第二十七話 妹をうつ伏せにしたら泣かれました
しばらくミーナと目が合った。けれどやがて、その視線は俺ではなくリリアの脚へ戻っていった。
布をほどけば曲がる。伸ばして揃えても、手を離せばまた元へ戻る。今まで何度も見てきたはずのものを初めて確かめるように見ている。
俺が前世の記憶を取り戻したばかりの頃、言ったことがある。
死ななくてもよかった子がいるはずだ。
ミーナもあの場にいたらしい。
あの時は俺自身、何ができるのかなんて分かっていなかった。今だって全部分かっているわけではない。だから、分からないことまで分かったふりをするのは違う。
「死ぬことに直接関係するかは、分からない」
「分からないのでございますか」
ミーナがわずかに目を見開いた。
「うん。でも、良かれと思ってやってることが絶対に体にいいとも限らないと思う」
俺が知っているのは、中世では幼い子どもが俺の生きていた時代よりずっと多く死んでいたということくらいだ。
一人一人が何で死んだのかなんて分からない。
だから俺は、知っている危険から避けようとした。
手を洗ってもらった。
リリアに触れる布も、できるだけ清潔なものにした。
この世界の育児の何がどこまで子どもの生死や体の育ちに関わっているのかなんて、俺には分からない。
でも、脚をまっすぐ伸ばしたまま固めるのは良くない。それだけは知っている。
分からないことが多いからこそ、知っている危険まで見なかったことにはしたくなかった。
ミーナは口をつぐんだままリリアの脚に触れている。
曲がった小さな足が動き、踵が指を押した。
やがてミーナは布を握った。
「脚は巻かずに、このままにしておくのがよろしいのですね」
「できれば……」
「――ですが、それはできません」
「……そうだよね」
「奥様がお決めになったことですから」
包み方を変えるのはイルゼに聞いてから。
母上はそう言った。
ミーナが勝手に変えられるはずがないし、俺もそこを押し切るつもりはなかった。
そもそもイルゼに聞けば解決するとも思っていない。
リリアを取り上げた産婆なのだから、赤ん坊について俺よりずっと多くのことを知っている。
でも、あの包み方だって何度も見てきたはずだ。
おかしいと思っているなら、とっくに何か言っているだろう。
ミーナがリリアの脚を揃えかける。
途中で手が止まった。
「坊ちゃまは、ほかにも赤子のことでご存じなのでございますか」
「ほかにも?」
「リリア様のためにできることです」
俺は寝台を見る。
脚だけではない。
腕もよく動くようになった。
指を開いて、また握る。少し前まで寝ているだけに見えたが、少しずつ自分から動くようになっている。
前世でもこんな時期があった。
その頃にしていたことを一つ思い出した。
「あるよ」
ミーナが顔を上げる。
「何をなさるのでございますか」
「少しだけ……うつ伏せにする」
「……リリア様を?」
「うん」
「お腹を下に?」
「そう」
「まだ首も据わっておられません」
「だから起きてる時だけ。俺たちがずっと見てる」
眉が寄った。
さっきまでとは違う。
今度は完全に怪しまれている。
無理もない。
赤ん坊の体は柔らかいから支える。
首が弱いから抱いて支える。
そこへ三歳児が、今度は腹を下へ向けると言い出した。
「何のためでございますか」
「自分で体を動かすためだよ」
「今も動いておられますが――」
「首とか背中も使うんだよ」
「まだ動かせないところを使うのでございますか?」
「無理にじゃないよ。リリアが自分でやるんだ」
「そのようなことをしなくても、大きくなれば動かれるのではございませんか」
「大きくなるのを待つだけじゃなくて、その前から少しずつ使うんだよ」
「まだできないのでは?」
「だから少しずつ使うの」
「……?」
「……」
俺も分からなくなってきた。
前世では当たり前だった。
できるようになるまで待つのと、できるようになるために少しずつ体を使うのは違う。
でも、それをこの世界の人に説明するのは難しい。
「とにかく、無理に動かすわけじゃない。リリアが自分で動こうとする分だけだよ」
ミーナはすぐには答えなかった。
「危なくないのでございますか」
「危なくならないように見る」
「苦しそうでしたら?」
「やめる」
「眠ってしまわれたら?」
「すぐ仰向けにする」
「お顔が下を向いたら?」
