第三十一話 兄上たちの婚約者が来ました
朝から屋敷の空気がいつもと違っていた。
普段は閉じている客間の窓が開け放たれ、廊下には日に当てた寝具の匂いが残っている。厨房から運ばれていく食器も多く、玄関へ続く床は朝のうちにもう一度磨かれていた。
今日は普段と違ってマルタの姿をどこに行っても見かけた。
リリアのところにいるかと思えば客間を確認し、次に見た時には厨房へ向かっている。二つの家が数日滞在するとなれば、客人だけでなく付き添いの侍女や従僕まで増える。部屋も食事も湯も必要になるらしい。
屋敷中が忙しい理由を俺は数日前に知らされた。
兄上たちの婚約者が来る。
少し前にフェルナー先生から聞かされて以来、できれば考えないようにしていたものがとうとうやって来る。
昼前になると門の向こうから馬の音が聞こえた。
俺も家族と一緒に玄関前へ連れ出された。
父上と母上が一番前。その少し後ろにレオルとユリウスが並ぶ。
兄上たちの後ろには、それぞれ若い従者も控えていた。兄上たちとの勉強へ行くようになってから授業の前に顔を見ることはあった。でも、二人と話したことはほとんどない。
三歳の俺の後ろには誰もいない。
普段ならミーナがいるけれど今日は母上に代わってリリアを見ている。
馬車が止まると男が降りてきた。
「エーデルハルト伯爵。遠いところをよく来てくれた」
「こちらこそ。しばらく世話になる、ガルム」
父上と言葉を交わした男に続いて女性が降りる。そのあとに、一人の少女が姿を見せた。
レオルとそう変わらない年頃に見える。淡い金色の髪を後ろで編み、青緑の長衣を着ていた。旅のあとだというのに襟元まで乱れておらず、馬車を降りる時も自分で裾を押さえている。母上がその少女へ笑いかけた。
「クララも久しぶりね。少し背が伸びたかしら」
「ご無沙汰しております、エレオノーラ様」
クララ。
聞いたことのある名前だった。
フェルナー先生が広げた羊皮紙に、レオルと繋がっていた名前だ。
少女の後ろから若い侍女が降り、その少し後ろに控える。
続いてもう一台の馬車が止まった。
今度はユリウスが少し前へ出た。
「リーネ!」
「――ユリウス様。まだクララ様がご挨拶の途中です」
馬車から降りかけていた少女が、呆れたように言った。栗色の髪を肩の後ろで束ねている。服はクララほど飾りが多くないが、深い赤の布には細かな刺繍が入っていた。
「分かってるよ」
「でしたらお待ちください」
ユリウスが口を閉じる。後ろで父上が少しだけ笑った。もう一台の馬車から降りてきた男に声をかける。
「相変わらずだな、ハルフェルト」
「申し訳ない。うちの娘も人のことは言えんが」
父上と挨拶を交わした男の隣で、リーネの母親らしい女性がたしなめるように娘の髪を軽く整えた。リーネの後ろにも一人、侍女がついている。
俺は二人の少女を見比べた。
普通の女の子だった。
婚約者。
将来の妻。
そう聞いていたせいか、もっと別のものを想像していた。よくよく考えればレオルもユリウスも前世ならまだ小学生くらいだ。
「クララ。久しぶりだな」
レオルが言った。
「はい。レオル様もお変わりなく」
「道中は?」
「最後の坂が少し揺れました。でも大丈夫です」
「そうか」
二人とも真面目に気遣っていた。
何度か会っているらしい。今日のレオルは俺やユリウスと話す時とは少し違っていた。普段より背筋が伸びているし、クララも子どもなのにきちんと相手の顔を見て話している。
その隣では、ユリウス達が別の話題で盛り上がっていた。
「――持ってきた?」
「何をですか?」
「前に言ってたやつだよ」
「忘れました」
「……嘘だ」
「この前、ユリウス様も忘れたでしょう」
「あれは本当に忘れてたんだよ」
「わたしも同じです」
リーネが少し笑う。
ユリウスは不満そうだった。
俺は二組を交互に見た。同じ婚約者なのに雰囲気が全然違う。前に「好きなの?」と聞いた時、レオルはそういう話ではないと言った。ユリウスは嫌いではないと言った。今見ると、その違いが少し分かる。
ただ、それでも、この二人と結婚することが、もう決まっている。やっぱりそこだけは理解しづらかった。
「――アルノ」
母上に呼ばれて顔を上げる。
「ご挨拶を」
「あ」
見すぎてた。
慌てて教わった通りに名乗る。
するとクララが姿勢を正した。
「クララ・エーデルハルトと申します」
綺麗に一礼する。
その隣でリーネも続いた。
「リーネ・ハルフェルトです。よろしくお願いいたします」
こちらもきちんと頭を下げた。
俺よりずっと上手だった。俺は三歳なので仕方ない。そう思うことにした。少し悔しい。
挨拶が終わると大人たちは屋敷の中へ入っていった。父上と母上は客人の両親を連れて客間へ向かう。父上が途中で振り返った。
「レオル。二人を頼む」
「はい」
レオルはすぐに答えた。
いつもなら父上の後ろを歩いているのに今日は違う。自分の家へ来た客を迎えて案内をする。
