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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら領地の「普通」がいつの間にか変わり始めました~  作者: 織 航(しき わたる)
第一部 屋敷の中

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第三十六話 妹が熱を出しました

 それからまたひと月が過ぎた。

 リリアが生まれて半年になる。机の上には何度も見たヴァイスベルク領の地図が広がっていた。

 最初は書かれている文字を追うだけで精一杯だった。今は村の名前も、そこへ続く道も、川がどこを流れているのかも頭に入っている。

 フェルナー先生が地図の北側を指した。


「この道が使えない場合、こちらの村から荷を運ぶなら?」


「南へ回します」


 俺は答えた。


「なぜですか?」


「北は近いけど雪が深くなる。川沿いは荷車で通れないところがあるからです」


 先生の指が川へ移る。


「では、こちらを人だけで通るなら?」


「通れます。ただ雨のあとなら地面がぬかるんで足をとられるので、急ぐ理由がなければ避けます」


 答えてからレオルを見る。

 何も言わない。

 ユリウスも地図を見ている。


「合ってる?」


「……合ってる」


 レオルの声がいつもより小さい。


「レオル兄上、嫌そうですね」


「嫌じゃない」


「前はすぐ教えてくれたのに」


「もう知ってるだろ?」


 横からユリウスが覗き込んだ。


「じゃあ、エーデルハルトから大きな馬車で来るなら?」


「冬なら東の道。遠回りだけど広くて安全です」


「……本当に覚えてる」


「前にクララが言ってたよ」


「でも一回しか聞いてないよね」


「その一回で覚えたんじゃないか?」


 ユリウスがレオルを見て言った。


「アルノには余計なこと言わない方がいいんじゃない?」


「何でだよ」


「全部覚えるよ」


「勉強なんだから覚えていいじゃないか」


「それはそうだけど……」


 二人のやりとりを見ても、俺には何が不満なのか分からない。フェルナー先生が小さく咳払いした。


「――では、最後に一つ」


 先生が地図の中央へ指を置いた。領内で一番大きな街だった。そこから何本もの道が伸びている。


「この街へ入る荷が最も増えるのはどちらからでしょうか」


 考える。

 周辺の村。

 街道。

 山側には林業を生業にし、木材や薪を扱う村がある。川沿いには農業を生業にする村が多く、麦や野菜を育てる畑が広がっている。東の道は他領へ続いており、外からの荷が入ってくる。


「季節で変わりませんか?」


 少し考えてから言うと、先生の眉がわずかに上がった。


「なぜそう思います?」


「収穫の時期なら川沿いから増えるし、冬の前なら山側から薪や木材が多くなる。外から来る荷なら東の道だと思います。でも、一番って言われると時期が分からないと決められません」


 少し間があった。


「その通りです」


 先生が地図から手を離した。

 隣でユリウスがため息をつく。


「もう僕たちと同じじゃない?」


「ああ、そうだな。地図の上ではな」


 レオルが言った。


「地図の上?」


「道を覚えただけじゃ分からないこともある」


「例えば?」


「坂がどのくらいきついとか、雨のあと何日くらいぬかるむとか。橋を渡る時に大きな荷車だとどこで詰まるとか」


「それは書いてないから分からないです」


「でも、僕たちは知ってるよ。父上について回ることもあるからね」


 ユリウスが少し得意そうに言った。

 レオルは以前から父上と領内へ出ることがある。最近はユリウスも時々ついていくらしい。村や街へ行き、橋を見て、市場も歩いている。俺が地図で覚えているだけの場所を二人は実際に見ている。


