幕間 リリア
生まれる前、リリアはほとんどの時間を暗いところで身体を丸めて過ごしていた。眠っていることが多く、脚を動かすとどこか遠くから声が聞こえることがあった。何を言っているのかは分からない。ただ、その声は何度も聞いたことがあった。
もっと近くでは、いつも同じ音がしていた。一定の間隔で繰り返す音で、眠っている時も身体を動かした時もなくならなかった。
生まれてから初めて目を開けると視界は白かった。ぼやけたものが動き、近づいたり離れたりする。それが何なのかも、自分がそれを見ているのだということもリリアにはまだ分からない。
それまで身体を包んでいた温かさがなくなり、冷たいものが一気に肌へ触れた。口から何かが入り込み、胸の奥が急に動く。今まで一度もなかった感覚に身体が大きく震え、口が開いた。
声が出た。
息を吸う。
また胸の中へ何かが入り、吐き出す時に声が出る。何が起きているのか分からない。ただ不快で、リリアは何度も泣いた。
しばらくして、ぱちん、と小さな音がした。身体につながっていたものが切られたことも今のリリアには分からない。
やがて誰かに抱き上げられた。そこで、聞き慣れた音がした。暗いところにいた頃からずっと近くで繰り返していた音だった。そのすぐ近くから、もう一つ聞き覚えのある声も聞こえてくる。脚を動かした時に外から何度も聞いていた声だった。
それが母の声で、胸の奥から聞こえる音が母の鼓動なのだと分かるのはもう少し先のことだった。
「それで包むなあああああ!」
突然、大きな声が響いた。身体がびくりとした。近くにあった声も身体に触れていた手も固まった。
「それ、煮て! 布も煮て! 手を洗って! 赤ちゃんに触らないで!」
また同じ声がした。
高くて、よく響く。暗いところにいた時にはあまり聞いたことのない声だった。
誰かが何かを言えばすぐにまた同じ声がした。
何が起きているのかは分からなかった。
それが嫌でまた泣くと、胸元へ抱き寄せられた。聞き慣れた鼓動が近くなり、リリアはしばらくして眠った。
それからは、眠って、起きて、温かいものを飲んで、また眠ることを繰り返した。
目を覚ませば誰かがいる。身体を拭かれ、布を替えられ、抱き上げられる。そのたびにいろいろな声が聞こえた。あの大きな声も何度か耳にした。
「リリアは? 生きてる?」
何を言っているのかは分からない。
ただ、「リリア」という音はそのあとも何度も聞いた。母からも、身体を拭く女たちからも、あの高い声からも聞こえてくる。
母も、布を替える女も、近づいてきたらそのまま触れてきた。けれど、あの声の主だけは近くまで来ては止まった。そのままいなくなることもあった。
何度来ても同じだった。
近くまで来るのに触れてこない。それなのに、よくここにいた。
やがて部屋の外で水の音がするようになった。水が落ち、何かを擦る音がして、それが終わると扉が開く。
「手を洗いました」
「ええ」
「石鹸で洗いました」
「ええ」
「扉は触ってないです」
その日は、声が少しだけ震えているようだった。
リリアは目を開けた。白くてぼやけた視界の中に何かがある。いつもよりその声の主は近くまで来ていた。それでも、そこに何がいるのかまでは見えなかった。
声だけは分かる。
何度も聞いた声だった。
けれど、今日もいつまで待っても触れてこない。
リリアは声のした方へ顔を向けようとした。首はうまく動かず、肩につられて腕が持ち上がる。それでも、もう一度そちらへ向こうとした。声がそこにあるから、そちらへ行こうとした。開いていた指先に何かが触れた。少し硬くて温かい。指を閉じると触れたものが固まった。あれほどよく聞こえていた声まで消えてしまった。
リリアはもう一度指を動かした。握るほどの力はない。指先に引っかかったものが少し離れ、それでもまた触れた。
「アルノは、良いお兄さんになるわね」
母の声がした。
近くにいる声の主は黙ったままだった。ただ、それまで何度も近くまで来ながら触れなかったものが、その日は初めて手の先にあった。
それからも、あの声が来る前にはよく水の音がした。
