幕間 守るもの
アルノたちが部屋を出たあとも、エレオノーラはしばらく寝台のそばに腰を掛けていた。
リリアは眠る様子もなく、ほどいた布の上で小さな脚を動かしている。膝を曲げ、足先を開き、伸ばしたかと思えばまたすぐに元へ戻る。
先ほどまでなら、マルタがその脚を揃えていただろう。
柔らかい体が曲がったままにならないように。
エレオノーラもそれが当然だと思っていた。
レオルもユリウスもアルノも同じように育ててきたし、三人とも何の問題もなく歩き、走っている。念のためイルゼにも確認したが、返ってきたのは今までの包み方で問題はないという答えだった。
経験のある者に尋ね、その答えまで得たのだから、これまで通りにしてよいはずだった。
それでもアルノは納得しなかった。
頑固な子だとは前から思っていたし、今回も最初はそうなのだと思った。
けれど今日のアルノは、自分を信じろとは言わなかった。
むしろ自分の話は信じなくてもいいと言った。ただ、リリアを見てほしいと。
エレオノーラは寝台へ手を伸ばした。
指先を近づけると小さな踵が触れた。押すように脚が伸び、そのままにしていると、やがて膝がまた曲がる。
思い返せばアルノもこうだった。
レオルも、ユリウスも。
包みをほどけば脚を曲げ、それを大人が伸ばして包み直した。そうして三人とも今はまっすぐ立っているのだから包んだおかげなのだと思っていた。マルタも同じように考えている。
けれど、伸ばして包まなかった子を見たことがあるのかと問われて、誰も答えられなかった。
知らなかったのではない。
考えたことがなかったのだ。
赤子とは脚を伸ばして包むもの。それが子を守るやり方なのだから、それ以外を確かめる必要などないと思っていた。
エレオノーラは自分の手を見た。
これまで三人の息子をこの手で何度も包んできた。リリアも同じように育てるつもりだったし、それが間違っていたと思っているわけでもない。アルノの言う方法が正しいと決めたわけでもなかった。
ただ、一つだけ、どうしても頭から離れないことがあった。
自分は、いったい何を守ろうとしていたのだろう。
赤子を包むというやり方を守りたいわけではない。守りたいのは、そこに包まれているリリアのはずだった。
今までは、その二つを分けて考える必要がなかった。
赤子を守るために包むのだから、教えられた通りに包むことがそのまま子を守ることだと思っていた。
けれど、もしその二つが同じではないのなら。
守るために続けてきたやり方が、本当に目の前の子に合っているのか。それを確かめようともしないまま形だけを守り続ければ、いつの間にか、何を守るためのものだったのかさえ見えなくなるのかもしれない。
そこでようやく、エレオノーラはアルノのこれまでの行動を思い返した。
最近のあの子は妙なところに細かい。
リリアに触れる前には手を洗わせ、布には用途を決め、水壺には印をつけ、前掛けまで分けさせた。一度必要だと思ったことには驚くほど執着し、誰よりもうるさく守らせる。
そのくせ、皆が昔からしてきたことには平気で疑問を口にする。
矛盾しているように思えた。けれど今なら、少しだけ分かる気がした。アルノにとって大事なのは、決まりそのものではないのだろう。
何のためにそうするのか。
誰を守るためにそうするのか。
そこが先にあるから、必要だと思えば自分で新しい決まりまで作る。逆に、合わないと思えば昔から続いていることにさえ首を傾げる。
エレオノーラはじっと娘を見つめた。
貴族の子は幼い頃から、立場に伴う責任について教えられる。
家の名を汚さぬこと。
与えられたものが多いのならそれに見合う責務を果たすこと。
自分より弱い立場にある者を己の都合だけで扱わぬこと。
エレオノーラ自身もそう教えられて育ったし、今はレオルへ同じことを教えている。
幼い頃は、それを身分ある者が守るべき作法のように覚えていた。けれど大人になり、家を持ち、子を持てば、それだけではないことが分かる。
人の上に立てば、自分一人で済まないことまで決めることになる。
それを拒むこともできない。
決める力があるからこそ、その決断の先にあるものまで責任を持たなければならない。
寝台の上にいるリリアも今は何ひとつ選べなかった。
どんな布に包まれるのか。
どんな姿勢で寝かされるのか。
腹這いにされるのか。
大人が良いと思ったことを受け入れるしかない。
だから大人が、この子の代わりに選ぶ。
けれど、正しいと思うものを選んだだけで終わりではないのだろう。
その先でリリアがどうしているのか。
守るために選んだものが本当にこの子を守っているのか。
そこまで見てこそ選んだ者の責任になる。
三歳の子どもが、そこまで考えているとは思えない。
おそらくあの子は、リリアの脚が心配で、どこかで知った育て方をしてやりたいだけなのだろう。
それでも、やっていることは不思議なほど似ていた。
教えられた形をただ守るのではなく、何を守るためのものなのかを見失わない。
自分の判断を正しいと信じるだけではなく、その先にいる者を見る。
エレオノーラ自身、幼い頃から何度も教えられ、今になってようやくその意味が分かり始めたことだった。それをアルノは、誰に教えられた様子もなくやっている。
もしかするとこの子は、貴族として生まれた者が最後に身につけるべきものを三歳にしてすでに掴みかけているのではないか。
そんな考えが浮かぶと、今度は別の気持ちが芽生えた。
もし、アルノが長男だったなら――。
今のレオルにはないものを、アルノはすでに持っているのかもしれない。
誰も疑わないことに目を留め、教えられた答えだけで安心せず、自分の目で確かめようとする。守るものを先に見て、そのためなら方法を変えることにもためらいがない。
人の上に立つ者にとって、それは大切な資質だと思う。まして、まだ三歳である。このまま育てばどんな子になるのだろう。
そこまで考えたところで、エレオノーラは頭を横に振った。
古い記録にしか似た例がないほど珍しい魔法の適性を示しながら、土に触るのが嫌だからと稽古をやめた息子。
屋敷中の布に色の違う糸を縫わせ、水壺にも前掛けにも印をつけさせた息子。
そして今日、十二歳の見習いを巻き込み、誰にも言わず生まれて間もない妹を床へ伏せていた息子。
しばらく考えてから、エレオノーラは小さく息を吐いた。
長男のレオルは真面目だ。
教えられたことをよく聞き、自分に与えられた役目から逃げず、分からないことがあれば学ぶ。覚えたことを一つずつ自分のものにしていく。
あの子なら、いつか家を背負うことになっても簡単には投げ出さないだろう。
アルノは――おそらく途中で立ち止まる。
誰も気にしていなかったものを見つけ、なぜなのか、本当にそれでよいのかと考え始める。そして一度気になれば、自分だけでなく周囲まで巻き込む。
それが必要な時もある。
けれど、当主が何かあるたびに立ち止まっていては周囲もずいぶん大変だろう。
エレオノーラの口元がわずかに緩んだ。
やはり、長男はレオルでいい。
真面目な兄が前を見て歩き、その横でアルノが時々、妙なところに引っかかる。レオルが当たり前だと思って通り過ぎそうになった時に、横から一言、変なことを言う。そのくらいがきっとちょうどいい。
寝台の上でリリアがまた脚を曲げた。
エレオノーラはその小さな足へ手を伸ばし、触れる寸前で止めた。
今はまだ伸ばす必要はない。
もう少し、この子がどうするのか見ていよう。
ふと視線が重なった。リリアは何も知らない顔で「あう」と声を上げ、頬を丸くして笑った。
エレオノーラもつられるように笑った。




