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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら領地の「普通」がいつの間にか変わり始めました~  作者: 織 航(しき わたる)
第一部 屋敷の中

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第三十二話 婚約者たちと勉強しました

 翌朝。

 朝食の席はいつもよりずっと人が多かった。長い卓には父上たちだけでなく、エーデルハルト家とハルフェルト家の客人も並んでいる。厨房から運ばれてくる皿の数も増え、給仕の使用人が何度も台所から往復していた。昨日マルタが屋敷中を歩き回っていた理由がよく分かる。

 食事までこれだけ違うのだから今日は勉強も休みになるのかと思っていた。けれど食事を終えると、レオルはいつもの時間に席を立った。ユリウスも続く。

 俺も椅子から降りた。

 どうやら勉強はあるらしい。

 少しくらい休みでもよかったのに。

 一度部屋に戻って支度をしてから向かった。いつもの部屋へ入ったところで足が止まった。席が二つ増えている。クララとリーネがいた。クララの前には蝋板と尖筆がきちんと並び、リーネはすでに何かを書いている。

 俺が二人を見る。二人も俺を見る。先に口を開いたのはリーネだった。


「アルノ様もいらっしゃるのですか?」


「いますけど……」


「見学ですか?」


「――勉強します」


 リーネの手が止まった。


「……アルノ様が?」


「はい」


「三歳ですよね?」


「三歳です」


 昨日から何度確認されるのだろう。

 リーネは俺ではなくユリウスを見た。


「本当に一緒に?」


「そうだよ」


「いつも?」


「最近はね」


 リーネがもう一度俺を見る。その隣でクララも少し驚いていた。俺は逆に二人を見る。


「お二人も勉強するんですか?」


 今度はクララが目を瞬いた。


「もちろんです」


「……そうなんだ」


「しないと思っていらしたのですか?」


「少しだけ」


 クララの眉がわずかに動いた。

 言わない方がよかったかもしれない。

 前世で持っていた中世への知識なんて結局その程度だ。貴族の娘なら礼儀や刺繍を中心に習うものだと勝手に思っていた。それが滞在先でも当たり前のように勉強をしようとしている。

 クララが尖筆を持つ手は慣れているように見えたし、リーネも蝋板に書いた文字を布で消し、迷わず書き直していた。

 そこへフェルナー先生が入ってくる。


「皆様、お揃いですね」


 増えた二人を見ても驚く様子はない。


「クララ様とリーネ様も、ご滞在の間はこちらでご一緒されます」


 俺だけが知らなかったらしい。

 いつもの席へ座る。

 クララが何か言いたそうだったけれど授業が始まった。

 最初は読み書きだった。

 フェルナー先生が短い文章を書く。

 レオルが読む。

 続いてクララ。

 そしてユリウスとリーネ。

 最後に俺。

 一か月前なら一文字ずつ形と音を確かめながら読んでいた。

 今は見慣れた言葉ならそのまま文として追える。知らない単語が混じれば止まる。それでも前後を読み直せば、意味をある程度推測できるようになった。

 一つ目の文章を読み終えて顔を上げるとリーネがこちらを見ていた。

 二つ目のときもまた見ている。

 三つ目を読み終えたところで、とうとう口を開いた。


「……読めるのですか?」


「今、読みましたよね」


「そうではなくて――」


 リーネの声が少し大きくなる。


「どうして読めるのですか?」


「覚えたからです」


「いつからです?」


「兄上たちと勉強を始めてからなら一か月くらいです」


「……一か月?」


 今度はクララまで声を上げた。


「一か月でそこまで読めるようになったのですか?」


「最初は全然読めなかったよ」


 ユリウスが横から言った。


「本当に一文字ずつだった」


「では、なおさらおかしいではありませんか」


「僕に言わないでよ」


 リーネは納得していない。

 クララも俺の蝋板を見ている。

 俺にしてみれば一から勉強している感覚とは少し違った。

 この世界の文字は知らなかった。

 でも、一度文字が読めるようになればその先をどう覚えていけばいいのかは知っている。

 前世では当然、学校へ通っていた。試験のために覚えたこともある。仕事を始めてからは、知らない手順や決まり、人の名前を短い時間で覚えなければならないことも何度もあった。