クララも両親について行こうとはせず、そのままレオルの隣に残っている。
ユリウスはもうリーネと何か話していた。
兄上たちの従者が少し後ろにつく。二人の婚約者の侍女も同じだった。俺もついて行った。
二人ともこの屋敷へ来るのは初めてらしい。
最初は庭へ出た。
クララは歩きながら時々屋敷を振り返り、庭から見える建物や奥へ続く道を眺めていた。レオルが何か聞かれるたび、一つずつ答えている。
リーネの方はユリウスと先へ行きすぎて何度か従者に呼び止められていた。
婚約者と言われなければただ昔から知っている子ども同士にしか見えない。
変な感じだった。
庭を一回りして屋敷へ戻ったところでクララが足を止めた。
「妹君がお産まれになったとお聞きしました。おめでとうございます。リリア様はお元気なのですか?」
「ありがとう。ああ、元気だよ」
「お会いしてもよろしいですか?」
レオルが少し考えた。
「起きていれば大丈夫だと思う」
廊下を進んで行くとやがていつもの扉が見えてきた。その向こうではミーナがリリアを見ているはずだ。
レオルの従者が扉へ手を伸ばす。
クララとリーネもそのまま後ろから入ろうとした。
俺は二人の手を見た。
庭へ出た。
いろんな扉にも触った。
手すりにも触った。
何度か服の裾も直していた。
「――待って」
レオルの従者の手が止まる。
全員が俺を見る。
「どうした?」
「手を洗いました?」
クララが自分の手を見る。
リーネも同じように手のひらを返した。
「先ほど身支度の際にお清めしております」
答えたのはクララの侍女だった。
当然という声だった。実際、クララの指先は綺麗だ。爪の間に土が入っているわけでもない。
「そのあと庭に出ましたよね」
「はい」
「じゃあ、もう一回です」
侍女が一瞬黙った。
「……お嬢様のお手は汚れておりませんが」
「見た目は――」
「では、何を洗うのでしょう?」
「ついてるかもしれないものです」
「何が?」
リーネが聞いた。
早い。
「目に見えない、よくないものです」
「……見えないのですか?」
「見えません」
「見えないのに、ついているのですか?」
「ついてるかもしれないんです」
「……かもしれない?」
クララとリーネがそろって俺を見る。
その顔には覚えがあった。
リリアの産声と一緒に前世を思い出してから、屋敷の中で何度も向けられてきたものだ。
俺が何を言っているのか分からない時の顔。
説明しようとして口を開く。
その前にレオルが動いた。
「クララ。この家では、リリアに触れる前には手を洗っている」
クララがレオルを見る。
「レオル様も?」
「ああ」
レオルはそれだけ言って手洗い台へ向かった。ユリウスも何も言わずついていく。
「石鹸も使うんだよ」
リーネがその背中を見る。
「ユリウス様まで?」
「僕もだよ」
「この前、ハルフェルトの屋敷でお会いした時は、手を洗ったかなんて一度も気になさっていませんでしたよね?」
ユリウスが立ち止まった。
「……そうだったっけ」
「そうでした」
「じゃあ、そのあとからだ」
「何があったのですか?」
ユリウスが俺を見る。
見なくていい。
「――アルノがうるさいんだよ」
「兄上」
「……おかげで今はみんなやってるだろ」
反論できなかった。
レオルもすでに石鹸を使っている。
最初は二人とも面倒そうな顔をしていた。ユリウスなんて水で手を濡らしただけで済まそうとして、俺が何度か騒いだこともある。
それが今では俺が何も言わなくても石鹸を手に取る。兄上たちの従者も今ではそれに慣れている。
クララはしばらくレオルを見てから自分も手洗い台へ向かった。
リーネも続く。
侍女たちはまだ少し納得していない顔だったけれど、主人が洗うなら止める理由もないらしい。
ようやく全員が扉の前へ戻る。
レオルの従者が今度こそ扉を開けた。
扉が開かれると小さな鈴の音がした。
「リリア様、こちらですよ」
ミーナの楽しそうな声が続く。
窓から差し込む光の中に大きな布が広げられていた。ミーナはその横に膝をつき、青銅の鈴がついた木の輪をゆっくり動かしている。
「はい。こちらでございます」
その前でリリアが腹を下にしていた。
小さな腕で布を押し、重そうな頭を持ち上げている。輪が動くとリリアの目が追う。頭も少し遅れてついていく。ぐらりと首が揺れた。すっかり見慣れた腹這い遊びだった。
「えっ!」
リーネの声だった。
クララも固まっている。
「えっ、えっ……リリア様?」
リーネがレオルとリリアを交互に見る。
「どうして下を向いてるんですか!」
大きな声にミーナがようやくこちらを向いた。入口に並んだ俺たちを見て目を瞬く。
「……レオル様。ユリウス様。それにお客様もお越しだったのですね」
「――そんなことより!」
リーネが思わず一歩入る。後ろにいた侍女が慌てて肩へ手を添えた。
「リーネ様」
「だって、赤ちゃんが!」
クララも顔を強張らせていた。
「なぜこのような酷いことをされているのですか⁉︎」
