エピローグ 潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした
リリアの発疹は、それから数日かけて少しずつ薄くなっていった。熱がまた上がることもなく母乳も飲んでいる。機嫌が良い時は寝返りで布の端まで移動しては、母上やミーナに戻されるようになった。
もう一度様子を見に来たイルゼは、胸から腹、背中まで順に確かめたあと、ようやく一息ついたように表情が和らいだ。
「もう心配はいらないでしょう」
ここ数日で何度も聞いた言葉だったが、母上は床で寝転がって楽しそうに遊んでいるリリアを見てため息をついた。
「ほっとしたわ。あの熱は腹這いや脚を包まなかったこととは関係なかったのよね? だって、他の子も見たことがあるのでしょう?」
床の上でリリアが鈴のついた木の輪を握っていた。振るたびに音が鳴るのが面白いらしく、何度も繰り返していた。
「……この育て方が良いものなのかは、今も私には分かりません。ですが、今回の熱がそのために起きたとも申しません」
母上はしばらくイルゼを見ていたが、それ以上は聞かなかった。
腹這いが正しいと認めてもらう必要はない。脚を包まないことに納得してもらう必要もない。
俺だって、この世界で前世と同じ育て方をして本当に大丈夫なのかまだはっきりと言えない。
リリアを見て、悪くなればやめる。分からないものは分からないまま見る。それでいい。半年前なら、そんなふうには考えられなかったと思う。
あの頃は、何も分からなかった。
誰がどんな手で触るのか。どの布がどこで使われたのか。水は本当に綺麗なのか。分からないものが多すぎて全部が怖かった。
けれど今は違う。
手を洗う場所がある。水も布も使い道が分かれている。洗濯場で何をしているのかも知っているし、台所でどんな水を使っているのかも見た。
気になることがなくなったわけではない。
でも、分からないまま怖がることはずいぶん減った。少しくらいは、この世界で暮らすことにも慣れてきたのかもしれない。
そんなことを考えるようになった数日後、朝食の席で父上が言った。
「今日は三人とも街へ連れていく」
レオルは普通に頷いた。ユリウスもパンを食べながら「分かりました」と返す。
俺だけがパンを握ったまま固まった。
「街?」
「ああ」
「何をしにですか?」
「見るためだ」
もう少し説明が欲しい。
「レオルは将来この領地を継ぐ。ユリウスもヴァイスベルクの人間として、領地のことは知っておいた方がいい」
父上の視線がこちらへ向く。
「お前も当然そうだ」
「俺、三歳ですけど」
「知っている。勉強の進捗もな。フェルナーから話を聞いて連れ出しても問題ないと判断したまでだ」
三歳だから屋敷で待っていろ、とはならなかった。
そういえば兄上たちの勉強に同席することになった時も同じだった。俺が三歳だということを一番忘れているのは、たぶん父上だと思う。
屋敷の外へ出たことがないわけではない。庭にも出るし、散歩で門の辺りまで行くこともある。けれど、それは全部屋敷の敷地の中だった。
街はまだ見たことがない。前世で知っていた中世と同じようなものならできるだけ行きたくない。
でも、以前ほど強く拒絶する気にもならなかった。
ここ半年で俺にもできることは増えた。
木の器も使っている。羊皮紙にも触れる。洗濯場にも入れるようになった。最初は近づくことさえためらっていたリリアにも今では普通に触れている。
それに、街を見ただけで倒れるわけではない。無理なら無理で、その時に考えればいい。
「……分かりました」
結局、そう答えた。
昼前に屋敷を出た。
父上と俺たち三人が同じ馬車に乗り、前後には護衛がついている。門を抜けると、いつも見ている石壁が少しずつ遠ざかっていった。
道の両側には畑が広がっていた。地図の上では一本の線だった道にも坂があり、少し窪んでいるところには昨日の雨の影響か水が残っている。荷車が何度も通った場所には二本の轍が続き、その間だけ草が伸びていた。
途中で何度か人とすれ違った。籠を背負って歩く人もいれば荷を積んだ馬車もある。ヴァイスベルクの紋章に気づくと道の端へ寄って頭を下げる。
地図で何度も見た道が実際にはこうなっているのかと少し面白い。
「ずっと外を見てるな」
ユリウスが言った。
「地図の印象とずいぶん違います」
「同じだろ。道は道じゃないか」
