第二十九話 妹を見てください
腹這いを始めてから、ひと月近く経った。
もう俺が毎回頼んでやってもらうものではなくなっていた。
リリアの機嫌がよければ、ミーナの方から「今日は少しなさいますか」と聞いてくることもある。大きな布も、俺が言う前に用意されている。
もちろん、何でもいいわけではない。
起きていること。
授乳の直後ではないこと。
顔色が悪くないこと。
少しでも様子がおかしければすぐにやめること。
最初にミーナが決めた条件は、今も一つも変わっていなかった。
その日も母上とマルタは散歩に出ていた。
大きな布の真ん中でリリアが腹這いになっている。
ひと月前は、頭を持ち上げようとして顎がほんの少し浮くだけだった。
今は曲げた腕を胸の横につき、自分で顔を持ち上げている。
とはいっても、まだ余裕はない。重そうな頭が少し右へ傾き、戻そうとして今度は左へ揺れる。それでも頬を布につけず、小さな腕で懸命に体を支えていた。
「今日は長いね」
「昨日よりもしっかりしておられます」
ミーナも床へ膝をつき、リリアの正面から覗き込んでいる。
ミーナが木の輪を持ち上げると青銅の鈴が、ちり、と鳴った。
リリアの目がそちらへ動く。少し遅れて顔もついていった。輪が右へ動けば右へ。左へ戻れば、途中まで追いかけて一度見失う。目だけが止まり、不思議そうな顔をした。
ミーナが輪を少し戻すとまた見つける。その途端、曲げていた脚までぱたぱたと動いた。膝を曲げたり伸ばしたりして、足先が布の上で忙しく動く。
「見つけられましたね」
ミーナの声まで嬉しそうだった。
「ミーナの方がやっぱり楽しんでない?」
「そのようなことはございません」
「じゃあ、その顔は?」
「坊ちゃま」
「はい」
最近は怒られる前に黙れるようになった。
ミーナがまた輪を動かす。
リリアが目で追う。
頑張っていた首が少しずつ下がってきた。
とうとう力が抜け、片方の頬がぺたんと布につく。
「あ」
ミーナの手がすぐに伸びた。けれどリリアの顔に触れる前に止まる。
リリアは泣かなかった。横を向いたまま、ふう、と小さく息を吐いた。
少し休んでいるだけらしい。
鈴がもう一度鳴ると、目だけがそちらを探した。それから小さな腕に力が入り、重そうな頭が、またゆっくり持ち上がった。
「まだなさるのですね」
「やる気あるみたい」
リリアが「あぅ」と声を漏らした。
何かを訴えているのか、ただ声が出ただけなのかは分からない。
でもミーナは当然のように返事をした。
「はい。こちらにおりますよ」
もう完全に遊んでいる。
俺たちは二人ともリリアに夢中だった。
だから扉が開いたことに気づかなかった。
「――何をしているの?」
背後から声がした。母上の声だった。
ミーナの肩が跳ねた。手にしていた輪まで揺れ、鈴がちりんと大きく鳴る。
「奥様⁉︎」
ミーナが立ち上がろうとして、途中で止まった。リリアを置いたまま離れるわけにもいかない。片膝をついた姿勢のまま顔だけが母上とマルタを行き来する。
「これは、その――」
マルタは何も言わなかった。
床に広げた大きな布。
その上で腹を下にしているリリア。
そして俺と鈴の輪を握ったミーナ。
その順に視線が動いていく。
母上も同じだった。驚いているというより、目の前の光景をどう受け取めればいいのか分からないような顔をしている。
「ミーナ」
「はいっ!」
「リリアを――」
母上の言葉が途中で止まった。
先に動いたのはリリアだった。さっき大きく鳴った鈴から目を離し、開いた扉の方を見る。顔もそちらへ向けようとして頭が一度ぐらりと揺れた。頬が落ちそうになる。それでも小さな腕でもう一度布を押し、顔を持ち上げた。母上を見つけると、リリアの目が少し大きくなった。
「あぅ」
母上は口を開けたまま固まった。リリアが母上を見たまま、もう一度声を出す。
「ぁう」
リリアの口元がゆっくり緩むと頬が丸く持ち上がり、目まで細くなる。歯のない口を大きく開けて、嬉しそうに笑った。脚まで一緒にぱたぱたと動き出す。腹這いのまま膝を曲げたり伸ばしたりするので、小さな体が布の上で揺れた。その拍子に頭もまたぐらつく。それでも母上から目を離さない。
「……リリア?」
母上の声が変わった。
さっきまで俺たちへ向けていた硬さが消えている。
母上がリリアに一歩近づく。するとリリアの腕がまた動いた。届くはずもないのに、母上の方へ伸ばすように小さな拳が前へ出る。
マルタも動かなかった。何か言いかけていた口を閉じ、今度はリリアの背中から首へ視線を移している。
「……首を」
小さく呟いた。
「自分で持ち上げておりますね」
「……最近は、少し長くできるようになられました」
ミーナがおそるおそる答えた。言ったあとで、自分から何度も続けていたことを白状したと気づいたらしい。しまったとばかりに口をおさえた。
「――最近?」
母上が振り返る。
「……はい」
「何度したの?」
「その……」
ミーナが俺を見る。
「結構だよ」
「坊ちゃま!」
「嘘ついても仕方ないでしょ」
マルタが信じられないとばかりに額へ手を当てた。
でも、その間にもリリアはまだ動いていた。
少しずつ頭が下がっていく。とうとう力が抜け、今度こそ頬が布についた。ぷくっとした頬が片方だけ押され、口まで少し尖る。さっきまであれだけ頑張っていたのに休む時は急だった。
「もう終わりだね」
俺が言うより早くミーナが手を伸ばしていた。最近は、リリアがどのくらいで疲れるのか俺より分かっている時がある。抱き上げられると、リリアは少しだけ不満そうな声を漏らした。ミーナの腕の中で仰向けへ戻されても足を動かしている。もう一度やりたいのか、ただ動きたいだけなのかは分からない。
「……大丈夫そうね。危なくはなかったの?」
母上が安堵したように息を漏らした。
「ずっと見てたよ。起きてる時だけ。眠りそうなら戻すし、苦しそうなら終わり。ミーナの方が俺より厳しいくらいです」
ミーナが小さく頷く。
「今日もアルノに言われたから?」
ミーナの動きが止まった。
一瞬だけ迷ってから、ゆっくり首を振る。
「……いいえ。今日は私も大丈夫だと思いました」
俺はミーナを見る。
母上も見た。
ミーナは俯かなかった。
「最初は怖かったです。でも、少しずつお顔を上げられるようになって……終わったあとはいつも通りでございます。それに――」
ミーナが腕の中のリリアを見る。リリアはもう何事もなかったように、自分の手を眺めていた。拳を少し開いて、また握る。口へ持っていこうとして途中で頬に当たった。頬にぶつけた手を不思議そうに見つめていた。
「楽しそうにしておられます」
母上の視線もリリアへ戻った。
それを見て俺もあのときのことを振り返った。
脚を伸ばさないで――。
どこで知ったのかも言えない話。
うまく説明することもできなかった。
母上が信じなかったのは当然だ。
でも今は違う。
目の前にリリアがいる。
「――母上」
「何?」
「俺の話は信じなくてもいいです」
母上がこちらを見る。
「リリアを見てください」
今度は、迷わなかった。




