第一話 初めて魔物と冒険者の戦いを見ました
屋敷が見えなくなってからしばらくは緩やかな坂を下っていく。
遠くには森が続き、坂の先に街がある。前回なら地図で覚えた場所と実際の景色を見比べるだけで楽しかったのに、今日はどうしてもその先を考えてしまう。
街へ着いたら馬車から降りる。
それだけのことを何度も頭の中で繰り返していた。しばらくして前を走っていた護衛の馬が急に速度を落とした。続いて俺たちが乗っていた馬車が大きく揺れて、そのまま止まった。
父上がすぐに窓へ顔を向けると、ちょうどそのタイミングで護衛が馬を寄せてきた。
「何があった?」
「少し先に飛竜が出ています。冒険者が四人、交戦中です」
「――飛竜?」
その言葉を聞いた瞬間、街のことが頭から消えた。
魔物がいることは知っている。兄上たちからも聞いたし、授業にも出てきた。この世界では飛竜だって実在する魔物の一つだ。
でも前世の俺にとっては違う。
ゲーム、小説、漫画、そして映画にもいた。画面の中なら何度も戦ったし、素材を集めるために同じ魔物を何度も倒したことだってある。その飛竜が、今はこの道の先にいる。
「どこですか?」
思わず窓へ顔を近づけた。道は少し先で曲がっていて、その向こうは見えない。もっと空を見ようと顔を出しかけたところで、父上に肩を押さえられた。
「アルノ、身を乗り出すな」
「出してません」
「今、頭が半分出ていたぞ」
「少し見ようとしただけです」
「それを身を乗り出すと言うんだ」
仕方なく席につく。
「本当に飛竜なんですか?」
「護衛がそう言っただろ」
「そうじゃなくて、本物の飛竜がいるんですよね?」
ユリウスが妙な顔をした。
「偽物の飛竜なんているのか?」
兄上には分からない。この世界で生まれた人間にとって、飛竜は危険ではあっても空想上の生き物ではない。俺にとっては、ずっと存在するはずのないものだった。
「アルノ、あそこだ」
レオルが窓の先を指した。
林の上で枝が大きく揺れた。次の瞬間、その向こうから大きな影が飛び上がる。最初に見えたのは翼だった。左右へ大きく広がった翼が木々の合間から昇っていく。続いて長い首と前へ突き出した頭、太い二本の脚。その先には黒い爪が伸びていた。鳥のように羽毛で覆われているわけではなく身体には日差しを鈍く返す灰色の鱗が並んでいる。飛竜が翼を羽ばたかせるたびに木々が揺れた。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
画面の中ではない。翼が動けば空気が乱れて木が揺れる。身体が傾けば鱗の光沢まで変わる。頭ではこの世界に魔物がいると分かっていたのに、実際に目の前を飛んでいる姿を見ると今まで知っていた「魔物」という言葉が急に実在するものになった。
上空を旋回する飛竜の下には四人の人間がいた。
「父上、あの人たちは?」
「さっき聞いただろう。冒険者だ」
「……あれが?」
冒険者たちは屋敷の護衛とは一目で違う。大きな盾を持った男は厚い革鎧を着ている。少し離れた場所には弓を持った男がいて、その横には細身の槍を持った女がいる。もう一人は長い柄の先に鉄の塊がついた武器を両手で構えていた。
防具も武器も、屋敷の護衛とは違って統一性がない。でも飛竜が向きを変えた瞬間、四人がほとんど同時に動いた。盾を持った男が前へ出ると、その後ろへ槍の女が回り、弓の男だけが距離を取った。もう一人は、長い柄の先に大きな鉄の塊がついた武器を両手で構え、飛竜の動きを見ている。
誰かが一つ一つ指示しているようには見えない。それでも全員が自分のすべきことを分かっているようだった。
