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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら領地の「普通」がいつの間にか変わり始めました~  作者: 織 航(しき わたる)
第二部 街の通り

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幕間 掃いたところで通りは汚れる

 その日の朝、男はいつもと少し違うことを言いつけられた。

 領主様の馬車が来るから念入りに掃いておけ。

 街の掃除なら毎日している。男には、この通りから市場へ続く辺りまでが普段の持ち場だった。店先から出た藁や木屑を集め、泥が固まっていれば崩して道の端へ寄せる。馬糞が落ちていれば平たい板ですくって桶へ入れる。人も馬も荷車も通る場所なのだから何もしなければすぐにごみが溜まって身動きできなくなる。

 それ自体はいつもの仕事だった。妙なのは、場所を指定されたことだった。

 領主様の馬車が止まる場所。馬車から人が降りる辺りを綺麗にしておくようにと言われた。男は箒で掃きながら何度か首を傾げた。今日は普段と違って誰かが一緒に来るのだろうか。

 領主様が長男のレオル様と一緒の時にはこんなことはしなかった。次男のユリウス様が加わった時も特別に掃いた覚えはなかった。 

 大きな藁を拾い、普段、馬車から降りている辺りの泥を掃く。ちょうど近くを馬が通ったので、何も落とさなかったのをしっかりと確認する。とはいえ、やりすぎても道は道だ。今綺麗にしたところで馬が一頭通ればまた汚れる。それでも言われた通り、いつもより少し丁寧に掃いておいた。

 そうしているうちに見慣れた紋章の馬車が通りへ入ってきた。

 男は箒を持ったまま道の端へ寄った。

 先に降りてきたのは領主様だった。そのあとにレオル様。続いてユリウス様。ここまではいつもと変わらない。なら、何のためにわざわざ掃かせたのだろうと思ったところで馬車の中にもう一人いることに気づいた。

 小さい。

 踏み台の前まで出てきても最初は誰なのか分からなかった。

 頭には布が巻かれ、鼻も口も隠れている。見えているのは目の周りくらいで手には革の手袋までしていた。わざわざ全身を隠しているようにしか見えなかった。男は箒を持ったまま、その子を見た。レオル様とユリウス様、二人よりずっと小さい。年頃からすれば三男だろう。存在は知っていたが街で見たことはなかった。降りる場所まで綺麗にしろと言われたのは、この子のためなのかもしれない。

 ただ、そこまで考えても理由までは分からなかった。

 どうしてわざわざ顔を隠してまで人の多い街に連れてくるのか。そのうえ降りる場所まで気にするのだろう。

 三男は踏み台へ片足を載せたが、そこで止まった。地面を見ている。男もつられて、自分が掃いた場所を見た。目立つごみはない。泥は少し残っているが、それまで取れと言われたら道そのものをどうにかしなければならないと思う。

 三男はしばらく地面を見たあと、ようやく右足を下ろした。続いて左足もつく。ただ馬車から降りるだけなのにずいぶん慎重だった。しかも、領主様は何も言わずに待っていた。

 レオル様やユリウス様が、こうして道の真ん中で立ち止まれば領主様はもっと早く先へ進むよう促していた気がする。

 男が知るガルム・ヴァイスベルクは、子どもの歩幅に合わせていつまでも待つような男ではなかった。

 この辺境には獰猛な魔物が出る。それを相手に領地を守ってきた領主様だ。戦うところを間近で見たことはなくても、どんな男なのかくらいは街の人間なら知っている。勇猛で、剛毅で、必要な時には迷わない。少なくとも、息子が地面へ足を下ろすのを黙って待っている姿とはあまり結びつかなかった。


「あの……領主様」


 考えているうちに、このまま見ている方が失礼な気がして男は声をかけた。領主様がこちらを見る。


「何だ?」


「この辺り……これくらいでよろしいでしょうか」


 男が箒の先を向けると領主様は足元を見た。それから、三男の方へ一度だけ目をやる。


「ああ。十分だ」


「ありがとうございます」


 頭を下げてから、男はもう一度三男を見た。三男もこちらを見ていた。正確には、男の顔より箒と自分の足元を見ているようだった。何を考えているのかは布に隠れてほとんど分からない。やはり妙な子だった。


 それからまた領主様の馬車が街へ来た。

 そのときも男は、馬車が来る前に周りを掃いた。

 最初ほど不思議には思わなくなったが、三男を見ると小さな疑問が増えた。

 顔は相変わらず隠したままだった。それなのに馬車から降りれば領主様や兄たちについて普通に街を歩いていく。正体を知られたくないのならあれだけ人のいるところを歩かせるのも変な話だった。

 しかも、領主様は三男が遅れても置いていかない。

 何度も足元を見て立ち止まれば待つ。時には後ろからついてきているのを確認する。レオル様やユリウス様の時とはやはり少し違った。何が違うのかまでは分からない。ただ、ずいぶん気を遣われている子なのだとは思うようになった。


 その日、男は市場に続く通りの掃除をしていた。

 朝から荷が多く、人の出入りも絶えない。野菜の葉が落ち、袋からこぼれた藁が踏まれ、荷車の車輪が泥を運んでくる。馬も何頭も通った。平たい板で馬糞をすくって桶へ入れ、次を探して歩いていた時、少し先から甲高い声が聞こえた。


