第三十話 妹を見てくれるようになりました
俺の言葉を聞いて、母上はミーナに抱かれたリリアへ目を落とした。
リリアはさっきまで腹這いになっていたことなど忘れたように自分の手を眺めている。少し開いて、また握る。口へ持っていこうとして頬に当たり、泣きそうになった。自分の手と分かっているのか、まだ分かっていないのか。
「何を見ればいいの?」
「今のリリアです」
「……今の?」
母上は答えを探るようにリリアに目をやった。
俺も言葉を探す。腹這いを始めてひと月。リリアは前より首を持ち上げられるようになった。
「腹這いをしたから首がお強くなった、とおっしゃりたいのでございますか」
先にマルタが言った。
「リリア様もひと月お育ちになったのです。何もしなくとも、以前よりお体がしっかりなさるのは当然ではございませんか」
「うん。俺も、腹這いのおかげだけなのかは分からない」
俺が肯定すると、マルタが少し意外そうな顔をした。
「でしたら――」
「でも、腹這いにしたせいで悪くなったところも今のところないよ」
マルタが口を閉じた。
それで腹這いが正しいと証明できるわけじゃない。
ただ、危ないと思っていたことを実際にやってみて、今まで何が起きたのか。それなら今の俺たちにも分かる。俺はミーナを見る。
「毎回見てたよね」
「はい」
ミーナはまだ母上の前で硬直していた。
「やっていたのは起きておられる時だけです。授乳のすぐあとは避けておりました。少しでも苦しそうでしたらお戻しして、お顔の色も見て……」
「泣くこともあったでしょう?」
「最初はすぐにお戻ししました。その後も、いつもと違う泣き方ではないか確かめておりました」
「あなたが決めたの?」
ミーナの肩が強張った。
「……はい」
母上がミーナを見る。
さっきまでとは違う意味で部屋が静かになった。
「――ミーナ」
「……はい」
「何も起こらなかったからといって、黙ってしてよかったことにはならないわ」
「……申し訳ございません」
ミーナが深く頭を下げる。
「アルノに言われて始めたのね?」
「はい。ですが――」
一度言葉を切る。
それでもミーナは俯かなかった。
「続けたのは私の判断でございます」
母上は何も言わず続きを待った。
「何度かなさっても、リリア様がおかしくなられることはございませんでした。少しずつお顔を上げられるようにもなって……それに、楽しそうになさる時もございましたので」
最後だけ少し声がしぼんだ。
マルタが額へ手を当てる。
「楽しそうだからと、奥様に黙ってなさってよいことではありません」
「はい……」
「マルタ」
母上が止めた。
「その話はあとにしましょう」
「ですが奥様」
「私も聞きたいことがあるの」
母上がもう一度リリアを見る。
ちょうど脚が動いた。仰向けに抱かれたまま膝を曲げ、小さな足がミーナの腕を蹴る。
「――アルノ。あなたが見てほしいのは腹這いだけ?」
「違います」
俺もその脚を見る。
「それもです」
「おくるみね」
「はい」
マルタの表情が変わった。
こっちは腹這いよりずっと簡単にはいかない。
分かっている。
「ほどいた時、リリアはいつも脚を曲げるでしょう?」
「それは以前にも申し上げました。赤子とはそういうものでございます」
「俺もそうだった? 俺が赤ちゃんだった時も布をほどいたら脚を曲げてた?」
「ええ。それはもちろん」
「レオル兄上も?」
「同じでございました」
「ユリウス兄上も?」
「皆様よく動かしておられましたよ」
母上も頷いた。
「あなたは特によく蹴っていたわ。包み直したそばから布が緩んでしまって」
「……今のリリアみたいに?」
「ええ」
初めて聞いた。
それなら、なおさら気になった。
「そのたびに伸ばして包んだんですよね」
「そうでございます」
マルタは迷わなかった。
「そのおかげで、坊ちゃまたちは皆まっすぐお育ちになったのでございます」
やっぱり、そうなる。
脚を伸ばして包んだ。そして俺たちは今、普通に立って歩いている。マルタにとってはそれが何より確かな答えだった。
「……本当に?」
「何がでございますか」
「伸ばして包んだから?」
「――そう申し上げております」
「じゃあ、包まなかったらどうなったの?」
「曲がったままになることがございます。ですから――」
「そうじゃなくて」
言い方を考える。
マルタのしてきたことを否定したいわけじゃない。
俺だって目の前で確かめたわけではない。
「脚を伸ばして包まなかった赤ちゃんをマルタは見たことある?」
これまでの即答とは異なり、返事はすぐに来なかった。何かに気づいたようにマルタは息を呑んだ。しばらくしてから声を絞り出すように口を開いた。
「……そのようなことはいたしません」
「じゃあ、そのまま育てたら本当に脚が曲がったところは見たことがないの?」
「ですから、そのような育て方をする者は――」
そこで言葉が途切れた。
