第二十八話 妹に床を這わせたいです
床のことが気になってから何度か母上に言おうとした。
でも、そのたびにやめた。
おくるみのことで母上はイルゼに確認すると決めたばかりだ。マルタにも、また何か言い出したと思われる気がする。今度は床まで気になると言えば、さすがに呆れられるだろう。自分でもそう思う。
だから父上にそれとなく聞いてみることにした。
書斎へ行くと父上はいつものように机へ紙を広げていた。俺は椅子に座り、できるだけ何でもないことのように口を開く。
「――父上。赤ちゃんが這うようになったら、床ってどうするんですか?」
「……どうするとは?」
「その……這いますよね?」
「這うことはあるだろう」
「その時です」
父上が俺を見る。
意味が分からないらしい。
「床が何だというんだ?」
「汚れてるでしょう?」
父上が足元を見る。
俺も見る。
綺麗に掃かれている。けれど、裸足になりたいとは思わない。
「掃除はしている」
「そうじゃなくて。外を歩いた靴でも歩いてます」
「それがどうした?」
「リリアが手をつくんですよ?」
「這えばな」
「その手を口にも入れます」
「――なら見ていればいいだろう」
そういう問題ではない。
俺が黙っていると、父上はしばらく俺を見たあと、むしろ別のところが分からないという顔をした。
「そもそも、そこまで這うのか?」
「――え?」
何を言われたのか一瞬分からなかった。しかしその顔を見ていると、父上にとっては赤ん坊が長い間床を這い回るという前提そのものがないということが分かった。
「這うくらいに足に力がついてきたら立たせるだろう。最初は歩行器を使えばいい」
「……その前は?」
「抱いていればいい」
「いや、そうじゃなくて。自分で動くようになったら――」
「だから、その頃には立つ練習を始めればいいと言っている」
父上は何でもないことのように言った。
俺はすぐに返事ができなかった。
赤ん坊はある日いきなり立ち上がるわけではない。首を上げる。寝返りをする。腹這いで腕や肩を使う。ずり這いをして、自分で重心を動かすようになる。それから手と膝で体を支え、前へ進む。
全部の子どもが同じ順番を通るわけではないし、はいはいをほとんどしないまま立つ子だっている。それでも、床の上で自分の体を支えて動くことには意味がある。
這うためには腕だけではなく、背中も腹も使う。傾いた体を戻し、片方の手を離せば残った手と膝で支える。進むたびに体重を移し、自分で姿勢を立て直す。前世では、そのあたりをまとめて体幹と呼んでいた。
知り合いにも、子どもを一歳から保育園へ預けていた人がいた。つかまり立ちばかりしたがる子だったらしく、保育園から家でももう少し這わせてくださいと言われた、と笑っていた。
その時は深く考えなかった。
でも、自分に子どもができて調べてみれば、立つことだけを急がせればいいわけではないと分かった。這っている間にも、歩く時に必要になる体の支え方や重心の移し方を学んでいく。だから俺の中では、はいはいは、歩けない赤ん坊が仕方なくするものではなかった。歩くまでの時間そのものだった。
「這った方がいいんです」
「なぜだ?」
「体幹を使うからです」
「たいかん?」
そこからだった。
「体の真ん中です。お腹とか背中とか。そこがしっかりしてないと、立った時にぐらぐらするでしょう?」
「最初はぐらぐらするものだろう」
「だから、その前に――」
「だから歩行器を使えばいい」
噛み合わない。
俺は立つ前に、自分の体を自分で支えるための時間が必要だと言っている。
父上は、支えられないなら道具で支えればいいと言っている。
同じ赤ん坊を見ているのに考え方がまるで違った。マルタの時と一緒だ。
「歩行器で支えるんじゃなくてリリアが自分で支えるんです。這えば腕も背中も使うし、動きながら体を支えるから」
「立つようになれば、どのみち腕や背中を使うだろう」
「立つ前から使った方がいいんです」
「――なぜ、そこまで立つ前にこだわる?」
父上は本当に分からないらしい。
俺も言葉に詰まった。
医学書を丸ごと覚えているわけではない。体幹のどの筋肉がどう働いて、はいはいを何か月すれば何がどれだけ変わるなんて説明はできない。
そもそも、はいはいをしなければ歩けないわけでもない。
だから余計に難しかった。
それでも、意味がないわけではないことだけは知っている。
「立てるようにするためだけじゃないんです。自分で体を動かして、支えて、崩れたらまた戻して。それを何度もすることにも意味があるんです」
父上は少し黙った。
ようやく考えてくれたのかと思った。けれど、俺の期待に反して父上は言った。
「――だが、お前は育ったぞ」
「……はい?」
「レオルもユリウスもだ。三人とも、そんなことを考えて育ててはいない。足に力がつけば立たせた。必要なら歩行器を使った。それで今、三人とも普通に歩いている」
それは、そうだった。
父上の言っていることは父上の知っている範囲では完全に筋が通っている。
兄上たちは走れる。
俺だって走れる。
俺たちが赤ん坊の頃にどれだけ這ったのかは分からない。それでも誰も、這う時間を意識して作ったわけではない。それで三人とも育った。
だったら父上にとっては、今まで問題にならなかったものをなぜわざわざ問題にするのかという話になる。
立てそうなら立たせる。
ぐらつくなら歩行器で支える。
それだけだった。