 似ているものをまとめる。

 違うところを見つける。

 分からない言葉をそのままにしない。

 一度間違えたところはもう一度やる。

 特別に記憶力がいいわけではない。

 覚え方を知っているだけだ。


「まだ授業中ですよ」


 フェルナー先生に言われ、二人は前を向いた。

 けれど、それで終わらなかった。

 次は書き取りだった。

 これは今でも遅い。

 読むことはできても手がついてこない。三歳児は力が弱い。尖筆を握る指も小さいし、長く書けばすぐに疲れる。頭の中では先へ進んでいるのに俺が一行書く間にレオルは次へ進んでいる。

 クララも速い。

 字も綺麗だった。

 リーネも俺よりずっと形が整っている。

 さすがにそこは追いつけない。

 リーネが俺の蝋板を覗いた。


「字は普通……というか、遅いですね」


「普通って何でしょうか」


「もっと何でもできるのかと思いました」


「三歳ですよ」


「読めるでしょう?」


「書くのは別だと思います」


 リーネがまた俺を見た。さっきより訝しげな顔をしている。

 そのまま算術へ移った。

 フェルナー先生が数字を書く。倉に十二袋。そこへ八袋増え、そのうち七袋を台所へ運ぶ。残りはいくつか。最後の数字を見た時には答えが出ていた。


「十三です」


 口にしてから、まだ誰も答えていなかったことに気づいた。

 フェルナー先生が俺を見る。


「そうですね」


 ユリウスが小さく息を吐いた。

 レオルは一度こちらを見ただけだった。

 クララとリーネは違った。


「……え?」


 リーネが俺の蝋板を見る。まじまじと見つめたところで蝋板はきれいなままだ。何も書かれていない。


「――今、計算しました?」


「しましたよ」


「どこで?」


「頭の中でです」


「――もう?」


 今度はクララまで身を乗り出した。


「先生が書き終えたばかりですよ?」


「足して引いただけですから」


「――アルノ」


 レオルに止められた。


「はい」


「分かっても少し待て」


「……はい」


 そういえば前にも注意された。

 次の問題では答えが頭の中に出ても口を閉じたまま、様子を見た。

 ユリウスが蝋板に書き写していた。リーネは指を使って数えたり、蝋板に数字を書いているようだった。クララも似たようなものだ。やがてレオルが最初に答えた。そのあとにクララがすぐこちらを見る。


「アルノ様も同じ答えですか?」


「はい」


「いつ分かったのです?」


「先生が最後まで書いた時です」


 クララが黙る。

 リーネは自分の蝋板を見たあと俺の方をもう一度見た。唇が少しだけ尖る。どうやら本人はかなり悔しいらしい。三歳児に負けたのだから悔しいのも当然だろう。

 けれどユリウスは俺のことなど気にも留めていないような顔をしていた。それが余計に気になったのかリーネは今度はユリウスへ向き直った。


「いつもこうなのですか?」


「最近はだいたい」


「――悔しくないのですか?」


 ユリウスは一度俺を見た。

 それから少し面倒そうに息を吐く。


「最初は悔しかったよ」


「最初は? ――それでは今は?」


「もういいよ」


「でも三歳ですよ?」


「知ってるよ。毎日一緒にいるんだから」


 リーネはまだ納得できないらしい。


「それでも負けたくないとは思わないのですか?」


「最初は思ったって」


 ユリウスは今度こそ呆れたように俺を見た。


「昨日できなかったことが今日できて、今日分からなかったことも、すぐに分かるようになるんだよ。いちいち気にしてたら疲れるだろ」


「……そんなに?」


「そんなに」


 即答だった。

 その隣でクララがゆっくりレオルを見る。


「レオル様も同じなのですか?」


「……俺も最初は気になった」


「今は?」


「もう張り合ってない」


「どうしてです?」


 レオルは俺を一度見た。


「全部できるわけじゃないからな」


「?」


 クララが首を傾げる。

 そのまま次の授業が始まり、フェルナー先生が大きな羊皮紙を机に広げた。領地と周辺の地図だった。この一か月で何度か見ている。村や川の位置も少しは覚えた。フェルナー先生が一本の道を指す。