「冒険者って、本当にああやって戦うんだ……」
「他にどう戦うと思ってたんだよ」
ユリウスに聞かれてもうまく答えられなかった。
どうと言われても、前世では画面越しにしか見たことがない。盾を持った人間が前に立つ。弓を持った人間が離れて射る。それはゲームだろうと現実だろうと言葉だけ見れば同じことだ。実際に飛竜の爪を見て、ようやく頭が現実に追いついた。
飛竜が翼を畳みながら急降下し、冒険者の一人に襲いかかった。盾を持った男が構える。大きな爪が盾へぶつかり、離れている俺のところまで鈍い音が響く。男は盾ごと後ろへ弾かれたが、それでも倒れず、飛竜がもう一度爪を振ろうとしたところへ横から槍が伸びる。穂先が飛竜の頭の横を掠め、飛竜が嫌がるように首を振る。その隙に弓が鳴った。放たれた矢は一本は鱗に弾かれたが、もう一本が目のすぐ横へ刺さった。
「うわ……」
あんなものが目の前にいたら俺なら怖くて絶対に逃げる。それなのに今は飛竜から目を離せなかった。前世では全部空想だったものが今は同じ景色の中にある。
飛竜が大きく翼を打った。
四人から距離を取り、そのまま空へ上がろうとする。冒険者たちもすぐに追わない。弓の男だけが矢をつがえ、飛竜の頭を追っている。
その時、後ろの馬車から一人の女が降りてきた。背が高く、赤茶色の髪を後ろでひとつに束ねている。厚手の革の上着に暗い色の外套を重ね、袖口だけを邪魔にならないよう少し上げていた。どこかで見た顔だったが、うまく思い出せなかった。
父上は窓の外を確かめ、その女へ声をかけた。
「――ベルタ。届くか?」
「やってみます」
ベルタと呼ばれて、もう一度その顔を見る。そこでようやく分かった。
「……台所の人?」
俺が最初に飲み水を煮てほしいと頼んだ時、鍋の内側を触るなと言われて困った顔をしていた女だ。いつもは前掛けをつけて炉のそばにいる。指先から小さな火を出し、薪へ移していた。こんな格好をしているところは初めて見た。
「ベルタっていうんだ……」
「お前、名前も知らなかったのか」
レオルに言われた。
「台所ではずっと台所の人だと思ってました」
「失礼だな」
「今知りました」
ベルタは俺たちの会話など聞いていなかった。いつものように少しだけ困った顔をして、飛竜を見上げたまま前へ出ると冒険者たちへ声を飛ばした。
「ヴァイスベルク家の者です! 火を使います。加勢しても構いませんか!」
盾を持った男が一瞬こちらを見る。
「頼む! 頭だけ狙ってくれ! 胴は焼かないでほしい!」
「分かりました!」
勝手に撃たないんだ。
考えてみれば、飛竜と戦っているのは冒険者たちだ。前世のゲームなら横から勝手に手を出せば揉めることもあった。こっちでも同じらしい。
ベルタが右手を上げると、指先に赤い光が灯った。台所で何度も見た小さな火だ。でも今日は、その火はそこで止まらなかった。赤い光が指先から掌へ広がり、その前で炎が膨らんでいく。
「……え?」
ベルタが短く何かを唱え、腕を振ると炎が空へ走った。飛竜の身体ではなく、その少し前を狙っている。火が頭の近くで弾け、飛竜が慌てて空中で態勢を整えるように翼を傾けた。
もう一度。
今度は反対側へ炎が走る。飛竜の高度がさらに落ちる。
それまでは空へ上がれば冒険者たちの武器は届かなかった。けれどベルタの火はそこまで追ってくる。飛竜にもそれが分かったのだろう。大きく旋回したあと、冒険者ではなくベルタへ真っすぐ突っ込んできた。
「ベルタ!」
俺が叫ぶより早く、飛竜が降りてくる。さっき冒険者へ向かった時より速い。
「父上!」
「――中にいろ」
父上の声は変わらなかった。