母上がマルタを見る。
俺はリリアへ視線を戻した。
また脚が動いている。
膝を曲げる。
少し開く。
伸びても、すぐ元へ戻る。
「俺たち三人も、赤ちゃんの時はこうだったんですよね」
「……はい」
「でも今は普通に立ってる」
「それはきちんと包んだからでございます」
「そうかもしれない」
マルタが瞬きをした。
「でも、大きくなったからかもしれない」
「坊ちゃま……」
「俺にも、どっちかは分からないよ」
分からない。
それは本当だった。
俺には前世の知識がある。
脚を伸ばしたまま固定するのは良くないと知っている。でも、それをここで証明することはできない。
「ただ、ずっと伸ばして包んでたのに、ほどけば俺たちも脚を曲げてたんでしょう?」
「そうね」
今度は母上が答えた。
「リリアも毎回そうだよ?」
母上はリリアの脚をじっと見た。
小さな膝がまた曲がる。
「……イルゼにも聞いたわ」
母上は言った。俺は顔を上げた。
「聞いてくれたんですか?」
「約束したでしょう」
「何て?」
「今まで通りで問題ないと言っていたわ」
やっぱりそうだった。
落胆より先に納得した。イルゼだってこの世界で赤ん坊を取り上げてきた人だ。
「イルゼは脚を伸ばさずに育てた赤ちゃんを見たことあるのかな」
母上が黙った。
マルタも何も言わない。
みんな同じように包んでいるのなら比べる相手がいない。
しばらくして、母上がリリアの足先へ触れた。小さな踵が指を押す。膝が伸びて手を離せばまた曲がった。
「……私たちは」
母上がぽつりと言った。
「こうして包んで育った子しか、見ていないのね」
「奥様」
マルタが母上を見る。
「あなたが間違っていると言っているのではないわ。私も同じように教わったもの。レオルもユリウスもアルノも、そうやって育てた。それで三人とも元気に育ったわ」
「――はい」
「だから、それが正しいと思っていた」
母上はもう一度リリアを見る。
「でも、それしかしていないのなら、それ以外がどうなるのかは知らないということでもあるのね」
マルタはすぐには答えなかった。
その顔にはまだ納得できないものが残っている。
当然だった。
何人もの赤ん坊をそうやって世話してきた。
自分もそう教わってきた。
そして実際、子どもたちは育っている。
それを今さら三歳児の一言で考えを捨てられるはずがない。
「――奥様。長く続いてきたやり方には理由がございます」
「ええ」
「赤子のお体は柔らかいものです。だからこそ、きちんと支えて差し上げる必要がございます」
「それも分かっているわ」
母上はマルタを否定しなかった。
一つずつ確かめるように頷いた。
「今までのやり方をやめるつもりもないわ」
俺は少し肩を落とした。でも母上の言葉はそこで終わらなかった。
「だから、見てみましょう」
「……何をでございますか?」
「リリアを」
母上の指先に小さな足がまた触れる。
「アルノの言う通りにすると決めるわけではないわ。おくるみも今まで通り使う。でも、起きている時まで急いで脚を伸ばして包み直す必要があるのかは見てみたい」
「奥様」
「私かあなたがそばにいる時だけよ。もし本当に、曲げたままにしておくことで悪くなるのなら、それも見なければ分からないでしょう?」
マルタが口を閉じた。
母上は続ける。
「腹這いも同じ。眠っている時にはしない。授乳の直後もしない。必ず誰かがそばにいて、短い時間だけ」
「……リリア様でお試しになるのでございますか」
「試すというより、見るのよ」
母上は少し考えてからリリアへ目を戻した。
「アルノが正しいかどうかを見るのではないわ。この子がどうするのかを見るの」
マルタはすぐには答えなかった。
リリアを見て、母上を見て、最後に俺を見た。納得した顔ではない。それでも最初のように、ただ否定するわけでもなかった。
「少しでも危ないと思いましたら、すぐにお戻しいたします」
「ええ」
「私の判断でもよろしいのでございますね」
「もちろんよ」
それでようやくマルタが小さく頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は何も言わなかった。
母上は俺を信じたわけではない。
マルタも今までの考えを捨てたわけではない。
それでよかった。
俺だって、この世界の全部を知っているわけじゃない。ただ、今まで当たり前だったものと目の前のリリアを一度並べて見てくれる。それだけで十分だった。
リリアがまた脚を動かした。母上の手のひらを小さな踵が押す。
「元気ね」
母上が笑った。
少なくとも今は、誰もその脚をまっすぐに戻そうとはしなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話は幕間となります。
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