「冬の間、この道が使えなくなったとします。こちらの村からヴァイスベルクへ荷を運ぶなら、どうしますか」


 地図を見る。

 北にも南にも道がある。

 川沿いにも進めそうに見える。

 けれど、どれが使えるのか分からない。

 雪の深さも、坂も、荷車が通れる道幅なのかも地図には書かれていなかった。


「南へ回します」


 レオルが答えた。


「なぜです?」


「北は冬になると雪が深くなります。川沿いも荷車では通れない場所があります」


「そうですね」


 知らなかった。地図を覚えただけではどうにもならない答えだった。レオルがこちらを見る。


「分からなかっただろ」


「分からなかった」


「――そうか」


 ほんの少しだけレオルの口元が緩んだ。


「兄上、嬉しそうですね」


「別に」


「笑ってるよ」


 ユリウスがすぐに言った。

 レオルは地図へ目を戻したが今度は否定しなかった。代わりに呟く。


「――今くらいはいいだろ」


「今?」


 俺が聞き返すと、レオルは一瞬だけ俺を見る。


「そのうちお前も覚える」


 それだけ言って地図へ向き直った。

 ユリウスまで頷く。


「そうなんだよ。今は僕の方が道も家の名前も知ってるけど、そのうちアルノも覚えるんだろ」


「覚えたいとは思ってるよ」


「ほら」


 なぜか呆れられた。


「だから、今のうちは僕らが教えられることもあるんだよ」


 二人とも少しだけ機嫌がよさそうだった。

 会話が落ち着いたところで、フェルナー先生が次はクララへ問いかけた。


「――では、エーデルハルトからこちらへ来る場合はどの道を使いますか?」


「冬なら東の道を使います。遠回りですが、大きな馬車も通れます」


「昨日も?」


「はい。父上も今の季節はこちらを使うと」


 迷いがない。

 リーネも自分の領地に関わることは知っていた。

 春になるとぬかるむ道。

 馬を休ませる村。

 川が増水した時に避ける場所。

 俺には何一つ分からない。

 家同士の話へ移るとさらに差が出た。

 名前を聞けばレオルはどの家と付き合いがあるのか答える。クララも知っている。ユリウスも俺よりずっと多くの名前を覚えていた。リーネも父親と行き来のある家なら分かる。

 俺は聞きながら蝋板へ書き込む。ここでは考えても答えは出ない。前世の経験も使えない。知らないものは知らない。

 道も。

 家も。

 領地も。

 魔法も。

 この世界でしか知れないことは一つずつ覚えていくしかなかった。

 授業が終わる頃には頭より先に手が疲れていた。尖筆を置いて指を開く。まだ小さい。こればかりは前世の経験ではどうにもならない。向かいでリーネが俺の蝋板をまだ見ていた。


「本当に一か月なのですね」


「そうですよ」


「毎日ずっと勉強しているわけでもないのですよね?」


「兄上たちと同じくらいです。あとは分からなかったところを少し」


「それで……」


 言葉が続かなかった。

 クララも最初に部屋へ入ってきた時とは違う顔で俺を見ている。

 昨日は手を洗えと言い、赤ん坊を腹這いにしていた三歳児。今日は兄たちと同じ席に座り、一か月で文字を読み、計算までしている。自分でも並べられると少し嫌だった。変な子どもに見える。リーネが俺の字を見る。