外ではベルタも逃げていない。右手に赤い光を残したまま飛竜を見ている。その前へ盾を持った冒険者が走り込んだ。
「下がれ!」
ベルタが二歩下がる。
飛竜の爪が振り下ろされ、大きな盾へぶつかった。耳に響くほどの音がした。男は顔を歪め、足で地面を削りながら身体ごと後ろへ押されていく。盾の縁が大きく傾いていたが、それでも飛竜はベルタまで届かなかった。
すぐ横から槍が伸びる。狙ったのは胴ではない。飛竜の頭部だ。穂先が頬の鱗へ当たると飛竜が怯み、その隙を逃さず弓の男も頭部へ矢を放った。矢は翼ではなく頭の周りへ集まっていく。
飛竜が盾から離れ、翼を広げた。地面を蹴り、もう一度空へ逃げようとする。
「――今だ!」
冒険者の一人が叫んだ。横で頃合いを見計らうかのように待っていた男が動いた。長い柄を両手で握り、大きく振る。棒の先についている鉄の塊――ハンマーが飛竜の頭を打ちつけた。鈍い音がして、飛竜の飛び上がりかけた身体が傾いて、そのまま地面へ落ちる。翼が土を叩き、泥と枯れ草が大きく散った。
「すご……」
思わず座席から立ち上がりかけた。
けれど飛竜がまだ動いている。首を振り、地面へ爪を立て、もう一度起き上がろうとする。それでも冒険者たちは追いかけなかった。盾の男がベルタを振り返る。ベルタが頷いた。
「盾の後ろへ集まれ!」
盾を持った男が叫ぶと他の三人がすぐに動いた。弓の男も槍の女も、ハンマーを持った男も、一斉に大盾の後ろへ入る。ベルタだけが少し離れた場所に残った。その場所から右手を飛竜へ向ける。今度は指先ではなく掌の前に赤い光が集まっていく。そして――ベルタが腕を振った。
炎が飛竜の頭へ走る。そして、ぶつかった瞬間、火が一気に噴き上がった。
「うわっ――」
飛竜の頭の周りだけに赤い火柱が立った。
飛竜が暴れる。翼が地面を叩き、尾が何度も土を打つ。冒険者たちは大盾の後ろへ身体を寄せて、飛んでくる土と熱を避けていた。
ベルタがさらに炎を重ねた。炎がまた飛竜の頭へ叩き込まれ、火柱が一段強くなる。飛竜の動きが少しずつ弱くなっていき、尾が一度、大きく地面を打つとやがて翼が半分だけ持ち上がり――落ちた。それきり動かなくなった。
ベルタが手を下ろしても冒険者たちはすぐには盾の後ろから出なかった。火が小さくなり、煙だけになってから盾の男がゆっくり立ち上がる。槍の女が慎重に横へ回り、飛竜の頭を長い穂先で突いて状態を確かめた。飛竜は動かない。そこでようやく四人の力が抜けたように武器を持つ手が緩んだ。
「……倒した」
俺は窓に両手をついたまま呟いた。
「倒したね」
ユリウスが答える。
「本当に倒した……」
「ずっと見てただろ」
「そうだけど……! この戦いは一生もんだよ!」
自分でも何を言っているのか分からない。でも仕方ない。前世では空想の中にしかいなかった飛竜が本当にいて、冒険者が盾や槍や弓を使ってそれと戦っていた。しかも最後に火を撃ったのは、いつも台所で薪へ火をつけていたベルタだ。
「――父上! ベルタってあんなに魔法が使えたんですね!」
「ああ」
「聞いてないんですけど!」
「知る必要もないことだ」
「だって台所にいる人ですよ?」
「普段はな。台所には火が必要だ」
父上は何でもないことのように答える。
こっちではそれが普通なのかもしれない。けれど毎日鍋を沸かしている人が必要になれば飛竜の頭へ火柱を立てる。いくらなんでも差がありすぎる。
「すごかった……」
もう何度目か分からない。
それでも他の言葉が出てこなかった。
冒険者たちは戦いが終わるとすぐに槍やハンマーについた血を布で拭き、折れた矢を拾い始めた。盾を持った男は腕を回しながら仲間と何か話していた。飛竜の身体も確かめている。頭は焼けているが、胴や翼には大きな傷がほとんどなかった。