ほかの人のように抱き上げたり、頬へ何度も触れたりはしない。近くまで来て一度立ち止まり、最後に一本の指を手のそばへ出す。リリアが指を閉じて握れば、そのままの姿勢で握らせてくれ、疲れて指を離したらゆっくり離れていった。
それが何日続いたのか分からない。
腹が空けば乳を飲み、眠くなれば眠る。その繰り返しの中に水の音と幼い声と指先の温かさがあった。
少しずつ目を開けている時間が長くなり、白くてぼやけていたものが形として見えるようになっていった。
最初に分かるようになったのは母だった。胸元へ抱き上げられれば暗いところにいた頃から知っている鼓動が聞こえる。
母のほかにもよく来る顔が二つあった。
レオルとユリウスという名前をリリアが知っていたわけではない。それでも、二人が来ると部屋の中が少し賑やかになった。
レオルは大きな声を出さず、手を出す時もゆっくりだった。じっと見ていると少しだけ笑う。
ユリウスはもっと近くへ顔を寄せてきて、いろいろな声を出した。リリアが笑えば自分も笑い、もう一度同じことをする。
二人が来るのは嫌ではなかった。
むしろ声が聞こえるとそちらへ顔を向けることが増えた。ユリウスが近づけば脚を動かし、レオルの顔を見つければしばらく目で追った。
二人は、リリアが嫌がることをほとんどしなかった。
あの幼い声の顔も少しずつ見えるようになった。
レオルやユリウスとは違った。笑わせようとはあまりしてくれない。抱き上げてもくれない。ただ、やけに長くこちらを見ている。そして、誰かが何かをしようとした時によく声を上げていた。
布で脚を巻かれる時。誰かがそのまま近づいてきた時。触れる前に手を洗っていない時。
リリアには何を言っているのか分からない。それでも、あの声がすると誰かの手が止まり、そのあとで何かが変わることは何度もあった。
身体を包む布がゆるんでいる時間が長くなったのもその頃だった。
脚を曲げればそのまま動かせる。伸ばしてもまた自分で曲げられる。
ある日には腹を下にされた。
顔のすぐ下に布があり、頭が重かった。どこへ力を入れればいいのか分からず、少し動くだけで頬が落ちる。
嫌だった。
声を上げると、すぐそばの女が手を伸ばしてきた。
「もう少しだけ」
あの幼い声がした。
リリアはまた声を出して泣いた。それでも少し待たれる。腕を動かすと掌が布へ当たり、そのまま押すと胸が少し浮いた。首にも力が入り、ほんの少しだけ顔が上がる。
「……上がった」
声の調子が変わった。
何が違ったのかは分からない。それでも、さっきまでより少し明るい声だった。
すぐに力が抜け、頬が布へ落ちた。すると今度は助けてくれた。嫌だと声を出しても、何もしてくれないわけではなかった。それからも腹を下にされることはあったが、疲れれば終わった。
あの幼い声の顔は、すぐには助けてくれない。けれど、本当に嫌になれば終わる。そのことも何度か繰り返すうちに分かってきた。
鈴のついた木の輪を目で追えるようになった頃、母の顔もはっきり分かるようになった。
扉が開き、母が入ってきた日、リリアは鈴から目を離してそちらを見た。何度も近くで見てきた顔。暗いところにいた時から知っている声。抱かれれば聞こえる鼓動。それらが同じ人のものだった。母だった。
「あぅ」
声が出た。
母が止まった。もう一度声を出すと、母がこちらへ近づいてくる。嬉しくなって脚が動いた。腹を下にしたまま身体まで揺れたが、それでも母から目を離さずに見つめた。もっと近くへ来てほしくて腕を伸ばした。
周りにいた人たちが静かになった理由は分からない。
ただ、母を見つけた。
それだけで嬉しかった。
ある日、少し離れたところにレオルとユリウスもいた。
二人ともリリアを見て笑っていた。
その近くに、あの幼い顔もあった。
その顔だけは笑うより先にじっとこちらを見ていた。
五か月になる頃には自分から手を伸ばせるものが増えた。
木の輪が少し遠ければ何度も手を出す。届かなければ脚を動かした。ある日、身体が横へ傾き、そのまま肩と腰がついてきた。くるりと腹が下になる。目の前にあった木の輪へ手を伸ばすと、今度は届いた。
「……できた」
あの声がした。
顔を上げる。
幼い声の顔がこちらを見ていた。