「形は同じですけど、坂とか道幅とかまでは分からないじゃないですか」
「そんなの見れば分かるだろ」
その見れば分かるものを見ている。
レオルは話を聞きながら外を見た。
「先生も言っていただろう。地図は全部を描くものではないって」
「そうですけど」
知ってはいた。
でも、知識として分かっているのと、実際に見るのはやっぱり違う。羊皮紙を初めて見た時と少し似ている。
「思ったより平気そうだな」
父上が言った。
「まだ馬車の中ですから」
「それでも、もっと嫌がると思っていた」
「俺もです」
自分で答えてから少し驚いた。
本当に、思っていたより平気だった。
屋敷を出ればもっと怖くなると思っていた。道の汚れや知らない人を見ただけで帰りたくなるかもしれないとも思っていた。
でも、今のところは大丈夫だ。
やっぱり少しは慣れてきたのかもしれない。
そう思っているうちに道の先に壁が見えてきた。屋敷を囲うものよりずっと長く、その向こうには大小いくつもの屋根が重なっている。
「見えてきたぞ」
ユリウスが窓の外を指した。
街だった。
近づくほど人が増えていく。
門の前には何台かの荷車が止まり、兵士が御者と話していた。大きな袋を積んだものもあれば、樽や木箱を括りつけたものもある。籠を背負った人がその間を抜け、別の男が馬を引いて門へ向かっていた。
馬車の速度が落ちる。窓から入ってくる匂いも少し変わった。馬。土埃。湿った土。それに何かを焼いている匂いが混ざっている。思わず鼻を押さえそうになった。
馬車が門を抜ける。
中へ入って最初に目についたのは、思っていたより普通に掃除をしている人が多いことだった。
店の前では男が箒で店先を掃いていた。野菜は直接地面へ置かず籠や木の台に並べられ、軒先へ水を撒いているところもあった。少し先では、道に落ちていた馬糞を男が平たい板のようなもので集めている。
この世界の人だって汚い方がいいわけではない。
掃除くらいする。商品だって泥だらけにしたいわけではない。当たり前か。俺が勝手に、中世風の街というだけでもっとひどいものを想像していたのかもしれない。
そう考えている目の前を一頭の馬が通った。少しして、その後ろへ新しい馬糞が落ちた。さっきまで何もなかったところだった。御者は気づいていないのか、そのまま進んでいく。
掃除をしていた男がそちらを見た。また道具を持って歩いていった。けれど馬糞を平たい板で集めたすぐあとに、別の馬がまた糞を落としていく。
今度は別の荷車が来た。
道の端へ寄って人々がそれを避ける。荷車の車輪が浅い溝の脇に残った泥を踏み、そのまま先へ進んでいく。
少し先には魚を並べている店があった。台の上に敷いた板を男が水で流している。その水は店の前から道へ流れて浅い溝へ入っていく。溝には別の店から流れてきた水も混ざっている。
誰かが掃いては通りを綺麗にしようとしている。
けれどその前を人が通るし、馬も荷車も通る。その度に道は汚れ、また誰かが掃く。思っていたよりずっと手をかけている。それなのに、綺麗になったところがすぐに汚れる。
馬車が角を曲がった。
そこでは荷下ろしの最中らしく、店の前に荷車が止まっていた。大きな袋を二人がかりで運び、店の中へ入れている。その間、馬は道に立ったままだった。馬の尻からまた糞が落ちる。
後ろから来た人が荷車を避けると反対から別の荷車が来て止まった。その間を子どもがすり抜けていった。その子の靴には泥がついていた。
目で追っているうちに、どこを見ればいいのか分からなくなった。街に入る前には汚れているところだけ避ければいいと思っていた。
でも、綺麗に見える場所にもすぐ馬車と荷車が来る。馬が歩き、荷車で通りが塞がれる。その隙間を人と犬が歩いている。その全部が道の中で混ざっていた。
屋敷の中では、こんなふうにはならない。そう思ったところで馬車が止まった。
「ここから少し歩くぞ」
父上が立ち上がった。
扉が開くと、さっきまで窓越しだった音と匂いが一気に入ってきた。よく分からない匂いだったが、とにかく臭い。咽せそうになった。
先にレオルが降りる。ユリウスもそのあとへ続いた。何の迷いもない。
俺も立った。
降りるつもりで来た。
ここまで来る途中だって大丈夫だった。街へ入ってからも、嫌ではあったけれど馬車の中にいられないほどではなかった。
父上が外からこちらを見る。
