第四話 まだ帰ってきていない気がしました
そのあとも父上たちといくつか通りを見て回った。
倉庫の並ぶ場所や職人の店が増えていく辺りまで歩いたが、後半になるほど俺は説明より先に馬の位置を確かめるようになっていた。ようやく馬車へ戻った時には、まだ見ていない場所があることより、もう歩かなくていいことの方が嬉しかった。
帰りの馬車でも顔の布は外さなかった。街を出れば馬は減ったが、鼻の奥にはまだ獣の匂いが残っているような気がする。頭巾の中は蒸れて、手袋の中まで汗ばんでいた。それでも屋敷へ戻るまでは外せなかった。
やがて見慣れた門が見え、馬車が石畳へ入る。
玄関前にミーナが立っているのが見えた瞬間、それまで我慢できていたものが急に全部気持ち悪くなった。
頬に張りついた布も、頭巾の中の汗も、手袋の内側も、街を歩いた靴も、今すぐ全部どうにかしたい。
「ミーナ!」
まだ馬車が止まりきっていないうちに窓を開けて顔を出すと、父上に肩を掴まれた。
「アルノ。座っていろ」
「もう着いてます」
「止まってはいない」
「でもミーナがいるから――」
「いるから何だ。あと少し待て」
その少しが長い。
馬車が最後に小さく揺れて止まり、御者が扉を開ける。父上が先に降り、その後ろからレオルが続いた。ユリウスは踏み台へ片足をかけたところで俺を振り返った。
「お前、帰ってきた途端すごい顔してるぞ」
「顔はほとんど見えてないでしょう。いいから早く降りてください」
「街では最後まで普通に歩いてたじゃないか」
「普通じゃないです。我慢してただけです。もう屋敷に着いたんだから我慢しなくていいでしょう」
「分かった分かった」
笑いながらユリウスが降りる。その向こうではレオルが立ち止まり、俺が顔の布へ手をかけるのを見ていた。
「アルノ、ほどくなら降りてからにしろよ」
「分かってます。でももう取りたいんです」
「転んだら余計に時間がかかるぞ」
それも分かっている。けれど俺は叫んだ。
「ミーナ! 靴ここで脱ぐから! 手袋も布も全部――」
「はい。朝に伺っておりますから、まずはお降りくださいませ。履き替え用の靴も籠もご用意しております」
ミーナの声だけが妙に落ち着いている。
俺はようやく踏み台へ足をかけた。
朝、街で降りた時には地面へ足をつけるだけであれほど時間がかかったのに見慣れた石畳には何も考えずに降りられた。
そのままミーナのところへ行く。
玄関脇には厚い布が敷かれ、その横には籠と靴が置いてあった。
「靴からでございます」
「顔の布を先に取ったら駄目?」
「片足で立ちながらほどこうとなさるでしょうから駄目です」
「しないよ」
「先ほどからもう手をかけておられます」
言われて、自分の手が頬の横の結び目を掴んでいることに気づいた。
「……じゃあ早く靴を」
布の上に乗り、片方の靴を脱ぐ。すぐにもう片方の足を上げるとバランスを崩してしまった。ミーナに肩を掴まれて支えられた。
「ほら」
「今のは大丈夫だった」
「大丈夫でないから支えたのでございます」
「じゃあそのまま持ってて」
「そういうことではございません」
そう言いながらも手は離さない。
もう片方の靴を脱ぐと、ミーナは靴底へ直接触れないよう布で包み、そのまま籠へ入れた。用意されていた靴へ足を入れる。
「底も洗ってね。それと横も。泥が跳ねてるかもしれないし、紐も触ってるから――」
「全部洗います。街へ履いていかれた靴として別に扱うことも、洗うまでは屋敷の中へ持ち込まないことも朝に伺っております」
「本当に?」
「そのためにこちらの籠を用意して待っておりました」
そこまで聞いて、ようやく靴から目を離せた。
「次、手袋」
「はい。ですが引っ張らないでくださいませ」
「分かってる」
「今度は顔の布を引っ張っておられます」
「だってもう暑いんだよ。帰りの馬車の中からずっと気持ち悪くて、でも外したら外したで匂いが来そうだし」
「でしたら動かないでください。髪まで一緒に巻き込んでおりますから、坊ちゃまが触るほど外すのに時間がかかります」
「じゃあもう触らないから早くして」
「最初からそうお願いしております」
後ろへ回ったミーナが結び目をほどいていく。
「まだ?」
「まだでございます」
「あと何枚?」
「坊ちゃまがお巻きになった枚数です」
「こんなに巻いたっけ?」