冒険者の一人がベルタに何かを尋ねた。ベルタがこちらを振り返り、父上へ確認する。父上は首を横に振った。どうやら飛竜の取り分を渡そうとしていたらしい。
「……だから頭ばかり狙ってたの?」
俺が尋ねるとレオルが外を見る。
「素材を取るならなるべく身体を傷めない方がいいんだ」
「最初からそれを前提で戦ってたの?」
「飛竜を狩るなら普通そうするんじゃないか?」
「……普通」
俺にはさっき初めて見たものなのにあの四人には何度も繰り返してきたやり方なのだろう。
盾で攻撃を止めて、空へ逃げようとしたところを叩き落とす。そして頭へ攻撃を集中させる。最後はベルタの火が来ると分かった瞬間に全員が大盾の後ろへ入っていた。
改めて地面に横たわる飛竜の骸に目をやると、あれだけ激しく戦っていたのに飛竜の身体は思っていたよりずっと綺麗に残っていた。
「冒険者ってすごいね……」
「急にどうしたんだよ」
「だってすごいでしょう?」
ユリウスには伝わらないらしい。前世だったら一度くらい憧れてもおかしくないものが、まとめて目の前へ出てきたのだ。
「父上、少し近くで見たら駄目ですか?」
「駄目だ」
「飛竜だけでも」
「駄目だ」
「冒険者に話を聞くくらいなら――」
「脅威は去ったんだ。街へ行くぞ」
全部駄目だった。
父上が御者へ声をかける。ベルタも冒険者たちへ短く挨拶をして、こちらへ戻ってきた。後ろの馬車へ乗り込むのを見ながら、あとで絶対に話を聞こうと決めた。
馬車がゆっくり動き始める。
冒険者たちは飛竜の周りで膝をついていた。すぐに街へ戻るわけではないらしい。槍の女が頭の傷を確かめ、その隣では別の男が爪の根元へ刃物を入れている。
「あれは……何をしてるんですか?」
「素材を取ってるんだよ」
レオルが答えた。
「鱗も爪も売れる。翼も使い道はある」
「翼も?」
「ああ」
それも見てみたい。どんなふうに外すのか。何に使うのか。どれくらいの値段になるのか。さっきから知らないことばかりだった。
馬車が冒険者たちの横を通る時、盾を持った男がこちらへ頭を下げた。俺もそちらを見る。そこで、ようやく気づいた。盾には飛竜の血がついていた。男の革鎧にも赤黒い飛沫が残っている。槍を持った女の靴は泥で色が変わり、膝にも土がついていた。別の男は素材を剥ぎ取るために飛竜の脚を押さえていた。その革の手袋には当然、血がべったりついていた。その手で腰に下げている袋を開けて、剝ぎ取ったばかりの爪を中へ入れた。
さっきまで見ていたはずだった。戦っている最中にも血は飛んでいたし、泥の上を走っていた。なのにその時はまったく気にならなかった。飛竜と冒険者と魔法を見るのに夢中で、そんなところまで目が向いていなかった。
戦いが終わった途端、急に全部が目についた。
血のついた手袋で袋を触る。
泥のついた靴でそのまま歩く。
飛竜へ触れて体液で汚れた腕で荷物を持つ。
革鎧もひどく汚れている。
少し前まで、あれほど格好よく見えていた冒険者たち。
それが今では……。
「――父上」
「何だ?」
「この人たちも街へ向かうんですよね」
「ああ。街の冒険者だろうからな」
馬車はそのまま四人を追い越していく。
俺は後ろを振り返った。冒険者たちはまだ飛竜のそばにいる。処理が終われば、俺たちと同じ道を通って街へ入るのだろう。
血がついたまま。
泥がついたまま。
飛竜の体液がついたまま。
「……あのまま、街に入るの?」
窓の外で冒険者たちが少しずつ遠ざかっていく。
さっきまで頭から消えていた街のことが、一気に戻ってきた。




