第三十八話 熱が下がった後も祈っています
冷たい、と思ったのは一瞬だった。違う。昨日までが熱すぎただけだ。手のひらも指先もいつもの温かさに近い。
「母上」
椅子に座ったまま、うとうとしていた母上が顔を上げた。いつも整っている母上の髪が今日は乱れていた。
「リリアの熱が……」
俺の言葉の続きを待たずに母上は立ち上がると、リリアの額に手を当てた。そのまましばらく動かなかった。次に頬へ、首元へと触れていく。
「……下がってるわ」
もう一度母上の手がリリアの額へ戻る。何度確かめても同じだった。
「イルゼ」
呼ばれたイルゼもすぐに来た。母上と入れ替わるように額へ触れ、首筋を確かめる。
「昨日までとは違いますね」
「そうよね?」
「ええ。まだ様子は見なければなりませんが、熱は下がっております」
母上はすぐには手を離さなかった。リリアがゆっくり目を開ける。まだぼんやりしている。それでも母上が名前を呼ぶと、顔がわずかに声の方へ向いた。
「リリア?」
「あぅ……」
小さな声だった。
母上が笑った。そのまま笑っていると思って見ていたらいつの間にか頬に涙が流れていた。
「よかった……」
マルタも大きく息を吐いた。ミーナは口元を押さえ、何度か頷いている。
リリアは授乳のあとすぐ眠ったが、昨日までのように熱にうなされながら眠っているのとは違う。すやすやと規則的な寝息を立てていた。
母上はリリアを寝台へ戻したあとも、しばらく額を触っていた。
昼前には父上も来た。部屋へ入るなり、まっすぐ寝台へ向かい額に触れた。
「……下がったのか」
「ええ」
父上はそれだけ言って、しばらく寝台の横に立っていた。レオルとユリウスもあとから顔を出した。
「もう大丈夫なのか?」
ユリウスが小さな声で聞いてきた。
「まだ分からないです」
「でも熱は下がったんだろ?」
「それは下がりました」
「……そっか」
少し前なら俺も、熱が下がれば終わりだと思ったかもしれない。けれど母上から熱が下がったあともなかなか回復しなかった俺自身の話を聞いたことがある。
父上と兄上たちが帰ったあと、母上もようやく食事を取ることになった。マルタが何度勧めても昨日まではほとんど口にしていなかったらしい。ミーナも使い終わった布をまとめ始め、イルゼは用意していた薬草を片づけている。
三日ぶりに部屋の中が少しだけ普段通りになった。
それからしばらく経って、マルタがリリアの汗で湿った肌着を替えようと胸元の紐をほどいた。夕食にはまだ少し早い頃だった。
「あら……」
手が止まった。
「どうしたの?」
母上がすぐに椅子から立つ。
「奥様、こちらを……」
リリアの肌着が開かれる。
胸の辺りに赤い点があった。
一つではない。腹へ向かって細かな赤いつぶがいくつも広がっている。
「昼はなかったわよね?」
「ございませんでした」
マルタが背中も確かめる。そちらにも同じような赤いつぶつぶが出ていた。
すぐにマルタは、薬草を片づけて別室で待機していたイルゼを呼びに行った。戻ってくるなりイルゼは、リリアの胸から腹、背中まで順に見ていく。指で赤いところへ触れ、顔や口の中まで確かめた。
「これは……」
「何なの?」
母上が聞く。
イルゼはすぐに答えなかった。
俺も横からリリアの腹を見る。
三日ほど続いた高い熱が下がって、そのあとに胴へ出た赤い発疹。前世で見たことがある。俺の子どももなったことがある。だから病名もまだ覚えていた。
突発性発疹。
もちろんここが前世と同じ世界ではない以上、同じものだと言い切るつもりはない。それでも、前世で見たものと同じならこの発疹は熱が下がったあとに回復していく途中で出るものだった。見た目からして同じに見える。俺の中では、さっきより心配が一つ減った。
「イルゼ?」
母上にもう一度呼ばれて、イルゼが顔を上げた。
「……似たものは、以前にも見たことがございます」
「あるの?」
「はい。高い熱が何日か続いたあと、熱が下がってからこのような赤い斑が出た赤子を何人か」
「では、何なの?」
「それは……分かりません」
「あなたでも分からないの?」
「申し訳ございません。数日で薄くなった子もおります。ただ、なぜこのようになるのかまでは」
「熱が下がったのに?」
「はい」
母上の視線がまたリリアへ戻る。さっきまでなら熱が下がったというだけで喜べた。ところが今は、肌着の下に突然現れた赤いものがそれを全部なかったものにしてしまったらしい。
「何か悪いものに触れたのでしょうか」
マルタが言った。
「でも、昨日からずっとここにいるわよね」
