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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら領地の「普通」がいつの間にか変わり始めました~  作者: 織 航(しき わたる)
第二部 街の通り

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第五話 市場の中を歩きました

 数日後、俺はまた街にいた。

 前回と同じように顔を布で覆い、手袋もしている。靴も帰ったら玄関で脱ぐ。

 今日の目的は市場を見ることだ。父上には出発する日は早めに教えてほしいと頼んでいたので、昨日のうちに聞かされていた。おかげで覚悟する時間は十分あった。十分あったところで行きたくなくなる時間が長くなっただけだったが、自分で続けると決めた以上、今さら嫌だとも言いにくい。

 どうせ逃げてもあとでまた来る。

 それなら今日見たものは今日覚える。前みたいに馬ばかり見ていたら、いつまで経っても終わらない。そう何度も考えながら街まで来た。

 前回降りた場所で馬車を降りる。足元を確認してから右足を置き、左足も下ろした。何も踏んでいない。それを確かめて顔を上げる。


「今日は早かったな」


 先に降りていたユリウスが言った。


「二回目ですから」


「もう慣れた?」


「そういうことを言うと帰りますよ」


「慣れてないんだ」


「慣れるわけないじゃないですか」


 父上が歩き出したのでその後を追う。市場までの道は前にも通った。店の位置までは覚えていないが、途中で大きな通りを曲がることは覚えている。

 市場へ続く角を曲がると、急に人の声が耳朶を打った。


「今朝入ったばかりだよ、見ていきな!」


「そこの旦那、こっちの方がいいぞ!」


 少し離れたところでは値段を巡って何か言い合っていて、その向こうから「荷が通るぞ、空けてくれ!」と太い声が飛んでくる。すると、人の流れが一度だけ両端に割れ、大きな袋を担いだ男たちがその間を抜けていった。通り過ぎた途端、空いた場所に人が流れ込み、また混み合った。

 客を呼ぶ声が上がり、別の店では値段が決まったのか売り手と客が笑いながら硬貨をやり取りしていた。俺たちの前を籠を抱えた女が横切り、その後ろを今度は空の籠を何個も重ねた男が抜けていく。


「……すごいな」


 何を見ればいいのか分からないほど活気があった。

 前回、通りの先から見た時には人が集まっているとしか思わなかった。市場の中に入ると、一人一人が別のことをしているのに全体の流れは止まらないことがよく分かった。

 道の両側は店が並ぶというより、広くなった場所へ簡単な屋根や布を張った売り場がいくつも作られている。その間を人が歩き、荷物を抱えた者が横切る。少し奥では荷車から大きな袋を下ろしている人の姿が見えた。


「……ここが市場」


「ぼんやり見て終わるなよ」


 父上が言った。


「分かってます。今日はちゃんと覚えます」


「では、あれはどこから来たと思う」


 いきなり始まった。

 父上が示した先には、荷車から袋を下ろしている男たちがいる。


「袋の中身が分からないんですけど」


「見れば分かることだけで考えろ」


 言われて、俺はもう一度荷車を見る。荷台には同じような袋が何個も積まれていた。御者の服には乾いた土がついていて、荷車そのものも泥が多い気がする。


「街の外から来た?」


「なぜだ」


「荷車が汚れてるから。あと、同じ袋をたくさん積んでる」


 父上は答えず、今度はレオルを見る。


「レオル」


「東の村から来た麦だと思います。袋の印が同じです」


「印? 袋にそんなのがついてるの?」


 思わず聞くと、レオルが袋の端を指した。


「村ごとに全部違うわけじゃないけど、あれは何度か見てるから」


「俺にはただの袋にしか見えない」


「最初はそれでいいよ」


 少し悔しい。

 同じものを見ているはずなのにレオルには俺よりずっと多くのことが見えている。

 俺は袋の印をもう一度見た。今度来た時に同じものを見れば、少なくとも東から来た麦かもしれないと思える。

 父上たちはそのまま市場の中を進んでいった。

 前回の街歩きとは違い、今日は歩く範囲が狭い。その代わり一つの場所で見るものが多かった。

 野菜を並べているところもあれば、大きな袋ばかり置かれている場所もある。籠の中に卵を並べている女の横で、別の男が干した草を束にして積んでいた。

 何でも適当に置いているわけではなく、似たものはある程度近くにまとまっていた。


「どうして分けてるんですか?」


「客が探しやすいから、というのもあるな」


 父上は立ち止まらずに答えた。


「荷を運ぶ側にも都合がいい。大きな荷車を人の多いところまで入れれば邪魔になるだろう」


 言われて見ると、確かに大きな袋を積んだ荷車は端の方に多かった。人が密集している中央には籠を持った人が多く、荷車そのものはあまり入ってこない。

 地図には市場としか書かれていなかった。中へ入ってみると思ったより分かりやすく種類が分けられている。


「アルノ様」


 フェルナー先生に呼ばれた。


「はい?」


「今日はまだ大丈夫そうですね」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。それから足元を見た。何もない。衣服を確認しても汚れはどこにもついていない。


「……今日は勉強しに来てますから。それに、少しだけ慣れてきました」


「なるほど」


 言ってから、自分でも少し得意になった。前回は途中から馬がどこにいるかばかり見ていた。今日は違う。馬の匂いはする。市場の外を荷車が通れば蹄の音も聞こえる。気にならないわけではない。それでも父上が何かを示せばそちらを見るし、聞かれたことも考えられている。