ミーナがリリアを見る。リリアが「あう」と笑んだ。ミーナは首を傾げた。
「酷いこと……? いいえ、楽しんでおられます。まだ大丈夫でございます」
「まだ?」
クララの声が裏返った。
「まだって何ですか?」
「お疲れになれば仰向けにお戻しします」
「――それまで腹を下になさるのですか?」
完全に怯えている。
クララ付きの侍女もさすがに黙ってはいられなくなったらしい。
「失礼ながら、赤子のお身体はまだ柔らかく首も弱いものでございます。抱き上げる時にも首を支え、手足も無理になさらぬようお守りするものかと」
ミーナが少しだけ困った顔をした。
その説明は、少し前までこの屋敷でも当たり前だった。
「こちらでは赤子を腹這いにしてお育てになるのでございますか?」
丁寧な聞き方だった。
けれど俺には、ヴァイスベルク家ではそんなことも知らないのか、と聞こえた。
その時、リリアの頭がゆっくり下がった。
「あっ!」
クララとリーネの声が重なった。
「戻して!」
「落ちます!」
「大丈夫だよ」
ユリウスだけが平然としていた。
リーネが振り返る。
「どこがですか!」
「僕も最初は首が折れると思ったけど、折れなかったよ」
「折れる!?」
「ユリウス! 余計に不安にさせるようなことを言うな」
レオルが声を上げた。
「だって本当だろ。僕、絶対に折れると思ったもん」
「そんな顔で言わないでください!」
けろっとしたユリウスを見て、リーネが半分泣きそうになっている。クララまで不安そうにレオルの袖をつかんだ。
「――本当に大丈夫なのですか?」
「ああ。大丈夫だ」
その間にリリアの腕へまた力が入った。頬が布につく前に、頭がゆっくり上がる。クララがレオルの袖をつかんだまま固まった。リーネも口を開けたまま見ている。
「……上がった」
「だから言っただろ。最初なんて本当にちょっとだったんだよ。こう、ぺたってなって、少しだけ上がって、またぺたってなって」
ユリウスは得意そうに言う。自分まで首を上下させている。
「最近はもっと上がる。昨日なんか――」
「……ユリウス」
「何?」
「落ち着け」
さっきまで青い顔をしていたリーネが、今度はユリウスを変なものを見るような目で見ている。
でもまだ安心したわけではない。
クララ付きの侍女もリリアから目を離さなかった。
「ですが、なぜそのようなことを?」
「自分で首や背中を使うためです」
答えたのはミーナだった。
「使えないから、お支えするのではございませんか?」
侍女がすぐに返した。
ミーナが一瞬言葉に詰まり、俺を見た。
俺も何度も聞いた。
柔らかいから支える。まだできないから、できるようになるまで守る。この世界ではそちらの方が自然だった。
「……少しずつ使うんですよ」
俺が言った。
侍女たちが俺を見る。
「リリアが自分でできる分だけ。無理に頭を上げるわけじゃないです」
「――アルノ様が、お始めになったのでございますか?」
今度は答える前にユリウスが笑った。
「そうだよ。最初に言い出したのはアルノだ」
「兄上」
「だってそうだろ?」
「俺だけで決めたわけじゃない」
「――今はね」
クララは俺を見て、それからレオルを見る。
「レオル様は最初から賛成なさっていたのですか?」
「いや、最初は意味が分からなかった」
レオルはあっさり答えた。
「でしたら、どうして今は……」
「見ていたからだ」
レオルの視線がリリアへ向く。
「母上も見ている。危なければやめる。今のところ何も起きていないし、リリアは前より自分で頭を上げられるようになった」
「それだけなのですか?」
「それだけだ」
クララはまだ腑に落ちない顔をしていた。それでも、さっきのように今すぐ戻してとは言わなかった。
リーネはユリウスの横からリリアを覗き込んでいる。
「……本当に折れない?」
「折れないって」
「ユリウス様が言うと余計に怖いです」
「なんでだよ」
リリアの頭がまた少しずつ下がってきた。
今度はミーナがすぐ気づいた。
「そろそろお疲れでございますね」
両手を差し入れて抱き上げる。仰向けに戻されたリリアは、何事もなかったように脚をぱたぱたさせた。
「あぅ」
「はい。よくできました」
ミーナが嬉しそうに笑う。
それを見たリーネが、ぽかんとしたまま呟いた。
「……楽しんでる」
「何がですか?」
「そちらの侍女まで楽しんでいます」
ミーナの動きが止まった。
「私はリリア様のお相手をしているだけでございます」
「その言葉、前にも聞いたことある」
俺が言うとミーナに睨まれた。クララはしばらくそんな俺たちを見ていた。それから隣にいるレオルへ視線を戻す。
「前にエーデルハルトの屋敷でお会いした時とは、レオル様も少し違いますね」
「――そうか?」
レオルは眉を寄せた。少し考える素振りをした。
「……いや、そうかもしれない」
本人は誰かに言われるまで気づいていなかった。
もう、それが普通になっていた。