木の輪を動かすと鈴が鳴る。嬉しくてもう一度木の輪を振って音を鳴らした。元の場所に戻ることもできた。また転がって移動する。何度か繰り返しているうちに最初にいた場所からずいぶんと離れていた。
その日のうちに部屋の中が少し変わった。小さな卓が退けられ、床が掃かれ、今までより広く布が敷かれた。母はその上へ木の輪を置いた。
今までなら届かなかった木の輪にも身体を転がせば近づけた。
また少し遠くへ行ける。
リリアはそれが楽しかった。
半年になる頃、身体が急に熱くなった。
木の輪が見えても手を伸ばしたくない。転がるのも嫌だった。抱かれていても身体は重く、目を開けているだけで疲れる。
いつもより多くの人が部屋へ来た。
額へ何度も手が触れ、頬や首を触られる。身体の上に光が広がり、長い祈りの声も聞こえた。
眠りたいのに、また誰かが触る。
嫌だったが顔を背ける力もなかった。
母はほとんどそばを離れなかった。
レオルとユリウスも来た。
いつもならリリアを笑わせようとするユリウスも、その日は声をあまり出さなかった。レオルも近くまで来たが無理に触ろうとはしなかった。
二人の顔を見ると少しだけ目を開けていられた。
やがて二人は静かに帰っていった。
あの幼い声の顔も来た。
何度も来た。
けれど、いつものように木の輪を出さなかった。腹を下にしようとも言わない。ただ近くへ来て、リリアを見ている。
「リリア」
呼ばれて目を開ける。
顔を向けるだけでも疲れた。
それでも少しすると、手の近くにまで指がきていた。何度も触れた指だった。リリアは少しだけ手を閉じた。握らなくてもその指は離れなかった。
そのまま目を閉じる。
次に起きた時にも来た。
その次にも。
周りの人は額を触り、身体を調べ、いろいろなことをした。
あの幼い声の顔だけは何もしてこなかった。
呼んで、見て、手に触れる。リリアが動けなければそのまま待っていた。
母が不安そうな声を出した時にも、あの声がした。
「――今のリリアを見てください」
意味は分からない。
けれど、そのあとにまた指が来た。リリアは弱く手を閉じた。そこに触れている間は、何かをさせられることもなかった。そのまま眠りにつけた。
何度も眠ったあと、身体の熱さはなくなっていた。
けれど今度は胸や腹に赤いものが出て、大人たちはまた集まった。大勢来て祈り始める。眠りかけていたリリアは、大勢の声が大きくなったところで眉をひそめた。
薄く目を開けると少し離れたところに、あの幼い声の顔があった。
こちらを見ている。目が合うと口元が少しだけ動いた。リリアはそれを見てから、また目を閉じた。
次に起きた時には部屋は静かになっていた。
知らない間に、母に抱き上げられていた。身体はさっきより軽い。母の腕の中から見回すと、もう知らないものばかりではなかった。
母がいる。
レオルとユリウスもいる。
二人を見つけると、少し嬉しくなった。ユリウスが笑えば口元が緩み、レオルが近づけばその顔を目で追う。二人は優しい。それはもう知っていた。
少し離れたところにはもう一つの顔があった。
二人とは違う。
あまり笑わせてはくれない。抱き上げてもくれない。近くまで来ても触れる前にはいつも一度立ち止まる。けれど、嫌なことが続いた時にはよくあの声がした。
脚を動かせなくなった時。腹を下にして、もう嫌になった時。知らない人が近づいてきた時。身体が熱くて何もしたくなかった時。
声がすると誰かの手が止まり、少し待てば何かが変わった。熱がある間も、あの指だけは何もしようとせず、ただ触れてそこにいた。
守るという言葉をリリアはまだ知らない。それでも、この顔が近くにあれば嫌なことがそのまま続くことはないと知っていた。
「リリア?」
声がした。
リリアはすぐにそちらを見た。
生まれて間もない頃、初めてこの声へ腕を伸ばした時にはそこに誰がいるのか見えていなかった。ただ声があったから、そちらへ向いた。
今は顔が見える。
何度も見てきた小さな顔だった。
今日も同じようにこちらを見ている。
母の腕に抱かれたまま、リリアはその顔へ片腕を伸ばした。肘はまだうまく伸びきらず、開いた手が少し震えた。
それでも目を逸らさず、もう少しだけ手を前へ出した。