「鼻と口が塞がらないように見る」
「泣かれたら?」
「……慣れてなくて泣くことはあるよ」
「それは嫌がっておられるのでは?」
「嫌そうなら戻す。でも、少しくらいなら様子を見る」
「意味があるとは思えませんが……」
ミーナはリリアを見る。
それから扉へ顔を向けた。母上たちが戻ってくるのを気にしているようだった。
当然だ。
十二歳の見習いが、主人の赤ん坊に今まで誰もしていないことをする。
俺が大丈夫だと言っても、怖くないはずがない。
少し前のミーナなら、ここで断っていたと思う。
けれど今は、もう一度リリアの脚を見た。
何度伸ばしても、手を離せば自分から曲げる脚。
それを見たあとでは、知らないというだけで俺の話を切り捨てることもできなくなったのかもしれない。
ミーナは布を巻き直さなかった。
「……一度だけなら」
「いいの?」
「まだ条件がございます」
「はい」
声が少し強くなったので素直に返事をする。
「私が危ないと思えば、すぐに戻します」
「うん」
「坊ちゃまが大丈夫だとおっしゃってもです」
「分かった」
「少しでもおかしいと思えば終わりです」
「分かったよ」
「本当に?」
「それ、俺がよく聞かれるやつだよ」
ミーナは気にしなかった。
「一度だけです」
「はい」
完全に立場が逆だった。
大きな布を一枚用意してもらう。
洗って、よく乾いているものだ。
ミーナが床へ広げようとした。
「そっち――」
「床に触れた面は上にいたしません」
先に言われた。
「まだ何も言ってない」
「坊ちゃまなら気になさると思いました」
片面だけを床へ触れさせて広げていく。
手際がいい。
俺が言う前に分かってくれるようになっている。
少し嬉しい。でも、それを言うと嫌な顔をされそうなので黙っておいた。
「本当になさるのでございますね」
ミーナがリリアを抱き上げる。
「一度だけ」
「それは私が申しました」
「分かってる」
ミーナはいつもよりずっと慎重に、リリアを下向きにして布の上へ下ろし、そっと腹から手を離す。
頬が片方だけ布に押され、曲げた脚がぱたぱたと動いた。前へ進むわけでもないのに、足先だけが忙しい。
俺も隣にしゃがむ。ミーナの手は、すぐ首元へ伸ばせるところにあった。
最初は何も起こらなかった。
リリアは目を開けたまま、少しだけ顔を動かした。
「ふぇ……」
嫌な予感がする。
「ふぇぇぇぇ!」
リリアが泣き始めた。
「戻します」
「もう少しだけ」
「泣いておられます!」
「顔は横を向いてる。口も鼻も塞がってない。あと少しだけ」
「ですが――!」
狼狽するミーナのすぐ下で、リリアの腕が動いた。
小さな手のひらが布を押す。
首がぐらりと揺れる。
次の瞬間、布に押されていた頬が少し浮き、顎がほんのわずかに上がった。
俺もミーナも黙った。
本当に一瞬だった。
すぐに力が抜け、また頬がぺたんと布につく。
「……上がった」
俺の喜びをよそに、ミーナはすぐリリアを抱き上げた。
仰向けに戻されても、リリアはまだ文句を言うように泣いている。
ミーナは鼻と口を見る。
胸の動きを確かめる。
顔色まで見てから、ようやく息を吐いた。
「大丈夫だよ」
「泣いておられます」
「怒ってるだけだと思う」
「坊ちゃまに似たのでしょうか」
「――どういう意味?」
ミーナは答えず、リリアをあやした。
しばらくすると泣き声が小さくなる。
脚がまた動いた。
さっきまで泣いていたのに、もう何事もなかったみたいに蹴っている。
「頭、上がったね」
「ほんの少しでございました」
「最初はあれでいいんだよ」
「次もするとは申し上げておりません」
「まだ頼んでない」
「お顔に出ております」
そこまで分かるようにならなくてもいいと思う。
でも、上がった。
本当に少しだけだったけれど、リリアが自分の腕と首を使った。
前世では何度も見たことがある。
そのうちもっと頭を上げる。
首がしっかりしてくる。
寝返りをする。
腹這いのまま体を動かす。
少しずつ前へ進み、やがて手と膝をついて――。
そこで床が目に入った。
石の床だ。
使用人が歩く。
兄上たちも歩く。
外へ出た靴のまま、みんなその上を歩く。
そこへリリアが手をつく。
右手。
左手。
その手で進む。
そして赤ん坊は、平気でその手を口へ入れる。
「……はいはい?」
この上を?
――無理だ。




