プロローグ 布で顔をぐるぐる巻きにしました
鏡を見ると布でぐるぐる巻きになった三歳児がいた。
頭には髪まで押し込んだ頭巾の上からさらに布を巻いて、鼻も口も隠している。手も革の手袋で覆っている。肌が見えているのは、ほとんど目の周りだけだった。
我ながらひどい格好だ。
「ミーナ」
「はい」
「これなら大丈夫そう?」
後ろにいたミーナの反応がない。
「……何?」
「いえ……」
「その『いえ……』は何?」
「坊ちゃまがお決めになったのでしたらよろしいかと」
全然よろしいと思っていない言い方だ。
自分でも分かっている。
でも今日は見た目を気にしている場合ではない。前回は街まで行ったが、それでも最後の一歩が降りられなかった。地面に足をつけたところでそこで終わりではない。その靴で馬車へ戻り、屋敷まで帰る。そこまで考え始めたら動けなくなった。
父上たちはそのまま街へ行き、俺だけが馬車に残された。
「替えの手袋も入れておいて」
「こちらにございます」
ミーナに小さな包みを見せられる。
もう用意していたらしい。
「いつ入れたの?」
「坊ちゃまが最初の手袋をお出しになった時に」
「……ありがとう」
「替えの布もございます」
「水は?」
「馬車へ」
「帰ってきたらこの靴は玄関で脱ぐから」
「承知しております」
「洗うまでは中に入れないでね」
「はい」
そこまで聞いて、もう確認することがなくなった。前回、一番最後に俺の足を止めたのはそこだった。街を歩いた靴でそのまま屋敷の中へ戻る。それが嫌だった。
「じゃあ行ってくる」
「はい」
扉へ向かいかけて足を止めた。
「その前に母上のところへ行ってくる」
「そうなさると思っておりました」
「それも分かるんだ」
「毎日見ておりますので」
ミーナが先に扉を開けた。
母上の部屋では、リリアが床に広げた布の上にいた。腹這いになって、少し先に置かれた木の輪へ手を伸ばしている。指先が届きそうで届かない。もう一度伸ばすと、ころりと転がって仰向けになる。
最近はこれを何度も繰り返している。
母上は少し離れた椅子に座って見ていた。
「母上、これから街へ行ってきます」
声をかけると、母上がこちらを向いた。固まった。
「……アルノ?」
「はい」
「アルノよね?」
「俺です」
「そう」
母上は頷いた。
まだ見ている。
「何ですか?」
「どこに行くのだったかしら」
「街です」
「そうよね」
「それ以外にどこへ行くんですか」
「その格好だから、森へ魔物を狩りに行くと言われても今なら少し信じるわ」
母上の視線がぐるぐる巻きの頭から手袋へ下りていく。
「行きませんよ」
「分かっているわ」
母上が笑った。
「でも、ずいぶん巻いたわね」
「前回失敗したので」
「布で全身を覆っていれば成功するものなの?」
「分かりません」
「あら」
「だから試しに行くんです」
言うと、母上が少し意外そうな顔をした。
「珍しいわね。アルノが『分からない』って言うなんて」
「何でも分かるわけじゃないですから」
「前は分からないものほど駄目だと言っていたでしょう」
否定できなかった。
今でも嫌なものは嫌だ。
今日だって布を巻いて、手袋をして、それで本当に街に降りられるのか。
「暑くなったら外すのよ」
「頭巾は外してもいいです」
「顔の布は?」
「できれば外したくないです」
「倒れる前には外しなさい」
「そこまで暑かったら外します」
「そこまでになる前に外してほしいのだけれど」
母上がため息をついた。その声に反応したのか、布の上のリリアがこちらを向いた。一度、動きが止まる。目が合った。
「リリア」
「あー」
声をかけるとすぐに笑った。両手を上げ、仰向けのまま足をぱたぱた動かす。
「分かるんだ」
「声でしょうね。今日は顔がほとんど見えていないもの」
「それでも分かってくれるなら嬉しいです」
リリアのそばまで行ってしゃがむ。
俺が近づくと、両手がこっちへ伸びた。いつものように指を出しかけ、途中で止める。今日は手袋をしている。でも今つけたばかりだ。少し迷ったがそのまま人差し指を差し出した。
「あぅ」
リリアが掴む。革越しに指を握られた。感触はいつもより鈍く、よく分からない。
「これでもいいの?」
「リリアは何でも掴むでしょう」
「そうだけど――」
俺じゃなくて手袋が珍しいだけかもしれない。試しに少し指を動かすと、リリアは離さずについてくる。
「行ってくるね」
「あー」
「今日は街に行くんだよ」
「あぅ」
「前は降りられなかったんだよ」
「アルノ」
母上に呼ばれた。
「何でしょうか」
「リリアに言い訳してどうするの」
「言い訳じゃないです」
「そう?」
「今日は降りるって言いたいんです」
「それなら行ってきなさい」
簡単に言う。
リリアがまた笑った。
「ほら。リリアも行けと言っているわ」
「絶対言ってません」
「分からないでしょう?」
「それはそうですけど」
立とうとした。
指が動かない。
リリアがまだ掴んでいる。
「リリア」
「あー」
「離して」
当然離さない。
「母上」
「何?」
「取ってください」
「自分で離せばいいでしょう」
「指を引いたら握ってくるから」
「お兄さまなのだから、それくらい何とかなさい」
「三歳ですけど」
「そういう時だけ三歳になるのね」
どこかで聞いたようなことを言われた。結局、母上がリリアの手を開いてくれた。指が自由になると、リリアはもう一度こちらへ手を伸ばす。
「帰ってきたらね」
立ち上がりながら俺はリリアに手を振った。
「その前に着替えてね」
「分かってます」
「手袋も替えて」
「帰ったら外します」
「手も洗って」
