第六話 三歳にして詰みました
屋敷へ戻ってからも右足の裏にはあの感触が残っていた。
実際にはもう何もついていない。靴越しに踏んだだけだし、あの場で靴も脱いだ。それでも歩いているとふとした拍子に柔らかく沈んだ感触を思い出す。
翌日、ミーナと外へ出た時だった。庭を散歩していると少し先の地面に濃い茶色の塊が見えた。
「坊ちゃま?」
「あれは……何?」
ミーナが俺の視線を追う。
「土でございますね」
「土?」
「はい。少し掘り返されているだけかと」
近づいて見れば確かに土だった。
昨日まではそんなものを気にも留めなかった。しばらく歩くと、今度は道の端に黒っぽいものが落ちている。また足が止まる。
「……あれは?」
「木の皮でございます」
「本当に?」
ミーナが近くまで行って確認する。
「木の皮でございます」
そこまでされると、さすがに自分でも何をしているんだろうと思った。でも、昨日だって最初から馬糞を踏もうと思って踏んだわけじゃない。
荷車を見て、父上の話を聞いて、ほんの少し足元から意識が離れた瞬間に踏んだのだ。だからちゃんと見なければならない。そうでないとまた踏んでしまう。
「坊ちゃま」
「何?」
「今朝はずいぶん足元をご覧になりますね」
「見てなかったから踏んだんだよ」
「昨日のことでございますか」
「うん。あれは見てたら絶対踏まなかった」
ミーナは少し黙った。
「ということは、これからは足元を見ながら歩かれるのですか?」
「そうする」
「ずっとでございますか?」
「……馬糞がありそうなところでは」
答えながら足元を見る。
今いる場所には何もない。
少し先にも、それらしいものはなかった。
「……左様でございますか」
「見てないと避けられないから」
ミーナは何も言わなかった。
俺もそれ以上は気にせず歩き出した。
それから何日か、外を歩くたびに茶色いものが目につくようになった。
泥だったり、枯れ葉だったり、誰かの靴で掘り返された土だったりした。そのたびに確認して、違うと分かれば先へ進む。
面倒ではあったけれど踏むよりずっといい。
次に街へ行くことが決まった時も今度はちゃんと足元を見て歩こうと思っていた。
見ていれば、もう同じことにはならないはずだった。
次に街へ行ったときも馬車からはすぐに降りられた。
前回と同じ場所では、今日も箒をかけた跡が残っていた。周りには乾いた泥や藁が残っているのに、馬車の踏み台の下だけは土が均され、目立つごみも落ちていない。たぶん今回も掃いてくれたのだと思う。
前回の市場での勉強は馬糞を踏むまでは面白かった。
人で埋まった広場も、声を張り上げる商人も、次々に運び込まれる荷も、前世では本や映像の中でしか見たことがない。父上に言われて荷車や袋を見るようになるとただ賑やかに見えていた市場にも人や物の流れがあることが分かってきてもっと見てみたいと思った。
ただ、それ以上にはっきりと、靴の裏へ馬糞が沈んだ感触も残っていた。
父上たちの後を追って通りへ出る。道は踏み固められた土が多く、ところどころに石が混じっている。荷車の轍には乾いた泥が固まっており、人や馬が通るたびに表面の土が崩れていく。
少し先に茶色い塊が見えたので自然と足が止まる。乾いた泥だった。ほっとして歩き出した直後、今度は道の端に黒っぽいものが見えた。そちらも気になってよく見ると土に半分埋もれた藁だった。
「前回は途中で終わったからな。今日はその続きだ」
父上が歩きながら話し始めた。
「はい」
「前に、ここで買った荷を別の場所へ運ぶ商人もいると話したな」
「覚えてます」
「はい」
「なら、その荷が市場からそのまま次の街へ出ていくとは限らんことも覚えておけ。いったん倉庫へ集めて量を揃えることもあれば、行き先ごとに分けて別の荷車へ積み替えることもある」
父上の話を聞きながら市場の端に並ぶ荷車へ目を向ける。前回はただ荷を運ぶものにしか見えなかったが、今の話を聞いた後では、それぞれがどこかから来て、また別の場所へ向かう途中にあるように見えた。
そのうちの一台を目で追っていた時、轍の脇に濃い茶色が見えた。
乾いた泥か。それとも――。
父上の話はまだ続いていたが、目だけでなく意識まで勝手にそちらへ向いた。地面が丸く盛り上がっている。馬糞ではないと分かるまではその近くへ足を出したくない。その場で目を凝らすと、誰かの靴で掘り返された土だった。
「アルノ」
「……はい」
「今言った荷をいったん倉庫へ集めるのはなぜだ?」
「……何を倉庫へ入れるんですか?」
「今、説明しただろう」
「すみません。途中から、あそこが気になって……」
指で場所を示すと、父上も一度だけそちらを見た。
「ただの土だ。そんなものに気を取られるな。話を聞け。今日は何をしに来ている」
「領地の勉強です」
「そうだ。足元ばかり見ていては何も覚えられんぞ」
「……はい」
俺だって聞くつもりで来ている。前回の続きは見たいし、せっかく来た以上、今日見たことはちゃんと覚えて帰りたい。ここでまた何も覚えられなければいつまで経っても終わらない。
今度こそ父上の話だけを聞こうと顔を上げた。
説明を最初から聞き直す。
前回見た東の村の麦も、市場へ運ばれてそこで終わりではない。商人がまとめて買えば、いったん倉庫へ集め、ある程度の量になってから運び出すこともある。反対に、一度集めた荷を行き先ごとに分け、別々の荷車へ積み替えることもあるらしい。
一つの村から来た物がそのまま一つの場所へ向かうわけではない。いくつもの村から荷が集まり、ここで持ち主が変わり、まとめられたり分けられたりしながらまた別の場所へ運ばれていく。
地図ではただ「市場」と書かれていた場所が、目の前の荷車と父上の話を重ねると少し違って見えた。
聞いていれば、ちゃんと面白い。
そのまま何歩か歩いた。
父上の話を聞いている間は地面を見ないようにした。けれどどこからかまた馬の獣じみた匂いがした。それに気づいた途端、足元が急に気になった。
今までどこを踏んできた?