だから床に両手をついて、好きなだけ動き回らせる場所を用意しようとも思わない。
そもそもこの屋敷では大人も使用人も外を歩いた靴のまま床を歩く。
そこを赤ん坊のための場所にしようという発想からして、俺の知っている育児とは違うのかもしれない。
おくるみと同じだった。
柔らかいから動かしたい俺と、柔らかいから支えたいマルタ。
今度は、這うことで体を使わせたい俺と、動けるなら立たせればいい父上。
「……分かりました」
「何がだ?」
「父上が何を言ってるのかは」
「さっきから俺は同じことしか言っていないぞ」
「……そこが分かったんです」
父上は怪訝そうな顔をした。
たぶん、最後まで伝わっていなかった。
でも俺もようやく分かった。
床が汚いというだけの話ではない。
俺にとっては、赤ん坊が床を這うところから始まっている。
父上にとっては、そこからして別に必要ではない。それなら話が噛み合わないのも当然だった。
それでもリリアにはできるだけ自分の体を使わせたい。屋敷中の床をどうにかするのは無理でも、リリアの小さな手が届くところだけなら何とかできるかもしれない。
書斎を出たあと、そのことを考えながら勉強へ戻った。それから勉強を終えてリリアの部屋へ向かう。
最近、母上は天気のいい日には短い散歩へ出るようになっていた。産後ほとんど部屋から離れなかった頃に比べれば、それだけ体も回復してきたということなのだろう。
その間、リリアを任されることが増えたのがミーナだった。
少し前までなら十二歳の見習い一人に任せることはなかったと思う。
でも青い糸で布を分けるようになってから、マルタから任される仕事そのものが増えている。
いつの間にか、屋敷の中でミーナの存在は少し大きくなっていた。
今日も母上は散歩に出ていた。
部屋にはミーナとリリアだけがいる。
最初は一度だけだった腹這いも、リリアの機嫌がよく、起きている時に限って少しずつ続けていた。
もちろんミーナの条件つきだ。
苦しそうなら終わり。
泣き方がおかしければ終わり。
少しでも顔色が変われば終わり。
俺よりミーナの方が慎重なくらいだった。
母上やマルタに許されたわけではない。
それでも、少なくとも俺とミーナの間では、もう、一度だけ試したことではなくなっていた。
俺が入るとミーナがこちらを見た。
「今日はどうなさいますか?」
「リリアは?」
「先ほど起きられたところです」
「機嫌は?」
「よろしいかと」
いつの間にか確認する順番まで決まっていた。
寝台を見ると、リリアが腕を持ち上げて不思議そうに眺めていた。
「じゃあ、少しだけ腹這いにしてから遊ぼうか」
「少しだけでございますよ」
「分かってる」
「昨日もそうおっしゃいました」
「昨日も少しだったよ」
「坊ちゃまの『少し』は信用しておりません」
ひどい。
でも最近は、そう言いながらミーナの方から大きな布を用意してくれている。
今日はその横に、小さな木の輪が置かれていた。
手のひらに収まるほどの大きさで青銅の小さな鈴が二つついている。揺らせば、ちり、と軽い音が鳴る。マルタがリリアをあやす時に使っているものだ。
「――それも使いたい」
「今度は何をなさるのでございますか?」
「リリアに見てもらう」
ミーナは腹這いの時よりも不思議そうな顔をした。
今日の腹這いを終えて仰向けに戻したあと、鈴の輪を鳴らさないようにそっとリリアの顔から少し離れたところに持っていく。リリアが仰向けのまま目だけを動かして輪を見るまで待ち、ゆっくり右へ動かした。少し遅れてリリアの目もついてくる。
「ほら」
「見ておられますね」
「次は反対に」
今度は左へ。
途中で目が外れたので、いったん戻す。
もう一度動かすと、今度は少しだけ顔までついてきた。
「何をなさっているのでございますか?」
「見る練習だよ」
「見るのにも練習がいるのでございますか?」
「たぶん」
「たぶんなのですか?」
「でも追ってるでしょ」
ミーナは納得していない顔をした。
それでも俺から輪を受け取る。
「このように?」
「もっとゆっくり」
ミーナが動かした拍子に、小さな鈴がちり、と鳴った。
リリアの目が輪を追う。今度は途中で見失わず、最後までついていった。輪を見る目が少し大きくなり、握っていた手がふわりと開く。小さな腕が輪の方へ持ち上がるが、届かない。それでも追いかけるように脚までぱたぱたと動き、仰向けの体を少し揺らした。
「……喜んでおられるのでしょうか」
「たぶん」
「また、たぶんですね」
そう言いながら、ミーナはもう一度輪を動かした。
右へ。
左へ。
さっきよりずっとゆっくりだった。
鈴が鳴ると、リリアが小さく声を漏らした。
「こちらですよ、リリア様」
「ミーナ、楽しんでる?」
「私はお相手をしているだけでございます」
もう一度、鈴が鳴る。
リリアの目が追う。
少し遅れて顔も動く。
ミーナの口元まで緩んだ。
「もう一度いたしましょうか」
「やっぱり楽しんでるよね」
「坊ちゃま」
「――はい。黙ります」
怒られる前に口を閉じた。
床の問題は何も解決していない。
はいはいのことも、父上には結局伝わらなかった。
それでも今は、リリアが見て、動いて、そのたびにミーナが嬉しそうに鈴を振っている。
俺は床へ視線を落とした。
全部を変える必要はない。
この子の手が届くところから考えればいい。
顔を上げると、また小さな鈴が鳴った。




