第三話 街を見るのは楽しいんです
歩き始めてみると、さっきまで馬車の窓から見ていた街とは随分違って見えた。
建物は思っていたより近く、通りへ張り出した庇の下には籠や木箱が並んでいる。店の奥から人が出てきたり、俺たちの前を荷物を抱えた男が横切ったりする。少し先では店主らしい女が客と話し、その隣からは焼いた肉の匂いが流れてきた。
地図でしか知らなかった街の中を本当に自分の足で歩いている。それだけで最初のうちは少し楽しかった。
「こっちが市場へ続く通りだ」
父上が歩きながら言う。
指された先はさらに人が増えていて、屋根の下に色々な物が並んでいるのが見えた。何を売っているのかまでは分からない。その手前を荷車が横切って見えなくなり、今度は別の店から大きな樽を転がす男が出てきた。
「向こうは?」
「職人の店が多い。鍛冶もあちらだ」
言われた方から、少し遅れて金属を叩く音が聞こえてくる。
「これから行くんですか?」
「今日は午前中しか回らん。そっちの方は通りから見るだけだ」
「中には?」
「入らん」
少し残念だった。
初めて見るものばかりなのに父上はあまり立ち止まってくれない。あちらが市場、向こうに倉庫があって、その先には職人の店が集まっている。そんな調子で説明しながらどんどん先へ進んでいく。
レオルには途中で道の名前やその先に何があるのかを尋ねていた。レオルも地図を思い出すような様子はなく、当たり前のように答えている。
俺が店先に並んだ見慣れない道具へ目を取られている間にも話は次へ進んでいた。
「待ってください」
「何だ?」
「まだ今のところを見てます」
「今日はそこまでにしろ。また次に見ればいい」
「……分かりました」
俺が口を尖らせても父上の調子は変わらなかった。完全に見学だった。しかも、かなり忙しい。
右を見れば籠に積まれた野菜があり、左では大きな布を広げて品物を見せている。その向こうから荷車が来たと思えば、今度は脇の道から人が出てくる。
俺だけが、あっちも見たい、あれは何だろうと忙しく動いていた。
店先では何人もが箒を使って掃いていた。風で飛んできた藁や細かなごみを集め、通りの邪魔にならないところへまとめている。売り物も籠や箱、板を組んだ台の上に置かれている。
少し先では、道の端に落ちていた馬糞を男が平たい道具ですくっていた。
前にも見た光景だった。
誰も何も気にしていないわけではない。店の前にごみがあれば掃くし、馬糞も片づける。
片づけている人のすぐそばを通る。少し前までそこに馬糞があった道だ。かなり嫌だったが、それでも今日はまだ歩けている。
俺は足元を確かめながら、少しだけ顔を上げた。
屋敷にはないものがいくらでもある。店先に吊るされた道具。積み上げられた籠。見たことのない形の瓶。奥では何かを焼いているらしく、赤い火がちらりと見えた。通りの向こうを大きな犬まで歩いている。
ちょっとした欧州の街中を観光をしているみたいだった。ただ、その気分はあまり長く続かなかった。
肉を焼く匂い。
薪の煙。
革の匂い。
そこまではまだいい。
問題は馬だった。
馬車の中から見ている時と違ってすぐ横を馬が通る。すぐ近くに馬の身体が迫ってきて、轢かれそうで怖いし、蹄が石を叩くたびに大きな音が鳴って身体がビクッと反応する。そして何より、匂う。
獣特有の匂いに汗と革具の匂いが混じり、馬が通り過ぎたあとに少し残る。布で鼻と口を覆っていてもダメだった。前世でも、動物園や牧場の匂いは苦手だった。見るだけならいい。けれど近くで臭うのは話が違う。
俺は少しずつ通りの端へ逃げた。
「アルノ、そっちは店だぞ」
レオルに言われて止まる。反対側を見ると、向こうから馬が来ていた。
「じゃあ、どこを歩けばいいんですか」
「道だよ」
「その道に馬がいるんですけど」
「道だからな」
まったく理解してもらえない。仕方なく少し戻り、馬が通り過ぎるのを待った。その先では、さっき見た男が馬糞を片づけている。平たい道具ですくい、桶へ入れていた。
ちゃんと片づけている。
それは分かった。
分かったけれど、その横を通りたいかと言われれば無理だった。まだ少し離れているのに臭いがする。
「……あっちへ行きません?」
「何でだ?」
ユリウスが聞く。
「こっちは臭います」
「馬がいるんだから多少はするだろ」
……多少。
兄上にとっては多少らしい。
俺は極力、匂いを吸い込まないように呼吸を浅くして、できるだけ反対側へ寄った。
最初はあれほど店を見ていたのに気づけば足元と馬の位置ばかり確認している。
せっかく初めて歩いているのだからもっと見たかった。市場だって近くで見たいし、鍛冶屋も気になる。地図で覚えた場所が実際にはどうなっているのか一つずつ確かめてみたかった。
でも歩く時間が長くなるほど、匂いが鼻の奥にこびりついていく。
「……アルノ様、大丈夫ですか?」
後ろからフェルナー先生に声をかけられた。
「……今のところは」
さっき馬車を降りた時にも同じようなことを言った気がする。嘘ではない。まだ歩ける。ただ、街へ降りたばかりの頃にあった観光気分はすっかりなくなっていた。午前中だけだと聞いた時は少し残念に思っていたはずだった。
「……父上」
「何だ?」
「そろそろ昼じゃないですか?」
「まだだ」
「……もう結構歩きましたよ?」
「街へ降りてからまだ大して経ってないぞ」
横でユリウスが笑った。
「さっきまで楽しそうだったのにな」
「街を見るのは楽しいんです」
「じゃあいいだろ」
「匂いは別なんです」
そこは一緒にしないでほしい。
ちょうどその時、前からまた馬がやってきた。俺は父上たちより先に道の端へ避ける。
「ほら、行くぞ」
「はい。馬が通り過ぎてから行きます」
街歩きは、思っていたより過酷だった。