「……アルノ?」
「今、降ります」
俺は扉のところまで行った。
踏み台へ足を載せる。
そこまでは普通にできた。
あと一段降りれば地面だった。
下を見る。すぐそばには何も落ちていない。少し先に泥があり、その向こうに馬糞がある。店の前を掃いていた男がそれを集め始めた。
ここなら大丈夫だ。
そう思って足を出そうとした。
その時、目の前を一人の男が歩いていった。
靴の裏が黒く汚れている。その男は何も気にせず店へ入り、少しして荷物を抱えて出てきた。
さっきの荷車が動く。
別の馬がその横を通っていく。
視線が足元から離れなくなった。
この靴で降りる。
この道を歩く。
そのまま馬車へ戻って来て屋敷まで帰る。屋敷へ戻ったらその靴で自分の部屋に入るのか。
考え始めると止まらなかった。
「どうした?」
父上が口を開いた。
「……少し待って」
踏み台に置いた足はそのままにして、もう一度道を見た。掃除をしていた男が馬糞を片づけた。
そこを人が通り、次に荷車が通った。片付けられるとどこに馬糞があったのか分からない。普通に歩いているだけで知らず知らずのうちに、馬糞があったところを踏んでしまうかもしれない。
その時、屋敷のことを思い出した。
手洗い台を置いた時、どこで洗えばいいのかを決めた。
水壺には青い紐をつけた。
壺を扱う時には赤い糸の前掛けを使ってもらい、布も用途ごとに分けた。
魔法で出した濁った水は一日置いて、使えるところと使わないところを決めた。
最初は何度言っても間違えられた。
それが今では、兄上たちだって、リリアの部屋へ入る前には当たり前のように手を洗う。
俺は、この半年でずいぶん変わったと思っていた。
最初は水も布も人の手も全部怖かった。
今は違う。
何に使ったものなのか分かれば触れられる。
洗えば触れられる。
分ければ使える。
完璧ではなくても、どこまでなら大丈夫か考えられるようになった。そうやって、少しずつこの世界に慣れてきたつもりだった。
でも違う。
俺が水を気にしなくなったわけじゃない。使う水を分けてもらった。
俺が布を気にしなくなったわけでもない。使う場所を決めてもらった。
俺が誰の手でも気にせず触れられるようになったわけじゃない。触る前に洗ってもらっている。
俺が無理だと言うたびに屋敷の中が少しずつ変わっていった。
父上と母上がそれを認め、マルタやミーナたちが覚えた。今では兄上たちでさえ手を洗い、水や布を使い分けている。
俺は、その中で当たり前のように暮らしていた。
「アルノ?」
父上にもう一度呼ばれて顔を上げた。
レオルとユリウスも少し先で待っている。
二人の後ろでは人が普通に歩いていた。荷車が止まり、店から人が出てきて、さっき掃除されたばかりの道をまた馬が通っていく。
ここでは誰も、俺が嫌だからと水を分けてはくれない。
知らない人全員に手を洗ってもらうこともできない。
馬がどこを歩くかも、荷車の車輪が何を踏むかも分からない。
それが当たり前の場所だった。
俺はもう一度足を出そうとした。地面まではほんの少ししかない。落ちるような高さでもない。父上がすぐそばにいる。
怖いのは高さではなかった。
分かっている。
それでも足は踏み台から先へ進まなかった。
「……父上」
「何だ?」
「……無理です」
言ってしまうと、父上はしばらく俺を見た。怒られるかもしれないと思ったが、父上は何も言わなかった。道を一度見てから、ため息をついた。
「分かった。今日は中から見ていろ」
俺は頷いて、踏み台へ出していた足を後ろに退いた。
レオルもユリウスも何も言わなかった。
扉が閉まる前、二人が父上と一緒に歩き出すのが見えた。俺よりずっと普通にこの街の中へ入っていく。
馬車の中からその背中を見送った。
リリアにも今では触れられるようになった。分からないことも一つずつ見て、使えるものを探してきた。
だから、少しは進んだと思っていた。
ただ、その範囲を勘違いしていた。
俺がこの世界に慣れたつもりでいた。
違った。
慣れたのは俺ではない。
屋敷の方が俺に慣れたのだ。
半年かけて広げたつもりだった俺の世界は、まだ屋敷の中で終わっていた。
今なら心からこう思う。
やっぱり。
潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした。
【第一部 完】