「アルノは行ったことないもんな」


「ないですね」


「行けば分かるよ」


「今は地図でいいです」


 すぐに答えると、ユリウスが笑った。


「早いよ」


「何が?」


「断るのが」


「だって外でしょう?」


「外だよ」


「なら今はいいです」


 屋敷の中なら手を洗える場所もある。飲み水も安心だ。何に使う布なのかもきっちり分けられている。わざわざ、どうなっているかも分からない場所へ行きたいとは思わない。

 レオルが呆れたように地図へ目を戻した。


「そのうち父上に連れていかれるぞ」


「その時に考えます」


「考えても行くことになると思うけど」


「その時に困ることにします」


 ユリウスがまた笑った。フェルナー先生まで少しだけ口元が笑っている。授業はそこで終わった。兄上たちは魔法の稽古へ向かう。

 俺は使った蝋板を片づけ、いつものようにリリアのもとへ向かった。けれど今日は、部屋の扉の前にミーナの姿がなかった。

 部屋の前で手を洗い、石鹸を流して布で拭く。仕方なく近くの使用人に扉を開けてもらおうとして、気がついた。

 部屋の中が妙に静かだった。

 鈴の音がしない。

 最近のリリアは起きていれば何かしら音を立てている。転がって布を擦る音。言葉にならない音だけの赤ちゃんらしい声。今日は何も聞こえなかった。

 使用人に扉を開けてもらう。

 母上が寝台のそばにいた。マルタもいる。ミーナは水を入れた器を持ったまま立っていた。誰も、こちらを見なかった。


「……どうしたの?」


 声をかけると母上が振り返った。その顔を見て、俺は足が止まった。


「……アルノ。リリアが……」


 寝台を見る。

 リリアが眠っていた。

 朝は大きな布の端まで転がってはミーナに何度も中央に戻されていた。俺が勉強へ行く時には仰向けのまま両脚を上げていた。

 今は動かない。

 よく見ると頬が赤かった。


「リリア?」


 近づこうとすると、母上の手が少し上がった。


「――待って」


 反射的に止まる。


「手は洗ったよ」


「ええ。分かっているわ」


 それでも母上はすぐに近づいてもいいとは言わなかった。母上は寝台へ目を戻す。


「熱があるの」


 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。


「……熱?」


「昼前から少し様子がおかしかったの。さっきから、もっと熱くなってきて……」


 リリアが浅く息を吐いた。閉じたまぶたがわずかに動く。いつもなら手を伸ばせば握りかえしてくる指も、今日は布の上にぐったりと置かれているだけだった。


「イルゼは?」


「呼びに行ってもらっているわ」


 母上がそう答えたところでようやく近づくことを許された。

 寝台の横まで行く。頬へ触れるのは怖くて、布から出ていた手に指を当てた。熱かった。思わず母上を見る。


「……こんなに?」


「ええ」


 もう一度リリアを見る。

 朝まで転がっていた。

 昨日も笑っていた。

 このひと月、できることは増える一方だった。

 手を洗った。

 布も分けた。

 水も気をつけた。

 それでも――ここより清潔な前世の現代日本でも――子どもは熱を出した。そんなことは分かっている。なのに、リリアの熱い手に触れた指を離せなかった。

 廊下の向こうから急ぐ足音が聞こえてきた。足音は扉の前で止まり、すぐに扉が開く。イルゼだった。母上へ挨拶をするより先にイルゼは寝台を見る。それでもそのまま近づかず、手洗い台へ向かう。袖を上げ、石鹸で手を洗う。布で手を拭いてからイルゼはリリアの額へ触れた。


「いつからです?」


「昼前には少し熱かったの。授乳を終えて眠ったあと、もっと熱くなってきて……」


「吐かれましたか?」


「いいえ」


「お腹は?」


「下してはいないわ」


 イルゼはリリアの口元を見て胸へ手を置く。そのまま腹へ触れ、顔色を確かめた。その手つきに迷いはなかった。イルゼはこれまで何人もの赤ん坊を見てきている。やがてイルゼが掛け布を少し持ち上げた。

 リリアの脚が見えた。膝は自然に曲がっている。以前のように真っすぐ伸ばして包んではいない。イルゼの手が止まった。視線が床へ移る。

 広く敷かれた布と端へ寄せられた家具。そして鈴のついた木の輪。寝返りを始めたリリアのために整えられた場所だった。

 イルゼがゆっくり顔を上げた。


「……奥様」


 声の調子が変わっていた。


「何かしら?」


「まだ、このようなことを続けておられたのですか」


 マルタの肩がわずかに震えた。

 母上は答えなかった。

 イルゼの目がもう一度、熱で赤くなったリリアへ戻った。

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