母上が答えると、マルタは困ったように口を閉ざした。その横でミーナが発疹を見つめている。しばらくして、おそるおそる口を開いた。
「……精霊のいたずら、ということはございませんか」
「精霊?」
「祖母が昔、理由もなく身体に赤いものが出るのは、精霊に触られた跡だと言っていたことがございます」
「ミーナ、それは……」
「分かっております。根も葉もない話だということは。でも……」
ミーナ自身も言いながら自信をなくしていく。
マルタは胸元で手を組んで、考える素振りをした。
「悪いものの印でなければよいのですが」
「悪いものって?」
俺が聞くと、今度は誰もすぐには答えなかった。母上がリリアを抱き上げる。赤いぶつぶつが見えないように肌着を戻しかけて途中でまた手を止めた。
「……呪い、ということは?」
「奥様」
イルゼがすぐに答えた。
「何も分かっておりません。今それを決めつける必要はございません」
「でも、あなたにも分からないのでしょう?」
「はい」
イルゼの頷きで、そこだけははっきりした。結局、何も分からない、と。
俺は黙ってみんなのやりとりを聞いていた。
説明するつもりはなかった。突発性発疹という名前を口にしたところで、その先を俺は説明できない。なぜ起きるのか、どうして熱が下がったあとに発疹が出るのかと聞かれても困る。知らない言葉が増えるだけだ。それで母上たちが安心するわけでもないことは、この半年で何度も分かっていた。
廊下から足音がして、扉が開いた。
「どうした?」
父上だった。
戻ってきた父上へ、母上が何も言わずリリアの胸元を見せる。父上はしばらく赤いぶつぶつを見た。
「何だ、これは……?」
「分かりません」
イルゼが答える。
「同じようなものを見たことはございます。ただ、原因までは……」
「熱はあれから上がっていないな?」
「はい。下がったままでございます」
父上は額へ触れた。確かめたあとも表情は変わらない。次に赤いぶつぶつへ目を落とす。
「神官を呼べ」
「また?」
思わず言ってしまった。
父上がこちらを見る。
「何かあるのか?」
「いや、何も」
「なら呼ぶぞ」
「はい」
神官を呼んでもリリアが悪くなるわけではない。反論する理由はない。それに父上からすれば、原因が分からない以上、できることを全部試すのは当たり前のことなのだろう。
昨日も治癒の魔法を二度使わせた人だ。
来たのは一日目に来た神官とは別の人だった。年配の男で、リリアの身体に広がる赤いぶつぶつを見るとまず熱の経過を聞いた。イルゼが三日間の様子を説明し、熱が下がったあとにしばらく経ってから発疹が現れたと伝える。
神官もすぐには何も言わなかった。
「このようなものを見たことは?」
父上が聞く。
「ございます。ただ、同じものかどうかは分かりません」
イルゼと同じ答えだった。
「悪いものか?」
「そうとは限りません」
母上が少しだけ顔を上げる。
「では」
「ですが、そうでないとも私には申し上げられません。ですので、祈りましょう」
母上がすぐに頷いた。
マルタがその場で膝をつき、ミーナも慌てて続く。イルゼまで静かに頭を下げた。母上はリリアを抱いたまま真剣に祈り、マルタもミーナも目を閉じている。父上ですら少し離れたところで目を閉じて、神官の言葉に合わせて頭を下げていた。
俺だけが寝台の横でリリアを見ていた。
熱はない。呼吸も昨日より穏やかでさっきは母乳も飲んだ。赤いぶつぶつは見た目こそひどいが、それ以外に悪くなったところはない。絶対に大丈夫だとは思わない。この世界で前世と同じ病気だという保証もない。
神官の祈りが続いている。母上たちはまだ目を閉じたまま祈っている。
俺はもう一度、リリアの腹に広がる赤いぶつぶつを見た。イルゼも神官も同じようなものを見たことはあるらしい。それでも名前も原因も分からない。
分からないから精霊や呪いの話まで出てくる。
前世なら俺でも簡単に調べられたのに。
同じ赤い発疹でもずいぶん扱いが違う。
神官の声が少し大きくなった。眠りかけていたリリアが眉を寄せ、薄く目を開ける。俺と目が合ったわけではない。それでも、いかにも迷惑そうな顔に見えた。少しだけ笑ってしまった。
俺は何も言わず、もう少しだけリリアのそばにいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話は幕間となります。
これまでアルノが積み上げてきたものをリリアの視点から振り返ります。
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