第三十五話 妹が転がり始めました
リリアが生まれてから五か月が過ぎた。
つまり俺が前世を思い出してからも五か月になる。その間、屋敷もずいぶん変わった。
リリアの部屋の前には手洗い台があり、水壺には青い紐、壺を運ぶ前掛けには赤い糸がついている。布は用途で分けられ、飲み水も煮て冷ますようになった。
俺自身もここの生活に少し慣れてきた。
食べられる。
飲める。
眠れる。
厠にも行ける。
ただ、苔で尻を拭く生活を好きになったわけではない。絶対にない。
でも、汚れる場所は汚れる場所だと考え、終わったあとに手を洗うことでなんとか気持ちに折り合いをつけた。
前世と同じにはならない。
それでも、この屋敷なら暮らしていける。五か月かけてようやくそう思えるようになった。ただし、髪は死んだままだ。そこだけは五か月経ってもどうにもならなかった。
朝、ミーナに梳かしてもらった髪へ指を通すと、途中で止まった。
「……」
もう一度、試してみても同じだった。
「……痛い」
「引っ張らないでくださいませ」
「昨日より死んでない?」
「昨日も同じことをおっしゃっておりました」
改善の見込みはないらしい。
世の中にはどうにもならないことがある。
三歳で学びたくなかった。
身支度を終え、午前の勉強へ向かう。兄上たちと同じ席に座ることにももう慣れた。
授業が終わると二人は魔法の稽古へ向かい、俺はいつものようにリリアの部屋へ行く。中では母上が椅子に座り、マルタが小さな衣服を畳んでいた。
リリアは大きな布の上で仰向けになり、自分の手を眺めている。
五か月前は、泣いては授乳されて眠るだけだった。今は呼べばこちらを見ることもある。
「リリア」
「あぅ」
「聞こえてる?」
「あー」
「会話になっておりませんよ」
「分かってるよ」
ミーナが木の輪を鳴らした。ちりん、と小さな音がして、リリアの目がそちらへ動く。少し遅れて顔もつられて動く。
輪を右へ動かせば右へ。
左へ戻せば左へ。
ミーナが輪を少し離れたところへ置くとリリアが手を伸ばした。
届かない。けれど、もう一度手を伸ばした。指先が空をつかむ。
「近くにする? もう少し頑張ってみる?」
母上がリリアに尋ねるように言った。
リリアはまだ輪を見たまま片方の脚を曲げた。反対の脚はそのままだ。腕が前へ伸び、肩が少し浮く。身体が横へ傾いた。
そこで一度止まったかと思えば、下になった腕が動き、頭が少し持ち上がった。肩のあとから腰がついていく。身体がひねられ、くるんとひっくり返った。
最後に下になっていた腕を抜くとそのまま両肘をついて頭を上げた。少しだけ腕を伸ばして木の輪を握った。自分で木の輪を振って嬉しそうに笑う。
「……できた」
寝返りだ。
前世でも見た。自分の子どもが何度も横を向き、途中で戻りながらある日そのまま腹這いになった。だから驚くより先に、ちゃんと育っていると思った。けれど、母上とマルタは首を傾げていた。
「……こんなだったかしら」
「何がですか?」
「寝返りよ」
母上がマルタを見る。
「レオルの時も今みたいだった?」
「いいえ。レオル様はもっと頭の方から動いておられました」
「そうよね。首を反らして、そのまま身体がついてきて……」
「ユリウス様は脚でございましたね。両脚を上げて、勢いでころりと」
「俺は?」
二人が少し考えた。
「あなたは身体を反らすことが多かったわ」
「頭と踵で踏ん張るようになさって、そのまま横へ崩れておられました」
「……俺、そんなことしてたの?」
「していたわ」
覚えているはずがない。
それでも三人とも寝返ったし、普通に育った。
ただ、今のリリアとは動きが違うようだ。勢いで身体がひっくり返ったようには見えなかった。
片方の腕。
脚。
肩。
腰。
一つずつしっかりと動かしていた。
俺には、その意味もある程度は分かる。腹這いで身体を支え、脚を自由に動かすこと。前世で子どもが生まれた時に調べた。だから無関係だとは思っていない。でも、それを母上たちへ説明するのは難しい。
俺が考えている間に、ミーナがリリアを仰向けへ戻した。少しすると、また顔が横を向く。
「あ」
母上が声を出した。
リリアがくるんと寝返ってまた腹這いになる。
「綺麗ですね。レオル様方の時より、無理がないように見えます」
マルタが呟いた。
「そうね」
母上も頷いた。
「腹這いをしていたからかしら?」
「脚を伸ばして包まなくなったことも関係があるのでしょうか」
二人が俺を見る。
「……リリアを見てたらいいと思います」
「それだけ? あなた、何か知っている顔をしているわよ」
「知ってることはあります」
「では教えて」
「説明が難しいです」
「また?」
「またです」
母上がため息をついた。
でも、それ以上は聞かれなかった。母上はまたリリアを見る。それでいい。俺の話を信じてもらうより、この子を見てもらった方が早い。
その本人は三度目の寝返りを始めていた。
「……また?」
今度は俺が思わず声を出してしまった。
腹這いになったと思ったら今度は身体をひねって仰向けへ戻る。しばらくして、また同じ方向へ転がった。気づけば最初にいた場所から少し離れている。
「こんなに転がるんだっけ……?」
「リリア様がお好きなのではございませんか?」
「寝返りを?」
「楽しそうでございます」
足元のリリアに視線を向けると、まさしくその通りだった。
「……寝返りで移動してる」
このままならすぐ床へ出る。
毎日掃除されているし、以前よりずっと綺麗だ。それでも人が歩いている床だ。
前世の子は、寝返りだけでこんなふうに移動しなかった。だから俺も次はずり這いかはいはいだとどこかで思っていた。リリアも同じように育つとは限らないのに。知らず知らずのうちに、俺はリリアではなく前世の自分の子を見ていた。
「母上、床を――」
「マルタ」
俺が口を開きかけると、母上が声を上げた。
「ここをもう少し空けましょう。この布では狭いわ。床も一度きちんと掃除して、その上へもっと広く敷いて」
「何枚か必要でございますね」
「ええ。重なるところで手足を引っかけないようにして」
マルタがすぐに動いた。小卓を退け、侍女を呼ぶ。床を掃き直し、水で拭く。
俺は口を開けたまま、それを見ていた。
言おうとはした。でも、全部先に言われた。隣から視線を感じる。ミーナだった。
「……何?」
「いいえ」
「今、俺のこと見てたよね」
「坊ちゃまが何かおっしゃろうとしておられましたので」
「母上の方が早かっただけ」
「はい」
ミーナの口元が少し緩んでいる。
「笑ってる?」
「笑っておりません」
「笑ってるよ」
「お手伝いしてまいります」
逃げた。
しばらくして、部屋の一角に大きな布が何枚も敷かれた。母上がその中央へリリアを下ろす。仰向けになった途端、また顔が横を向いた。
「もう?」
母上が笑った。
少し離れたところへ母上が木の輪を置く。リリアが手を伸ばしても届かない。くるんと転がっては、ごろごろ近づいて行く。
母上は近づかずにそのまま見ていた。
少し前なら腹這いにしているだけで止められた。今は母上自身が、リリアが動ける場所を作っている。目の前のリリアを見て自分で決めている。
俺が言うことは、もう、何もなかった。