何か変な感触はなかったか。
大丈夫なはずだ。
そう思っても、足が動かない。視線を落としてしまう。右足の周りには何もない。左も大丈夫だった。少し先に濃い色の染みがある。ただの泥だと思う。近くを歩いていた男が染みの上を踏み、そのままこちらへ歩いてくる。
本当にあれは泥なのか。もし馬糞だったらその靴で今どこを踏んだ? 男が横を通り過ぎるまで、その足ばかり見ていた。
「――アルノ」
父上の声ではっと顔を上げた。
「はい」
「では、今の話を踏まえてあの荷はこのあとどう動くと思う」
父上が何を指しているのかすら分からなかった。話を踏まえてと言われても、その話を聞いていない。
「……すみません」
「またか」
「はい……」
「……アルノ。何のために来ているのか自分で分かっているんだろう」
「……分かってます」
「なら話を聞け。足元を見るなとは言わんが、話を聞けないほど見ていてどうする」
「はい」
顔を上げて、父上を見る。
もう地面は見ない。けれど、そう決めた途端、馬糞の匂いが鼻についた。俺は慌てて靴の裏を確認した。何も踏んでいない。それでも前回の柔らかい感触を思い出す。次の一歩の先にあったらどうする。もし、気づかず踏み込んだら? またあの感触は味わいたくない。
父上の声は聞こえているのに頭の中ではそればかりが膨らんでいった。
我慢して歩く。でも一歩進むたびに見ていない地面が気になって仕方がない。とうとう耐えられなくなって下を向いた。何もなかった。そのことに心底ほっとした。
「アルノ様」
フェルナー先生の声がした。顔を上げると、先生は少し前から俺を見ていたらしい。
「……何ですか?」
「……前回より怖くなりましたか?」
「怖いというか――嫌なんです」
「ですが、前回は何もない場所までこうして確かめてはおられませんでした」
言われて、足元を見る。そこには何もない。それなのにその少し先にある茶色いものがもう気になっている。
「……だって、また踏むかもしれないから」
「そうですか」
先生はそれ以上言わなかった。
また踏むかもしれない。
だから足元を見ておきたい。
でも下を見ている間は父上の話が耳を素通りしてしまう。話を聞こうと顔を上げれば、今度はどこを踏んでいいのか分からなくなる。
このまま話が頭に入らなければ今日来た意味がない。覚えられなければまた同じことをやることになる。でも、街を歩けばまた踏むかもしれない。
踏まないためには足元を見ていたいのに下を向けば父上の話を聞き逃す。だったら顔を上げるしかないのに顔を上げたまま足を出そうとすると、靴の裏へ沈んだあの感触が蘇る。
どうすればいい。
考えているうちにも道の先にまた茶色い塊が見えた。また足が止まる。俺は息を呑んで目を凝らす。泥だった。ほっとしたところで、その向こうにも黒っぽいものが落ちている。
店先では今日も箒で掃いている人がいた。藁や泥を集め、通りの端へ寄せている。前に来た時と同じだ。誰もごみをそのままにしていない。それでも掃いたそばから人が歩き、荷車の車輪が通り、馬がその上を通っていく。さっきまで綺麗だった場所も、次に見る時にはもう同じとは限らない。だったら、一度確認しただけでは意味がない。少し先にまた茶色いものが見えた。
父上が何か話している。
もう何を話しているのか分からない。
ひとつも頭に入ってこない。
俺はとうとう地面から目を離して、天を仰いだ。
三歳にして、詰んだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話は幕間となります。
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