「朝の坊ちゃまへお尋ねくださいませ」
「今の俺はもう嫌なんだけど」
「存じておりますので、外しております」
頭の横を締めていた布が取れ、最後に頭巾が外れる。額に張りついていた髪へ空気が通った。
「……生き返る」
「そこまででございましたか」
「そこまでだったよ。早く手を洗って顔も洗いたい。服も着替えなきゃ」
「順番にお願いいたします。玄関で全部お脱ぎになるのだけはおやめくださいませ」
「できるなら今ここで脱ぎたい」
「おやめください」
「はい」
俺は屋敷に入るなり、手洗い台へ行き、石鹸を取る。指の間も手首も洗う。流したあとでもう一度石鹸へ手を伸ばすと横からミーナに止められた。
「一度で十分でございます」
「手袋の中、汗かいてたんだよ」
「坊ちゃまの汗でございます」
「俺のでも嫌なものは嫌なんだよ」
「ですが、もう洗いました」
言われると、もう一度洗う理由がないことに気づいた。顔も洗い、部屋へ戻って服まで替える。そこまで終わって、ようやく身体の表面から街の汚れが剥がれたような気がした。
それでも鼻の奥には、まだ獣の匂いが残っているようだった。馬と革、そして馬糞。新しい袖へ鼻を近づけても何も分からない。それなら髪だろうか。
「……ミーナ」
「はい?」
「俺、まだ臭う?」
脱いだ服をまとめていたミーナが顔を上げる。
「私には特には分かりませんが」
「ちゃんと近くで確認して。髪とか。頭巾に入れてたけど、ずっと外にいたから匂いがついてるかもしれない」
「髪でございますか?」
「うん。ちょっと嗅いでみて」
「承知しました。では失礼いたします」
ミーナが俺の前にしゃがんだ。そのまま顔が近づいてくる。
「……え?」
思っていたより近い。
ミーナの鼻先が髪に触れた。
「ちょっとミーナ、近くない?」
「近くで確認するようおっしゃったのは坊ちゃまでしょう」
「ここまで近くとは思わないじゃん」
「離れていて分からなかったから近づいております」
今度は反対側へ回られた。また鼻が髪に触れる。耳のすぐ近くで息がかかり、くすぐったくて首を縮めた。
「動かないでくださいませ。分からなくなります」
「鼻が当たってるから動くんだよ」
「もう少しですので」
「俺が頼んだんだけど、何か思ってたのと違う……」
ようやくミーナが顔を離した。少し乱れた俺の髪をそのまま指先で整えてくれた。
「馬の匂いも、煙の匂いも、特にはいたしません。いつもの坊ちゃまです」
「本当に?」
「はい」
「馬糞は?」
ミーナが一度だけ黙った。
「もし坊ちゃまの髪から馬糞の匂いがしておりましたら、私はあの距離まで顔を近づけておりません」
「……それもそうか」
かなり説得力があった。
あそこまで近づいて何も言われなかったのなら、たぶん本当に臭ってはいない。
昼食の席へ着く頃には、さっきまでの騒ぎもだいぶ収まっていた。
見慣れた机に、いつもの椅子。運ばれてくる料理の匂いにも馬や泥は混じっていない。レオルとユリウスはもう今日見た街の話をしていて、父上が途中でいくつか問いを挟んでいた。
俺は黙ってパンをちぎる。
今日はもうこれで終わりだと思っていた。
次に街へ行くことなんて、できればしばらく考えたくない。
「次は市場を中まで見るとしよう」
父上が言った。パンを口へ運びかけた手が止まった。
「……次?」
「ああ。今日は通りをざっと見ただけだ。市場の中までは入っていない」
「また街へ行くんですか?」
「そのつもりだ」
聞き間違いではなかった。
ようやく戻ってきたばかりなのに。
「今日だけじゃ駄目なんですか? 街がどんなところかは見ましたよ」
「どんなところだった?」
「人が多くて、馬が多くて、臭くて――」
「それはお前が気になったことだ。領地を見るという話とは違う」
父上はそう言って、レオルへ目を向けた。
「市場について今日分かったことは?」
「人と荷が集まっていることです。門から入ってきた荷車も、かなり市場の方へ向かっていました。ただ、中までは見ていないので何がどこから集まっているのかまでは分かりません」
「そうだ」
嫌な流れだった。
父上の目が今度はこちらへ向く。
「アルノは?」
「人が多いのは見ました」
「誰が持ってきて誰が買っていた?」
「……分かりません。分かりませんけど、それは地図とか授業で聞けば――」