「『ああ』じゃない!」


 何事かと思って顔を上げる。

 聞き覚えがあった。

 ヴァイスベルク家の三男だった。

 市場の中で領主様と二人の兄、それに護衛たちが立ち止まっている。その真ん中で三男だけが妙な姿勢のまま動かない。何をしているのかと思って三男の足元を見て、男は納得した。馬糞だった。右足で、ちょうど真ん中を踏んでいる。


「……ああ」


 今度は男の口から同じ言葉が出た。

 街を歩いていればそういうこともある。

 レオル様も昔踏んだ。まだ今よりずっと小さかった頃、思いきり顔をしかめて嫌だと言っていたのを覚えている。ユリウス様も同じだった。こちらはしばらく泣いて、その場から動こうとしなかった。

 それでも最後は、近くで掃除をしている者が呼ばれた。靴についたものを平たい板で落とし、残った汚れを拭えばそれで終わりだ。二人とも嫌そうな顔はしていたが、その靴でまた歩いた。領主様がそうさせた。だから今回も同じだと思った。

 三男は兄たちより小さい。多少大騒ぎはするだろうが、靴を綺麗にすればまた歩かされるのだろう。そう思って見ていたが、なかなか動かない。

 領主様が何か言っている。三男は片足を地面につけたまま、かなり必死な様子で言い返している。やがて護衛の一人が近くの商人から布を受け取って戻ってきた。

 男は手にしていた平たい板を見た。

 呼ばれると思っていた。

 だが、呼ばれない。

 領主様は三男を自分につかまらせると、護衛に汚れた靴を脱がさせた。

 裸足になった三男は地面へ降りようとしない。

 領主様が何かを尋ねた。

 三男は少し黙ってから、領主様を見上げた。


「……おんぶして」


 男は、聞き間違えたのかと思った。

 すぐそばにいたユリウス様が顔を背ける。肩が震えている。

 領主様は何も言わなかった。そのまま三男を見下ろしている。さすがにそれは無理だろうと男は思った。レオル様もユリウス様も、領主様にそんなことを頼んでいるところを見たことがない。幼い頃だってそうだ。転んで泣こうが、歩きたくないとぐずろうが、領主様は毅然とした態度を崩さずに、二人を自分の足で歩かせていた。

 そもそも、あの領主様に向かって歩きたくないから背負ってほしいなどと言える方がおかしい。

 領主様が小さく息を吐いた。そして、三男の前で背を向けた。男は目を見開いた。

 領主様がしゃがんでいる。

 それだけのことなのに、一瞬何をしているのか分からなかった。三男がその背中へ腕を回す。領主様は何事もなかったように立ち上がった。

 男はしばらく動けなかった。そこまでするのか。レオル様やユリウス様の時とはまるで違う。領主様はこの辺境で魔物から領地を守ってきた男だった。誰かに背を向けてしゃがみ、息子を背負って市場を歩く姿など見たことがない。

 ユリウス様はまだ笑いを堪えていたが、レオル様は領主様の背中とその上にいる三男を見ていた。

 これまで気になっていたことが、そこで一つにつながった。

 わざわざ馬車を降りる場所まで掃かせ、素顔を晒さないように布を巻きつけてすっかり隠す。

 馬車から降りるまで急かさず、兄たちなら汚れを落として終わりだった靴を三男だけはその場で脱がせ、わざわざ背負う。

 ヴァイスベルク家の三男は、ずいぶん大事にされているらしい。それも、男が思っていたよりずっと。

 領主様たちはそのまま市場の向こうへ歩いていった。三男は父親の背中から下りる様子もない。護衛が布に包んだ靴を持ってその後ろをついていく。男はしばらくその一行を見送ってから、手元の平たい板へ視線を落とした。

 まだ仕事の途中だった。近くを馬が一頭通り過ぎていく。その後ろを確認してからまた歩き出した。

 次に領主様の馬車が来ると聞いた朝、男はいつもの場所へ向かった。踏み台が置かれる辺りの藁を掃き、泥の塊を端へ寄せる。そこまで終えてから、男は箒を止めた。

 布にくるまれて素顔を隠している三男を思い出す。

 レオル様もユリウス様も、幼い頃からあんなふうに顔を隠して街へ来たことはない。馬糞を踏んで嫌がったことはあっても、靴を綺麗にしたあとは自分の足で歩かされていた。

 それなのに三男だけは素顔をほとんど見せず、降りる場所まであらかじめ掃かせ、最後には領主様自身が背負っていった。

 何をそこまで隠しているのかは分からない。ただ、跡を継ぐレオル様でさえ、あそこまで大事にされているところを男は見たことがなかった。

 男は少し先の道を見る。

 昨日までなら、もう十分だと思っていた場所だった。

 掃いたところでいつまで綺麗なままかは分からない。馬も通るし、荷車も通る。昼まで保たない方が多い。それでも男は箒を持ち直し、三男が馬車を降りたあとに歩きそうなところまで掃いておいた。

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