「もちろん」
母上は満足したように頷いた。まるで半年前の俺を前にしているようだった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。無理だと思ったら戻ってきなさい」
「はい」
部屋を出るとミーナが横に並んだ。
「楽しそうでございましたね」
「リリアが?」
「はい」
「この格好なのにね」
「アルノ坊ちゃまだと分かれば格好は関係ないのでしょう」
それなら少し嬉しい。
玄関まで来ると、外の明るさが見えた。
ミーナから小さな鞄を受け取る。替えの手袋と布が入っている。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
ミーナに見送られ、玄関の扉を潜ると外には馬車が二台並んでいた。父上はその前で護衛の一人と話している。レオルとユリウスもすでに待っていて少し離れたところにはフェルナー先生がいた。
馬車の周りでは御者や護衛たちが出発の準備をしている。その中に、暗い外套を着た女が一人混じっていた。赤茶色の髪を後ろで束ね、革の上着を着ている。どこかで見たような気もしたがすぐには思い出せなかった。
「……アルノ?」
ユリウスが最初に俺を見つけた。
「何ですか?」
「お前、それで行くの?」
「行きます」
ユリウスが俺の周りを一度見るように視線を動かした。
「暑くない?」
「まだ大丈夫です」
「いや、そうじゃなくて」
「何?」
「……何でもない」
口元が笑っている。
「笑ってるでしょう」
「まだ笑ってない」
「まだって言った」
今度はレオルまでこちらを見た。
「アルノ」
「兄上まで何ですか」
「それは自分で考えたのか?」
「そうです」
「全部?」
「頭巾は元からあったものです。首布も。手袋も」
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ何ですか」
レオルが少しだけ笑った。
「いや。それで降りられそうならいいんじゃないか」
「兄上は笑わないんですね」
「笑ってるよ」
「笑ってるんだ」
「心の中でね」
ユリウスよりひどい。
父上が護衛との話を終え、こちらへ来た。俺を見る。眉間にしわを寄せる。そしてもう一度、今度は手袋を見る。
「……お前はそれで行くのか?」
「はい。これだけ備えなければ不安です」
「……そうか。なら好きにすればいい。ただし途中で具合が悪くなれば外せ」
「母上にも言われました」
「なら二度言う必要はないな」
終わった。
父上はいつもこうだ。変だと思っていてもそれだけでは止めない。
「フェルナー」
父上が呼んだ。
「はい」
「今日は後ろへ乗ってくれ」
「承知しました」
「アルノのことも見ておいてくれ。前回のことがある」
「分かりました」
「俺、そんなに何か起こしそうですか?」
二人とも俺を見る。
「前回は街まで行って降りられなかっただろう。今回はすでにその格好だ」
父上が言った。フェルナー先生は何も言わなかった。ただ俺を見ている。
「先生も何か言いたそうですね」
「そう見えますか?」
「はい。だってずっと見てます」
「……普段とはずいぶん違うと思いまして」
「この格好が?」
「それも含めて――です」
それも……?
他にもあるらしい。
「前回、街へ着いてから降りられなかったと伺いました」
「はい」
「それでも、もう一度行こうと思われたのですね」
「さすがに街のことを知らずにいるのはまずいと思いました。行くのはとても嫌ですけど……」
「行くのも嫌で、行かないのも嫌なのか?」
ユリウスが横から入ってきた。
「そうです」
「面倒だなあ」
「俺もそう思ってます」
フェルナー先生だけは笑わなかった。
目だけが少し細くなる。
「今日は、前回と同じことにはならないようにされたのですね」
「それでこの格好です」
「なるほど」
またそれだ。
先生は時々、俺の話を聞いて勝手に何か納得する。
「何がなるほどなんですか」
「まだ何も」
「……まだ?」
「行ってみなければ分からないということです」
それなら俺と同じだ。
「そうですね」
先生は頷いた。
ちょうどその時、後ろで馬が鼻を鳴らした。御者が手綱を確かめ、護衛たちも馬へ乗り始める。フェルナー先生はさっきの外套姿の女と一緒に後ろの馬車へ向かった。
「乗るぞ」
父上が言った。俺は踏み台へ足をかける。ここは平気だ。前回だって乗る時は何ともなかった。中へ入って窓側へ座る。向かいにユリウス。その横にレオル。父上が最後に乗り込んだ。
「それ、途中で取らないの?」
ユリウスがまだ俺の顔を見ている。
「取らないです」
「暑そう」
「兄上が何回も言うから暑く感じてきました」
「布のせいだろ」
「黙ってください」
レオルが笑う。
扉が閉まった。外の音が少しだけ遠くなる。しばらくして馬車が動き出した。窓から玄関前を見るとミーナがまだ立っていた。馬車はそのまま石畳を進み、やがて屋敷の門が近づいてくる。
「アルノ」
ユリウスが呼んだ。
「何ですか」
「今ならまだ帰れるぞ」
「帰りません」
「即答だな」
「今日は降ります」
「さっきも聞いたよ、それ」
ユリウスが笑う。レオルも窓の外を見たまま口元が緩んでいた。
まずは馬車から降りる。
それが今日の目標だった。
第二部「街の通り」開始です。
屋敷の中では少しずつ「普通」になっていったアルノの衛生習慣。
今度は、屋敷の外の「普通」とぶつかっていきます。
引き続きお楽しみいただけましたら嬉しいです。
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