 これならいけるかもしれない。全部を一度に覚えるのは無理でも、今日見たことを次まで覚えていればいい。それを繰り返せば、そのうち終わる。


「父上、あっちの人たちは?」


 少し先で男が何人か集まって荷を見ていた。


「商人だ」


「商人? それにしては街の人に売っているように見えません」


「良いところに気づいたな。ここで売る者ばかりではない。買って別の場所で売る者もいる」


「ここで買って、また他の場所で売るんですか?」


「そうだ」


 そこは前世と大して変わらないらしい。誰かが作り、それを別の誰かが運び、また別の場所で売る。

 父上が何を見せたかったのか少しだけ分かった気がした。

 地図を見れば市場の場所は分かる。でも、そこに何が集まり、誰が動かしているのかまでは書いていない。

 俺はまた別の荷車を見る。今度は袋ではなく木箱が積まれていた。さっきのものより小さく、御者の横にはもう一人男が座っている。


「あれも村からですか?」


「お前はどう思う」


「また考えるの?」


「そのために来たんだろう」


「そうですけど」


 木箱を見る。何が入っているのかは分からない。荷車もさっきほど泥だらけではない。

 もう少し近くで見ようと俺は前へ進んだ。前を行くレオルとの距離も少し開いていた。追いつこうと一歩、右足を踏み出す。

 その瞬間、靴の裏になにか柔らかいものが沈む感触がした。石でも泥でもない。妙な柔らかさだった。俺は固まった。見たくない。でも見ないわけにはいかない。

 ゆっくり足元を見る。右足の下に、潰れた馬糞があった。


「…………」


 声が出なかった。

 さっきまで聞こえていた市場の声が一瞬にして遠くに引いた。靴底が沈んだ感触だけが、足の裏から伝わってくる。


「アルノ?」


 レオルが振り返った。


「……動けない」


「どうした?」


「動けない」


 俺の呟きに、父上たちも足を止める。ユリウスが俺の視線を追い、足元を見る。


「ああ……」


「『ああ』じゃない!」


 思ったより大きな声が出た。近くにいた人がこちらを見る。


「踏んだ。踏んだんだけど。どうしよう、これ。足を上げたくないんだけど。どうしよう……?」


「そのまま歩けば――」


「歩けるわけないでしょう!」


 右足を上げたい。

 でも上げたら馬糞がズボンにつくかもしれない。だからといって、このまま踏み続けているのも嫌だった。


「父上、どうしよう」


「まず落ち着け」


「落ち着いてます!」


「落ち着いている声ではない」


 父上が俺の足元を見る。


「嫌だ。これ嫌だ。早く取りたい」


「分かったから動くな。そこで足を上げるなよ」


「上げたいんです」


「転ぶぞ」


「じゃあどうしたらいいんですか!」


 父上が後ろにいた護衛を呼んだ。護衛はすぐに近くの商人へ声をかけ、使っていない布を一枚分けてもらう。父上が代金を渡している間にも、俺は右足を動かせずに立っていた。

 長い。実際には大して経っていないはずなのに、ものすごく長く思えた。

 ようやく護衛が布を持ってくる。


「アルノ、俺につかまれ」


 父上が目の前に立った。


「どこに?」


「肩でいい。右足を上げろ」


「父上に靴が当たったら――」


「当てるな」


「そんな簡単に言わないでください」


「なら、そのままずっと立っているか?」


 それはもっと嫌だった。

 父上の肩へ両手を置く。手袋越しにしっかり掴み、おそるおそる右足を上げた。靴底が見えた。俺は思わず俺自身に叫んでしまった。


「見せなくていい!」


「お前が見たんだろう」


「勝手に目に入ったんです!」


 護衛が布で靴を包むように持ち、留め具を外していく。足から靴が抜けた瞬間、ようやくあの感触が離れた。それでも地面へ足を下ろす気にはなれなかった。


「もう一足も脱ぐか?」


 父上に聞かれて、左足を見る。こっちは踏んでいない。でもこのまま片方だけで歩けるわけがない。


「……歩きたくない」


「馬車までそう遠くないぞ」


「嫌です」


「ではどうする」


 父上に聞かれて、少しだけ黙った。答えはもう一つしかなかった。父上を見る。


「……おんぶして」


 今度は父上が黙った。開いた口が塞がらないらしい。横でユリウスが顔を背ける。肩が小刻みに震えていた。


「笑わないでよ!」


「いや、ごめん。だってアルノが父上におんぶって――」


「俺、三歳だから!」


「こういう時だけ本当に便利だな」


「こっちは切実なんです!」


 父上は小さく息を吐いたあと、俺の前で背を向けてしゃがんだ。


「乗れ。ただし、その靴は脱げ」


 左足の靴も護衛に預け、父上の背中へ腕を回す。父上が立ち上がると身体が持ち上がり、市場の地面が少し遠くなる。

 いつもより高いところから見れば、さっきまで必死に覚えようとしていた市場がよく見えた。荷車も、人の流れも、並んだ品物も。

 でも今は、何一つ頭に入ってこなかった。

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