「でも、字はユリウス様の方がお上手です」


「それは――そうです」


 ユリウスがすぐに顔を上げる。


「領地のことも僕の方が知ってる」


「……それも認めます」


「家の名前も」


「兄上の方が知ってます」


 ユリウスの機嫌が目に見えて良くなった。


「ならいい」


 さっきまで驚いていたリーネが今度はユリウスを見る。


「それでいいのですか?」


「いいよ」


 本当にそれでいいらしい。

 俺はクララの蝋板へ目を落とした。

 綺麗な文字。

 計算の跡。

 さっき聞いた家の名前まで書かれている。

 そこでようやく最初から引っかかっていたことを思い出した。


「クララ――様も、こういうことを全部覚えるんですか?」


「こういうこと?」


「文字とか計算とか。領地のこととか、家のこととかです」


「はい」


 当然のように返ってくる。


「どうしてですか?」


「必要だからです」


 クララが目を瞬いた。


「クララ様に?」


「はい」


「レオル兄上が覚えればいいんじゃないの?」


 部屋が少し静かになった。

 クララだけではなくレオルまで俺を見る。フェルナー先生は何も言わなかった。クララが少し考えてから答える。


「レオル様がいつもお屋敷にいらっしゃるとは限りません」


「……あ」


「領地を離れることもあるでしょうし、ご病気になることもあるかもしれません。その時に何も分からないのでは困ります」


 そこまで考えていなかった。


「それに、もし私がこの家へ参るのであればこちらのことを知らなければなりません」


 昨日、この屋敷へ初めて来たばかりだ。そのクララが、いつかここで暮らすことを当たり前のように話している。だからヴァイスベルクの土地や人のことまで覚えるのだろう。レオルと結婚すればいずれこの家に関わることになる。

 そこまでは分かった。

 けれどリーネはハルフェルトの領地や家のことも普通に答えていた。ヴァイスベルクのことも同じくらい知っていた。


「リーネ様もこの家のことを勉強するんですか?」


「もちろんです。ユリウス様もハルフェルトのことを勉強なさいますから」


 ユリウスを見る。本人も当然のように頷いた。

 むしろ何を聞いているのか分からない、という顔を二人にされた。


「ユリウス様はいずれハルフェルトで暮らされる予定です。でも、ヴァイスベルクのことを知らなくてよいわけではありません」


「レオル兄上がいるのに?」


「兄上に何かあれば僕が戻るからね」


 俺の問いにユリウスが頷いた。

 そこでようやく分かった。

 ハルフェルトはヴァイスベルクからそう遠くない近隣の領地だ。

 レオルがこの家を継げば、ユリウスはリーネとハルフェルトで暮らす。それでもヴァイスベルクとの縁が切れるわけではない。

 もしレオルに何かあれば次に家を継ぐのはユリウスだ。だからリーネはヴァイスベルクを学び、ユリウスもハルフェルトを学ぶ。どちらか一方だけ知っていればいい婚約ではないらしい。

 ここまで話を聞いて、フェルナー先生から見せてもらった家同士の繋がりを思い出した。

 レオルはこの家を継ぐ。クララはその隣に立つためにこの家のことを覚える。ユリウスはハルフェルトで暮らしながら、それでもヴァイスベルクのことを学び続ける。

 貴族の婚姻は相手が先に決まる。

 そこだけ見れば分かり易い。けれど同時に俺には理解しづらい。同じ婚約者でも同じではなかったからだ。

 前世なら相手を知ってから一緒に生きるかを決める。

 こっちは逆だし、役割もある。前世と違って複雑だ。先に決めてからそのあと何年もかけて知っていく。

 相手だけじゃない。

 家も。

 土地も。

 人も。

 自分がそこで何をするのかまで。

 俺が思っていたより、ずっと長い準備が必要だった。そのための婚約だった。


「……アルノ」


 ユリウスに呼ばれた。


「何ですか?」


「また難しい顔してる」


「――してない」


「してるよ」


 リーネが笑った。さっきまで俺を見て驚いていた顔ではなかった。

 四人ともまだ子どもだ。

 前世なら、まだ自分が将来どこで暮らすかなんて考えなくていい年齢だ。それなのに四人とも、もうそのための勉強をしている。クララが俺を見る。


「アルノ様?」


「……何でもないです」


 結局、今日も俺だけが別のところで驚いていた。

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