幕間 移るもの
エーデルハルトの屋敷へ戻った翌朝、クララはいつもの部屋で目を覚ました。
薄い朝日が窓掛けの隙間から入り、磨かれた床へ細長く落ちている。寝台の脇には昨夜脱いだ靴が揃えて置かれ、旅で使った衣装はすでに片づけられていた。
ヴァイスベルクへ発つ前と何も変わっていない。
侍女が湯を運んでくる。顔を洗い、髪を梳かされ、用意された服へ着替える。手にも水を流し、柔らかな布で拭いた。
その布を返そうとしてクララの手が止まった。
白い布だった。
端まで綺麗に洗われている。
汚れも染みもない。
それなのに、しばらく見てしまった。
「クララ様?」
「……何でもありません」
侍女へ返した。
おかしなことをしたと思う。
エーデルハルト家の布はいつも清潔だった。
洗濯を任されている者たちはよく働いている。汚れが残った布が部屋へ戻されることなど滅多にない。寝具は日に当てられ、卓に敷く布には皺一つなく、客を迎える部屋は使用人が何度も確認する。
王都から客人が来ても恥ずかしくない屋敷だと、クララは幼い頃から教えられてきた。
自分でもそう思っている。
エーデルハルト家は王都からの信頼も厚い。
父がそうであるように、家に仕える者もまた家名に恥じない振る舞いを求められる。客を迎える部屋が乱れていることも、食器に指の跡が残っていることも、衣服が汚れていることも許されない。
家が整っていることは、そこで暮らす者が役目を果たしているということでもあった。
クララはいずれこの家を出る。その先にあるのがヴァイスベルクだ。辺境にある家だからといって軽んじてよいとは教えられていない。むしろ遠く離れた土地へ嫁ぐからこそ、自分の家で身につけたものを持っていかなければならない。
礼儀も、読み書きも、算術も。
人を迎えることも、使用人を取りまとめることも、家の中に何があり、誰が何を担っているのかを見ることも。
だからヴァイスベルクではマルタについて屋敷を回った。知らない家へ入り、知らないやり方を覚える。それも婚約者として必要なことだ。
ただ、覚えることとそのまま持ち帰ることは違う。
それぞれの家にはそれぞれのやり方がある。
ヴァイスベルクにはヴァイスベルクの。
エーデルハルトにはエーデルハルトの。
母がこの家を取り仕切り、使用人たちはその決まりに従っている。それなのに、さっきの布を見た時に思ってしまった。これは何に使う布なのだろう、と。
そんなことを以前は考えたこともなかった。
朝食を終え、いつもの授業へ向かう。
文字を読み、算術をし、地図を見る。見慣れた土地だった。川の名前も村の位置も知っている。春にぬかるむ道も大きな馬車ならどこを通るのかも答えられる。
ヴァイスベルクでは反対だった。知らない道ばかりだった。そこでレオルは迷わず答えていた。
その隣で、あの三歳の少年だけが黙って地図を見ていた。
文字は読める。
計算は驚くほど早い。
それでも知らないことを聞かれれば、アルノは分からないと言った。
クララは尖筆を止めた。ヴァイスベルクに滞在していた時、一度だけレオルに聞いたことがある。
「どうして、皆様あれほどアルノ様のおっしゃることを守っていらっしゃるのですか?」
リリアの部屋から戻る途中だった。手を洗ったあとだったので自然とそんな話になったのだと思う。レオルはすぐには答えなかった。
「守ってるというか、決まりになったからかな」
「決まりに?」
「ああ」
「アルノ様がお決めになったのですか?」
「まさか」
レオルは少し笑った。
「父上だよ」
それなら分かる。
当主が決めたのなら使用人が従うのは当然だった。
けれど次の言葉は予想していなかった。
「アルノがあんまりうるさかったから」
「……うるさかった?」
「最初はすごかったんだ」
レオルが思い出したように息を吐いた。
「誰かが手を洗わずリリアのところへ行こうとすると止める。水だけで済ませても怒る。布を間違えても怒る」
「怒るのですか?」
「泣く時もあった」
「アルノ様が?」
「ああ」
思わず聞き返していた。
あのアルノが。
授業中には教師の話を聞き、分からないところを尋ね、三歳だから魔法はまだいいと平然と言っていた少年が。
レオルはそれがおかしかったのか少し笑った。
「本当に大変だったよ。だから父上と母上たちが話して、少なくともリリアの部屋へ入る前は全員洗うことになった」
「それだけの理由で、ですか?」
「最初はね」
あっさりした答えだった。
