。ほとんど進んでいないのに、本人は諦める気がないらしい。
俺も少しだけ近づいた。
すると小さな手が俺の服を掴んだ。
「どうした?」
顔を覗き込むと、リリアは答える代わりに俺の服を引っ張った。
思ったより力がある。
両手でしっかり掴んだまま身体を寄せ、膝を立てようとしている。何をするつもりなのかと見ていると、尻が持ち上がった。
「――え?」
母上も気づき、目を見開いた。
リリアは俺の服を握りしめたまま片膝を立て、そこからさらに身体を持ち上げようとする。俺の服が強く引っ張られた。
片方の足裏が布についた。
もう片方も続く。曲がっていた膝が少しずつ伸び、ぐらぐらと揺れながら身体が持ち上がった。
「……立った」
ほんの少しだった。
脚は大きく開き、膝もまだ曲がっている。俺の服にほとんどぶら下がっているようなものなのに、それでも足で身体を支えている。
さっき座っているのを見たばかりなのに、もうその先へ行こうとしている。
リリアは何がそんなにすごいのか分かっていないらしい。高くなった視界が面白いのか、身体をぐらぐらさせながら辺りを見回した。やがて俺を見上げる。
「にぃ」
「ここにいるよ」
そう返すと、リリアが口を開けて笑った。
その拍子に身体が大きくぐらついた。俺の服を掴んでいた片手が離れ、もう一度掴もうと宙を探る。
けれど届かない。
ぐらりと身体が傾いた。
考えるより先に俺は両腕を伸ばしていた。
倒れてきたリリアを胸の前で受け止める。小さな身体が腕の中へすっぽり収まり、リリアは少し驚いたように目を丸くした。
「危ないだろ」
「あぅ」
怒られたとも思っていないらしい。
すぐに俺の服を握り直し、何事もなかったように笑った。
「アルノがいてよかったわね」
母上も笑っている。
俺はリリアを抱え直した。
倒れると思った時には、もう手が出ていた。
リリアは俺の腕の中でもじもじと動いている。さっきまで立っていたことも、倒れかけたことも、本人には大したことではないらしい。
動いた拍子に、小さな足が俺の腕へ触れた。
裸足だった。まだ丸みのある足裏に、敷いてある布の細かな毛が少しついている。
さっきまで、その足で立っていた。
もう座れる。
立とうともした。
このままなら、そのうち歩く。
「――母上」
「なに?」
「リリアも、そのうち街へ行きますよね」
「もちろんよ。ずっと屋敷の中にいるわけではないもの」
母上にとっては、考えるまでもないことなのだろう。
腕の中でリリアが足を動かす。そのうち、この足で街を歩くようになる。俺が歩いたあの通りも。
俺はリリアの小さな足を見つめた。嫌な予感がした。そこで、もし馬糞を踏んだらリリアはどうするのだろう。
まだ小さいリリアには、自分で靴を脱いでどうにかするなんてできないだろう。その時、俺がそばにいたらきっと俺を見る。今みたいに手を伸ばしてくる。
「にぃ」
そんなふうに呼ばれたら助けてやりたい。
靴を脱がせて、抱き上げてやりたい。でも、馬糞のついた靴で近づいてきたリリアに俺は手を伸ばせるだろうか。
自分で踏んだ時ですら俺は動けなかった。靴を脱いでも地面へ降りられず、父上に背負ってもらった。
たとえリリアでも、馬糞のついた靴でこちらへ手を伸ばされたら俺はきっと逃げる。助けてほしくてリリアが俺を頼っているのに潔癖ゆえに、俺はリリアを拒絶する。
腕の中のリリアが俺の胸元を小さな指でつまんだ。何度か握ったり離したりしていたかと思うと、ふいに顔を上げる。
目が合った。
リリアは口を大きく開けて嬉しそうに笑った。俺のせいでこの笑顔に影がさしてしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。
リリアはもう座った。立とうともした。そのうち歩く。
なら、それまでに。
俺はなんとしてもあの通りをなんとかしなければならない。