「地図に野菜を運ぶ人間は描いてあるのか?」
「……描いていません」
俺はそう答えるしかなかった。今日、自分で歩いたから分かったことは確かにある。
道幅もそうだ。荷車が来れば人がどこへ避けるのかも、馬がどれくらい近くを通るのかも、地図にはなかった。
蹄の音も、匂いも、馬車の窓から見ていた時とは違った。
「……地図だけじゃ分からないことがあるのは分かりました」
「なら、実際に見る必要も分かるだろう」
「でも俺、まだ三歳ですよね」
「またそう言うの?」
ユリウスが笑った。
「大事なことです。レオル兄上は跡を継ぐから必要でしょうし、ユリウス兄上も兄上を支えるから必要でしょう。でも俺は三男だし、今から全部やらなくてもいいんじゃないですか」
「朝はあれだけ降りるって張り切ってたのに」
「行ってみたから考えが変わったんです。行く前より正確な判断でしょう」
ユリウスは笑っていたが、父上は笑わなかった。少し考えるように俺を見たあと、あっさりと言った。
「今やめたいなら、やめても構わん」
思わず顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。お前がまだ早いと思うなら数年待ってもいい」
助かった。
そう思った途端、肩から力が抜けた。
「じゃあ――」
「その数年後にまた始めるだけだ」
開きかけた口が固まる。
「……また?」
「当たり前だ。今やめることと、必要がなくなることは別だ」
父上は何でもないことのように続ける。
「レオルほど詳しく知る必要はない。だがヴァイスベルク家の人間として、自分の家の領地がどうなっているかくらいは知ってもらう。街も村も道もだ。今やらないならあとでやるんだ」
「その時も街へ行くんですか?」
「行く。市場も見るし、今日歩いた場所を覚えていなければもう一度見ることになるだろう」
「……今やめたら、しばらくは行かなくていいんですよね?」
「そうだな。先延ばしにはできる」
「でも、結局は行く?」
「そういうことだ」
先延ばし。
それだけだった。
今やめれば何年かは街へ行かなくて済む。
でもそのあとで、また地図を見て、道を覚えて、今日みたいに自分の足で歩く。
その頃に今日見たことを忘れていれば同じところからやり直す。
「今やったことを覚えてたら?」
「覚えているものを最初から教え直す必要はない」
「じゃあ、今続けた方があとで楽?」
「覚えればな」
「街へ行く回数も減ります?」
「それは知らん」
そこだけは約束してくれなかった。
でも、今逃げてもなくならないことだけは分かった。嫌なものを未来の自分へ押しつけるだけだ。
「……続けます」
ユリウスが吹き出した。
「さっきまでやめる気だったのに」
「今やめても意味がなかったからです。どうせあとでやるなら今覚えて早く終わらせます」
「領地の勉強をそんな理由で続けるやつ、初めて見た」
「覚えるなら同じでしょう」
父上はしばらく俺を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
「では、次は市場だ」
結局そこへ戻った。
「いつですか?」
「まだ決めていない」
「決まったら早めに教えてください。急に言われると困ります」
「何か準備がいるのか」
「覚悟がいります」
ユリウスの笑い声が食事の間に響いた。
昼食が終わると、いつもの癖で母上の部屋へ向かった。扉の向こうからリリアの声が聞こえる。
「あぅー」
朝と同じ調子だった。
それだけで顔を見たくなる。俺が立ち止まったのを見て、そばにいた使用人がいつものように扉へ手をかけた。
「……待って」
自分でも考えるより先に声が出ていた。
使用人の手が止まる。
靴は玄関で脱いだ。
服も替えた。
手も顔も洗った。
髪だって、ミーナが鼻をつけるくらい近づいて確認してくれた。それでも、鼻の奥にはまだ馬の匂いが残っている気がした。
そんなはずはない。
ミーナは何も臭わないと言ったし、自分でも今の服からは何も分からない。手を見ても、さっき洗ったばかりだ。けれど自分だけはまだ街から帰ってきていないような気がした。
扉の向こうで、もう一度リリアが声を上げた。今度は少し笑っているようにも聞こえる。
「……あとで来るね」
聞こえるはずのないくらい小さな声でそう言って、俺はその場を離れた。