「手を洗ったところで僕たちは別に困らない。水と石鹸を用意する人たちは大変だけど、続けられないほどではないってマルタも言った。それなら、毎回アルノが騒いでみんなが止められる方が面倒だったんだ」
クララは言葉に困った。
「つまり……アルノ様を静かにさせるために?」
「たぶん、それが一番大きかったと思う」
レオルは真面目だった。
立派な理由があったわけではないらしい。
正しいと誰かが証明したわけでもない。
三歳の子どもがあまりにも嫌がるから家の決まりにした。
それだけだった。
「最初は忘れる人もいたよ」
レオルは続けた。
「そのたびアルノが見つけた」
「毎回ですか?」
「よく見てるんだ。誰がどこを触ったとか」
その言葉でクララは、庭から戻った日のことを思い出した。
手は綺麗だった。
朝の身支度でも洗っていた。
それでもアルノは言った。
そのあと庭へ出ましたよね、と。
「でも、今は誰も言われなくても洗う。僕もユリウスも」
レオルはそこで話を終えた。
クララもその時はそれ以上聞かなかった。
変わった家だと思った。変わった弟がいて、その弟を黙らせるために始めたことがそのまま家の決まりになってしまったのだと。
けれど今になって、別のところが引っかかった。
アルノは知らないことを知らないと言う。
領地の道も。
家の名前も。
魔法のことも。
何でも知っているふりはしなかった。
なのに汚れのことだけは違った。
見えないものがついているかもしれない。
水は煮た方がいい。
布は使う場所で分けた方がいい。
そこだけは、泣いてでも譲らなかったという。
尖筆の先が蝋板の上で止まった。
「クララ様?」
教師に呼ばれ、顔を上げる。
「失礼いたしました」
続きを書く。
考えても答えは出ない。
アルノが正しいのかどうかクララには分からなかった。
ヴァイスベルクの者たちだって、すべてを分かっているようには見えなかった。
それでも続けていた。
布を分ける。
水を分ける。
濁った魔法水は沈むまで待つ。
飲み水は煮る。
手を洗う。
そして、以前より腹を下して休む者が少なくなったと台所の女は言っていた。
水のおかげかどうかは分からない、とも。
分からない。
その言葉が頭に残った。
アルノも知らないことは分からないと言う。
なのに、あれだけ嫌がった。
では、あの子には何が見えていたのだろう。
授業が終わったあと、クララは母のところへ顔を出した。
窓の大きな部屋には午後の光が入り、床に敷かれた織物の模様を明るく浮かび上がらせている。棚には銀器が並び、どれも曇りなく磨かれていた。
母のそばでは使用人が手紙をまとめている。
いつもの屋敷だった。
整っている。
綺麗だった。
王都の屋敷にだって劣っているとは思わない。
クララはこの家が好きだった。だからこそ、ヴァイスベルクで見たものを理由にこの家のやり方が間違っているなどとは思えなかった。
その日の夕方、クララは妹の部屋へ向かった。
生後半年ほどの妹は乳母に抱かれ、窓際の椅子で眠っていた。頬は丸く、握った手は胸のあたりに置かれている。
クララが近づくと乳母が立ち上がった。
「本日はよく眠っておられます」
小さな顔を覗き込む。
ヴァイスベルクのリリアより少しだけ大きい。
眠ったまま口元が動いた。
触れようとして手を伸ばす。
指先が止まった。
朝、手は洗った。
昼食の前にも清めた。
今だって目に見える汚れはない。
けれどここへ来るまでに階段の手すりへ触れた。
扉にも触れた。
廊下で服の裾も直した。
庭には出ていないし、土にも触っていない。
「クララ様?」
後ろにいた侍女に声をかけられる。
クララは自分の手を見た。
「……水をお願いできますか」
「お水でございますか?」
「手を洗います」
侍女が目を瞬いた。
「先ほどお部屋へお戻りになった際に、お手は清めておりますが」
同じ言葉だった。
ヴァイスベルクへ着いた日にこの侍女自身がアルノへ言った言葉と。
クララもあの時は、それで十分だと思っていた。
「ええ」
手は綺麗だった。
汚れは見えない。
「ですが、もう一度洗います」
侍女はまだ少し不思議そうだった。
やがて水の入った器と石鹸が運ばれてきた。
クララは袖を上げる。
水に指を入れる前に一瞬だけ妹を見る。
アルノが正しいのかは分からない。
何を怖がっているのかも分からない。
ただ、あれほど理屈の通る子どもが、これだけは泣いてでも嫌がった。それをただの癇癪だったと決めつけることもできなくなっていた。
石鹸を手に取る。
指の間まで泡を広げ、水で流す。
何かが落ちたようには見えなかった。
水は最後まで澄んだままだった。




